昼下がりの士官学校。講習も終わって、教師や生徒たちに自由時間が与えられる。
アレシアは自分が所属している学級の担任であるベレトの姿を見つけると、生唾をごくりと飲み込み、決心したようにその背中に近付いた。
「ベレト先生、ちょっとお話があるんですが……」
振り向き様にふわりと揺れる深緑色の髪、全てを見透かしているような深い青の双眼に、アレシアは魅了されたように目を細める。
(美しい…)
「アレシア、どうした?」
普段から感情がないような人間味がなく口数の少ないベレトが、珍しく不思議そうに首を傾げてそう聞いてきたので、アレシアは我に返ってはっと息を呑んだ。
「あっ、じ、時間があるときでいいので」
「今でも構わない。茶を淹れよう」
丁度誰かを誘って茶会をしようと思っていたところだ、と付け加えて、ベレトはぎこちなく微笑んでみせた。えっ、と声を上げて言葉を失うアレシアに、今度は眉を下げて捨てられた子犬のような、しょんぼりとした顔を見せる。
「茶会をしながら聞く話じゃなかったか?」
「あ!いえ!むしろ嬉しいです!ありがとうございます!」
そう言うとベレトはホッとしたような表情を見せて、先に中庭で待っていてくれと伝えると茶器を取りに自室へ向かった。アレシアは決心した心が揺らぎそうになるのを感じながら、小さくため息をついて中庭へと歩みを進めた。
――――――――――――――
「お待たせ」
上質な盆によく手入れされた茶器と、籠に溢れんばかりの焼き菓子を乗せてベレトが中庭に足を踏み入れた。腰掛けずにそわそわしていたアレシアはベレトに進んで準備の手伝いを申し出ると、卓布を受け取って卓上に敷く。ベレトはテキパキと手際よく茶会の準備を進め、席について茶杯に紅茶をゆっくりと注ぎだした。
「わっ、いい香り」
アレシアが思ったことを思わず口に出してしまうと、ベレトはにこり、と笑った。
「アレシアが好きそうな茶葉を選んだんだ」
え、と声を上げてアレシアは赤面した。ベレトが生徒たちの好みを把握して食事や茶会に誘う、ベレトなりの生徒と親しくなるための努力は既に知れ渡っていることだが、自分のことも例外ではないと知ると少し恥ずかしいものがあった。どうぞ、と勧められてアレシアは両手で茶杯を持つ。口を付ける前に香りを堪能すると、その茶葉特有のふわりとした香りに体全体を包み込まれた気がした。ほう、と息をついて紅茶を喉に流し込むと控えめの甘さがわたわたと落ち着かずにいたアレシアの心に染み渡った。
「……美味しい」
「それはよかった」
ベレトも続いて紅茶に口を付ける。香りと味を同時に楽しむように、瞼を伏せて茶杯を傾けている様子をアレシアは紅茶を飲む振りをしながら盗み見た。
(美しいなぁ……)
焼き菓子も勧められて、アレシアはいただきますと言ってからそれを一枚指でつまみ、口に運ぶ。サクッとした食感とほどよい甘さが口の中に広がり、アレシアは幸せだと言わんばかりの表情で咀嚼した。
「それで、話って?」
口の中が空になってから紅茶をまた飲み、受け皿に戻すのと同時にベレトがアレシアを見ながら言った。美味しい茶菓子に誘惑されていたが、本題はここからだ。
「えっ、えっと……」
茶杯を持つ手に知らずのうちに力が入る。喉の奥が詰まるような感じがして、思うように頭が回転しない。生唾を飲み込んで、声を出そうと息を吸った。
「せ……先生、」
ベレトの顔は直視出来たものじゃないが、言葉の続きを首を傾げながら待っている気配がする。あっちにこっちにと視線を動かしながら、次の言葉を探した。
「す、……好き……、な人って、いますか!?」
アレシアはちがーーーう!!、と心の中で自らの言葉を否定し、勢いよく顔を上げた。驚いた表情をしているベレトに不自然な質問の仕方については言及する様子はない。茶杯を持つ手がカタカタと小刻みに震え出し、それを抑えるために膝の上で握りこぶしを作る。ベレトは顎に指を添えて、そうだな、と考え込み始めた。
「うちの生徒全員、かな。あ、もちろん他学級の生徒も好きだぞ」
「……あはは、そうですよね、なに当たり前なこと聞いてるのかな私」
アレシアうつむいて、茶杯の中の紅茶に映る自分の顔を見る。焦っているような、困っているような、決心が揺らいでいる表情だ。ずっとずっと先延ばしにしてきたのだから、今日こそは言うと決めたのに。下唇を噛んで膝に乗ったこぶしを更に強く握る。ベレトはそんな様子を見兼ねてか、ひとつ咳払いをした。
「一人の女性として好きって意味なら、難しいな……これが好きという感情なら、好きなんだろうな」
「え?」
まさかそんな言葉がベレトの口から出てくるとは思わなくて、アレシアは反射的に顔を上げた。心なしか、ベレトの頬が少しだけ紅潮しているように見える。
「つ、つまり、先生は好きな女性がいると…?」
「……そうなるのかな」
アレシアの中に稲妻が走る。聞かなきゃよかったという後悔と共に、その相手が誰なのかを必死に頭の中で探る思考が働いた。マヌエラか?カトリーヌか?シャミアか?大穴でレアか?目を白黒とさせているアレシアを見て、ベレトはふっ、と笑った。
「アレシアは好きな人、いるのか?」
「わ、わ、私!?」
自分がした質問が自分に返ってくるとは予想もしていなかったアレシアは、心臓が飛び跳ねるのを感じながら、小さく深呼吸して膝下に視線を落とすと口を開いた。
「い、います……すごくすごく、大好きな人」
目の前にいる、と言いたい。言いたいと思うだけで、言葉としては現れなかった。
「そうなのか、初耳だな。相手を聞いても?」
今しかない。アレシアはそう思って勢いに任せようと顔を上げた。しかし、視界に写ったのは制止を表すようなベレトの手のひら。待った、という声も聞こえた。
「当ててみよう」
「ええ?!」
出鼻を挫かれたような、ずっこけたくなるような気持ちになってアレシアは拍子抜けする。ベレトはまた考え込む動作をしながら、同じ学級の生徒や士官学校の教師の名前を次々と出して来るが、アレシアは静かに首を振っていた。
「……アレシアがいいなら、ひとつ、示唆をくれないか」
さすがに生徒ひとりひとりの名前を出して行くには骨が折れるし、難易度が高いと思ったのだろう。ベレトは考える姿勢を解く。アレシアはひとつ頷くと、ベレトの顔をじっと見つめた。
「顔がいいです……」
「顔が……?」
ベレトのきょとんとした表情が伺えた。思ったことをすぐに口に出すのは自分の悪い癖だ。治そうとしてはいるのだが、一項にその努力の結果の兆しは見えない。
(何を言ってるんだ私は……!!)
頭を抱え込みたい気持ちになりながら赤面していると、ベレトの珍しく唸る声が聞こえた。
「さすがに分からないな……答えを聞いてもいいか?」
今度こそだ、これ以降の希望は望めない。アレシアはもう何度目かもわからない生唾を飲み込みながら、スカートに皺が寄ってしまうであろうことも気にしないで裾を握った。
「答え、は……。今、目の前にいる人です」
いつも静かなこの場所に、さらなる静寂が訪れる。間が長い。返事もない。ベレトの様子を伺おうとして視線を上げたら、慌てているようなびっくりしたような珍しい姿のベレトが見えた。それからきょろきょろと辺りを見回して、やがてベレトの視線が一点を捉えると、それからしょぼくれたように眉を落とした。少し不思議なその素振りも、今のアレシアには全くと言っていいほど不審に思う気持ちがない。
「……俺か?」
やっと聞けたその言葉に対して、アレシアは必死にひとつ頷く。人生でこれほどまでに自分の顔が熱くなったことはない。早鐘を打ってうるさい心臓に呼応するように、アレシアは全身が熱くなって不快な汗が吹き出るのを感じた。
「……さっきも言ったが、俺はこの気持ちが好きだという感情なのかは分からない」
ベレトの声音はどこか寂しげだった。ベレトは形こそ人間だが、どこか無機質というか、人間味というものを感じないときが時々ある。それはベレトがこの士官学校に来たときから教師生徒問わず影で言われていることだ。最近、それは本人も自覚しているような素振りを見せているが、ここまではっきりと言われると、同情に似た悲しい気持ちがあふれてくる。ぬるくなってしまった紅茶を一口、ベレトは喉に流し込んだ。
「でも、とても大切にしたくて、守りたくて、同時に……ずっとそばにいて欲しいと思う気持ちがそうなのだとしたら……」
アレシアは続きをベレトの伏せられた瞳を見つめながら待った。そしてそれがゆっくりと開いて、アレシアを見つめ返す。アレシアはドキッとして、思わず背筋が伸びた。ベレトは今までに見たこともないくらい、本当に本当に柔らかく笑顔を浮かべた。
「俺も、アレシアが好きだ。一人の女性として」
さあっ、と風がふたりの頬を撫でる。ベレトの言葉と表情が頭を埋め尽くして、離れない。アレシアは風で乱れてしまった髪をかきあげると落ち着かないように視線を彷徨わせた。
「……どうして、私なんかを…?」
思ったことをまたすぐ口に出してしまったが、単純に気になることだ。アレシアは"なんか"と否定的に聞いてしまったことを少し後悔して、それから無駄に頭を働かせることをやめようと頭を振った。混乱してしまうだけだ。
「アレシアは色んな表情を見せてくれる。見ていて楽しいんだ。もっともっと、色んな表情を見てみたいと思った。アレシアばかりを目で追うようになってしまったことに気付いたのは……」
「せ、先生っ、待って!」
聞いておいて恥ずかしくなったアレシアは両手の平をかざしてベレトの言葉の制止を促した。やはりこの癖は早く治したほうがいい。良くも悪くも、自分だけじゃなく他人にまで多大な迷惑をかける可能性がある。
「では、アレシアが俺のことを好きになった理由を聞こうか」
伸ばしていた手を取られて、卓上で握られる。ベレトは素手ではないが、体温が伝わるには十分な密着度だった。これでは赤くなった顔を隠せない。アレシアはベレトの視線から逃げようと必死に目をそらすが、まるで意味をなしてないように思えた。
「アレシアは照れた顔も可愛いんだな」
「せっ、先生〜っ!」
はは、とベレトの笑い声が聞こえて、アレシアはそれに反応したように顔を上げた。
「笑った顔、初めて見たかも」
「……そうだったか?」
また声に、とアレシアはハッとする。とても貴重なものだったのかもしれないのに、自分の言葉でベレトの表情は考え込むようなものに変わってしまった。
(私も、これから色んな表情を見せてもらえばいいか)
アレシアはにこり、と笑ってベレトに握られた手をそっと握り返した。ベレトは嬉しそうにして、それからアレシアと同じように、にこりと笑って見せた。
「顔がいいな……」
「アレシアも美人だぞ」
「……ハッ」
口は災いの元
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