〜 序章 〜
バロック・バンジークスの一言は、この屋敷に住まうもの全員を心を揺るがすものだった。
“検事という仕事からしばらく離れたい”という申し出。誰もがその言葉に対して、反対の意見で出るものはいなく、むしろ同情に似た感情を生み出している。
「《死神》だなんて言われちゃ、誰だって傷付くわよね」
「ひどい話。バロック様は誰とも変わらない、ただ一人の人間なのに」
「でも、あの人の法廷で“無罪”になった人間が片っ端から死んでいるという事実は変わらない」
「本当にそうなの?デマという可能性は?」
様々な憶測が飛び交う中で、一人の女性が震えながら縮こまっている。そのただならぬ様子の彼女に近寄って肩に触れると、彼女は小さく悲鳴を上げ、すぐそばに来た人物に目を向けた。どうかした?と質問を投げかけられた彼女は、また小さく震えながら恐る恐る、と口を開く。
「わ、私のせいだわ。秘書である私が、しっかりとサポートしなかったから…。《死神》と呼ばれるようになってしまったのも、きっと私のせい…。バロック様は何も悪くないもの…。…私のせいよ。……私…の…」
「ちょっと!?」
次の瞬間、彼女はなんの前触れもなく突然その場に、文字通り崩れ落ちた。その音を聞いて振り向いたメイドや執事たちが何事かと集まって、各々が彼女に対して心配の声を掛け続ける。この女性は、バロック・バンジークスの秘書として働いていた、それはそれは優秀な人材だ。彼女は責任を感じたが故に、自身の体調が優れないことにも気付かず、付きっきりでバンジークスの仕事面の世話に徹底していたらしい。周囲に集まったメイドたちの手配により病院へ運ばれていった彼女を見て、これもまた《死神》の影響なのではないか、と噂をするものもいた。失礼極まりない、と話すメイドも、晴れやかな顔はしておらず、そして、倒れた秘書の代わりを用意しなくては、という声がするも、立候補するものもいなかった。
ただ一人を除いては。
「私が…秘書、やります。どこまで出来るか分かりませんけど、やってみます」
声を高らかに上げた一人の人物がまっすぐに手を挙げる。異論を唱える者はおらず、ただまばらな拍手がその場をさみしげに反響して演出した。正直、《死神》という得体のしれないものに関わりたくないと思っている人が大半だろう。しかしその中でも、今のバンジークスへの評判についてよくないと思っている者は何人か存在しているはずだ。
だが、その日から何かが変わる気がした。決していい方向へ進むとは限らないが、それでも、あの人のことを《死神》と呼ぶこの世が許せなかった。それに、バンジークス家には大きな恩がる。少しでもその恩返しが出来たらいい。
ユリアは、そう決意した。この日、ユリアのメイド兼秘書の仕事が始まったのである。
それから1年の月日が経ったある日、体調を崩した前任の秘書が仕事に復帰するとの知らせが入った。秘書というのは決して楽な仕事ではない。スケジュールの調整はもちろん、来客の対応や大事な書類の管理を任されたり、アポイントを取ったり、とにかく目まぐるしくて仕方がない。そこに加えて、兼業のメイドとしての仕事がプラスされる。1年という単位がまさに数日間のことなのではないか、と錯覚させられるくらいには仕事でいっぱいの毎日であった。そんなところに入ってきたその知らせは、ユリアを少しだけほっとしたような気持ちにさせたのである。
「その必要はない」
しかし、バンジークスはそれを良しとはしなかった。事の次第を伝えに来た老執事が目を丸くし、ユリアは聞き間違いでもしたのかと眉をひそめる。
「今のままでいい。……いや、むしろ。彼女に、引き続き頼みたい」
「バロック様…?」
何故と聞きたかったが、バンジークスの様子を見るに真相は話されそうにない様子だった。老執事は「バロック様のご意思を尊重します」とだけ言って退出してしまい、バンジークスは難しそうな顔で窓の外に顔を向けて、赤ワインを品のある動作で煽っている。
(いつか、理由を話してくれるのかしら…)
ユリアはバンジークスの背中を見つめながら、その“いつか”が来ることを期待して、仕事に戻ろうとした、そのときだった。
「無論、おまえが嫌でなければ、の話だが」
「えっ」
声のした方向に顔を向けると、ワイングラスを片手に持ったバンジークスがいつになく真剣な表情でユリアを見つめていた。仕事という厚い壁を通さずにこうして目を合わせて会話するのは、思えばこれが初めてだ。心の中も読み取られてしまうのではないかと思わせるその視線に、ユリアはわたわたと手を動かして目を泳がせる。
「い、嫌ではございません。むしろ、私なんかがお役に立てているようで、大変光栄にございます。こちらからもお願いしたいくらいに…!」
傍から見たら自分の今の姿は相当滑稽だろう。熱が顔に集まって発汗する嫌な感じを受け入れながら、ユリアはメイドドレスの裾をつまんで頭を下げた。あまりに勢いがありすぎて、カチューシャが若干前にずれる。落とすまい、と再び勢いよく頭を上げれば、バンジークスはワインの香りを楽しむようにグラスを揺らして、小さく息を漏らした。
「そうか」
ユリアは心臓が跳ねるのを感じながら、その場に固まった。本当にかすかだが、あのバンジークスが微笑んでいる。見落としてしまいそうな変化だが、言葉を発した声から口角が上がっていることが感じ取れた。動揺して挙動不審になっている今の自分の姿をなんとなく見られたくなくて、ユリアは突然用事を思い出したかのような素振りをして部屋を出ていく。一人になった今、心臓の音が尚更うるさい。どこへ行くわけでもなく早い足取りでバンジークスの部屋から離れていった。
(すごいものを、見てしまったわ……)
あのように笑うことがあるのか、と本人に聞かれたらとんでもなく失礼に当たることを思う。しかし、ユリアはどこかで感じていた“秘書”という重荷から早く逃れたいという気持ちが自分の中から消え去り、それどころか、バンジークスの想いを聞けたおかげで自分の責務に対するとんでもないモチベーションが生まれた、と確信を持った。これからも頑張ろう、と小さく拳を握って、いつの間にかとんでもない場所まで来てしまったその道をくるりと振り返ると、バンジークスの部屋へ戻っていった。
それから4年。物語は動き出す。
バロック・バンジークスが検事として復活を果たし、法廷に立って弁護士と戦う日が戻ってきた。屋敷の者は皆歓喜の表情を浮かべたが、やはりその裏ではどこか陰りがあった。ユリアも、もちろんバンジークス自身も、それに気付いていないわけではない。身内に味方がいないと思わせる錯覚に表情を曇らせたユリアを一瞥して、バンジークスが「おまえが気にすることではない」と言った。ユリアは反射的に顔を上げて、「バロック様も、気にしないでください。お願いします」と返したが、その横顔は他人にとやかく言われることでもないと物語っているように見えて、なんだか申し訳ない気持ちになる。ただの秘書なのに、気を遣われるようなことなどあってはならないのだ。この人に心配されるようなことをしてはいけない、強い人間になろう、と胸の内に強く誓って、拳を握りしめた。
法廷に立つバンジークスを、背後の傍聴席から見守る。相手の弁護士はどうやら留学してきたばかりの日本人らしく、バンジークスにとっては久しぶりとなるこの仕事の肩慣らしには、ちょうどいいと思われる。しかし、この日本人との出会いがバンジークスの人生を大きく変えることになるとは、まだ誰も予想がつかなかったのであった。
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