〜 16 〜
ドビンボーの運命を決する、今日。ユリアは自分の仕事を優先するため、傍聴席へ向かうことなく、執務室へ残ることになった。バンジークスが法廷の資料をまとめて、席を立つ。扉の前で待っていたエスポワールが、バンジークスを通すために扉を開けた。
「行ってくる」
「ご武運を」
ユリアは部屋を出ていくバンジークスに頭を下げる。見送りの際、扉が閉まるまで頭を下げているのがメイドの習わしだ。バンジークスが出ていっても、未だに頭を下げ続けるユリアに、扉から離れたエスポワールが近付いた。
「ユリア」
「はい。……は。え?」
頭を上げたユリアの手を、エスポワールがすくい上げる。そのまま自分の口元に手の甲を寄せて、キスを落とした。
「では、“また”」
目を瞬かせたユリアに、エスポワールは恭しく頭を下げて、何も言わずに部屋を出ていく。どこでそんな作法を“思い出した”のだろう。手の甲に残った唇の感触を感じながら、ユリアは目の前の扉を見つめた。
(……名前、呼ばれた…?)
恐らく、初めて呼ばれたのではないだろうか。3ヶ月も一緒にいたのに、おかしな話だが。エスポワールから用があるときは、常に近くまで来ていた記憶があるので、それもそのはずだった。なんとも言えない喜びのような、寂しさのようなものを感じて、ユリアは眉をひそめた。兎にも角にも、今日の法廷は長丁場になるだろうと、そんな気がしていた。溜まりに溜まった仕事がユリアを呼んでいる。短く息を吐いて、ユリアは椅子に腰掛けた。
午後5時を知らせる鐘が鳴り響いた。さすがにそろそろ判決が出ているだろう、と考えたのはこれで5回目だ。大きく伸びをして、凝った肩を回す。
「はぁ…」
裁判が終わっても、ユリアの仕事は終わりが見えない。途方に暮れるような仕事量にめまいがして、思わず眉間を押さえる。
「ユリア」
扉の方から呼ばれた気がして、ユリアは顔を上げた。扉を見ると、見たことがないシルエットの男性が立っており、不思議に思ったユリアは首をかしげる。
「どちらさま、でしょうか…。すみません、バンジークスは今、裁判中でして…」
「私を知らないのですか」
「え…?…も、申し訳ございませんが…」
席を立ち上がったユリアが、不審そうな顔をしながらもそのシルエットに近付いた。近くまで来ても顔がわからず、扉の奥から差し込む光がまぶしい。
「……《プロフェッサー》と言えば、伝わるでしょうか?」
「え……」
そんなはずは、と思った次の瞬間、鉄仮面に覆われた男の頭部が目の前に現れて、ユリアは驚きに声を失う。男は右手に持ったナイフの切っ先をユリアに向かって突き立てて―――そこで夢は終わった。
(……わ、……仕事中なのに、寝ちゃった……)
寝ぼけ眼をこすったユリアが、時刻を確認した。夢で見た時間とほぼ同じ、針は5時過ぎを示している。目を覚まそうと席を立って、白湯を汲み、喉を通る白湯に目を覚めさせられる。
(変な夢だったけど、夢でよかった)
ユリアはコップを置きながら思った。昨日、久しぶりに聞いた《プロフェッサー》という言葉。それが尾を引いているのだろうか。夢にまで出なくてもいいのに、と良くない寝覚めにふてくされ、席に戻ろうと模型の置かれたテーブルをぐるり、と回ったときだった。ノックもなしに開かれた扉の音に、先程の夢を思い出して固まる。どうか、バンジークスかエスポワールであってくれ、と願いながらユリアはゆっくりと、扉を振り向いた。
「……あの…?」
夢で見たシルエットとはまた違う、背の高く、スラッとした体型の男性が夕陽を受けて佇んでいる。部屋主の不在を伝えようと口を開いたとき、その男性は自らの口元に人差し指を当て、ユリアに沈黙を促した。
「ユリア」
後ろ手に扉を閉めた男性が、橙色に輝く執務室に足を踏み入れた。芯の通った凛々しいその声…何時間か前に、今日、最後に聞いた声だ。ユリアは言葉を失った。“彼”は全てを思い出している、そう確信が持てた。彼の優しげな微笑みが、全て物語っているようにも思えたのだ。ゆっくりと近付いてきた彼を見上げて、ユリアは微笑んだ。
「…あなたの…お名前は?」
彼はユリアの手を取って、目を細めた。その白い手袋越しでも伝わる、何度も繋いできた手の感触を、彼は確かめるように握った。
「……亜双義、一真」
ユリアの目を真っ直ぐに見て、亜双義は名乗った。
「記憶のないオレに、名前を与えてくれてありがとう。“エスポワール”…仏蘭西語で“希望”。オレにはもったいないくらいの名前だ」
そう言って微笑む亜双義に、ユリアは首を振る。“エスポワール”という名前以上に、“亜双義一真”という名前が輝かしい。亜双義はユリアの手を離し、丁寧な動作で頭を下げた。
「…オレはこれから、思い出すことが出来た《使命》のための、準備をします。貴女には、記憶を取り戻すきっかけを、たくさん与えてもらいました。……本当にありがとう」
そう、本題はここからなのだ。ヴォルテックスからの命令とは言え、バンジークスのもとに居るのが当たり前だった彼。その彼が記憶を取り戻し、自分の意思で動こうものなら、もはやユリアには止めることが出来ない。「とんでもないです」と、返事をしたユリアは、わずかに視線を落とした。
「それでは、これで」
くるり、と踵を返して、執務室の扉へ向かう亜双義。扉の開かれる音が聞こえたとき、ユリアは視線を上げて、身を乗り出した。
「あの…!…エス……か、カズマさん!」
扉を押し開けたまま、亜双義は驚いた顔で振り向いた。仮面越しに見ることがなくなったその瞳が、夕陽を受けて輝いている。
「戻ってきます…よね?」
一縷の望みを口にするような、そんな気分でユリアが言った。亜双義は振り返って、ひとつうなずく。
「もちろんです」
よかった、とユリアは安堵して、それから、いってらっしゃい、と見送った。亜双義は会釈をして、ゆっくりとその扉を閉める。パタン、と音を立てて閉まった扉の前で、亜双義はどこかを睨みつけるように目を開いた。“親友”にずっと預けていた、亜双義家に代々受け継がれている名刀《狩魔》。決意を固めるようにその鞘を握りしめ、陽が沈みかけて漆黒に呑まれかけている検事局の廊下を、ゆっくりと歩き出した。
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