二人の間を、柔らかな風が通り抜けた。
女子生徒は身に付けているスカートの裾をぎゅっと握り締めながら、俯いて唇を震わせている。
たった5秒ほどの沈黙がやたらと長く感じ始めた頃に、男子生徒がその沈黙を破った。
「すまないが、君の気持ちには応えられない」
脳天から稲妻が直撃したかのような衝撃を受け、女子生徒は反射的に顔を上げる。視界に映りこんだのは、男子生徒の申し訳なさそうな表情。
"ダメだった"。現実を直視させる単語がアレシアの脳裏に浮かんだ。
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「ってことがあってさぁーーー!!」
「だから、最初から結果なんて分かりきってただろ?あいつ、貴族の女にしか興味ないみたいだし」
場所は変わって訓練場。アレシアは、同じクラスで、同じ平民の出の、日頃から仲良くしてもらっているレオニーに鬱憤晴らしというわけではないが手合わせを申し出ていた。
木製の槍を木製の篭手で受け止めると、訓練場に子気味いい音が響く。直ぐさま距離を取って構えの姿勢を取ると、レオニーはそれを一瞥したあとアレシアへ向かって走り出し、雄叫びを上げながらその槍を大きく振るった。アレシアはそれを受け流して回し蹴りを繰り出すと、今度はレオニーが槍の柄でそれを受け止める側になる。
「ま、あんたが本当にあのローレンツに告白するだなんて夢にも思ってなかったけどね」
「そりゃどーも。人生何があるかわからないよ、ねっ!」
受け止められた足を地につかせ、体を思い切り捻って今度は逆の足で蹴りを繰り出す。レオニーは後退しながらそれを避けてアレシアの一瞬の隙を見つけると、喉元に槍の切っ先を突きつけた。少しだけ喉元にめり込んだそれに、アレシアは小さく唸った。
「…………ふぅ。アレシア、今日は終わりにしよう。邪念でもあるのか知らないけど、隙が多いよ」
「……そうだね、ありがとうレオニー」
ふたりは訓練用の武器を教団の指定された定位置に戻すと、訓練場のすぐ横にある浴室へ向かった。辺りはすっかりと暗くなり、食堂の方からは食欲を唆るいい香りがしてくる。レオニーは腹が減ったと言ってさっさと湯浴みを済ませ、大浴場にはアレシアひとりが取り残された。浴室が混むにはまだ時間が早く、周りには生徒がちらほらと居るだけでとても静かなものだった。
(もう一週間経ってるのに、まだ引きずってるんだな、私…)
振られたあとは明るく気丈にふるまってみても、金鹿の学級の一部の面子にはお見通しされているようで、クロードには眉を下げて乾いた笑いをされ、ヒルダにはこれでもかと言うくらいに同情され、イグナーツには相談に乗ると何度も声を掛けられた。その後、ヒルダに街へ連れ出されてローレンツとの関係やどこに好意を寄せたのかなどを茶屋で根掘り葉掘り聞かれたのは記憶に新しい。理由が見出せなくて、気が付いたら好きになっていた、と正直に応えると、ヒルダは可愛らしく声を上げて頬を染めていたのを覚えている。
(ヒルダみたいに貴族の可愛い女の子に生まれたかった)
今だけは産み親を恨みたい。アレシアは頭の片隅でそう思いながら口元まで湯につかり、ぶくぶくと水面を泡立たせながら浴場に備え付けられている時計に目をやった。
レオニーが浴室を出てから既に30分以上が経っている。そろそろ食堂が空いて、代わりに浴室が混む時間だ。アレシアは慌てて湯船から出ると急いで体を洗い流した。
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全身がやけに熱り、足元がふらふらと覚束ない。
「のぼせた……」
ぼうっとする視界に気を取られながらアレシアはなんとか浴室を出て外気に身を晒した。向かいにある長椅子までなんとかたどり着くと、崩れるように座り込んで空を仰ぎ見る。こういう日に限って無風だ。はあ、と息を吐いて熱った頬に自らの手のひらを当てるが、どこもかしこも熱を持っていて熱の逃げ場が無い。すぐ近くの井戸水で顔でも洗おうと立ち上がったとき、激しい立ちくらみで視界が傾いた。
「危ない!」
「わっ」
士官学校の制服特有の金属の冷たさと、上質な布の柔らかさがアレシアの顔面に当たる。自分は倒れかけて抱きとめられたのか、と判断すると、咄嗟に抱きとめてくれた生徒と距離を取ろうとして、また後ろに倒れかけて、生徒に肩を掴まれた。
「体調でも悪いのか?」
ものすごく聞き覚えのある声に、アレシアは反射的に顔を上げる。そこには今一番会いたくないような、会いたいような人…、ローレンツがいて、体温が更に上昇した。浴室の明かりの逆光になっているが、風呂上がりなのか普段はぴっちりと整えられている髪型も少しまとまりがないのがよくわかる。武器を持たない状態でここまで人と接触するのは初めてで、頭の回転が追いつかないままのアレシアが目をぱちくりとさせると、ローレンツは心配そうに潜められた眉を更に潜めて眉間のシワを深くしていた。
「とにかく座りたまえ。それと、その布をこちらに」
アレシアはわけもわからず長椅子に再び腰掛け直し、肩にかけていた手拭いをローレンツに差し出す。それを受け取ったローレンツは井戸まですたすたと歩いて行くと水を汲んでそこに手拭いを浸した。十分に冷水を含んだ手拭いをよく絞り、またすたすたとアレシアの元に戻ってきてそれを差し出した。
「ひとまずこれで冷やすといい」
アレシアはまた目をぱちくりさせながら、素直にお礼を言って手拭いを受け取る。どうして平民の私に優しく接してくれるのか、本当にローレンツなのか、などといった疑問が頭の中を駆け巡っているが、今はただ、冷やしてきてくれた手拭いを額に押し付けながら、何故か目の前で膝をついてこちらの様子を見てくるローレンツから目をそらすことしか出来ない。
「大事ないか?あまりにも辛いようだったら医務室に…」
「だ、大丈夫!ちょっとのぼせただけだから」
この状況から逃げ出したい気持ちと、ローレンツが自分に意識を向けてくれて嬉しい気持ちがせめぎ合う。入浴したばかりだというのに嫌な汗が出てきた。ひとりであたふたとしているアレシアを尻目に、ローレンツはふむ、と納得がいったような声を漏らすと膝をついた体勢のまま背中をアレシアに向けた。
「では、水分補給をしたほうがいい。食堂へ行こう」
「え」
まるでおぶされと言わんばかりの格好に、アレシアは度肝を抜かれる。持っている手拭いを地面に落としそうになりながらどうしていいかわからなくなっていると、ローレンツが痺れを切らして顔だけ振り向いた。
「どうした。その体では歩けないだろう。遠慮なんていらない、さあ乗ってくれたまえ」
「いや、でもさすがに……」
そうこうしているうちに、食事を終えた生徒たちが明かりを持って教室のほうから次々とやってくるのが見えた。ローレンツはやれやれ、と小声で呟くと立ち上がってアレシアの前に来るなりその手を引いて長椅子から立ち上がらせる。
「嫌だと言うなら、担ぎ上げて教室の前を突っ切っていくが」
そう言うや否や、アレシアの背中と膝の裏に手を回したローレンツに、アレシアは慌てて背中でいいと返事をした。
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ローレンツは気を利かせて、ひと気の少ない寮のほうから食堂へ回り道をしてくれた。道中はほとんど真っ暗でなにも見えない。月明かりとちらほらと明かりのついた教室や寮からこぼれる明かりを頼りに歩いているような感じだ。アレシアはローレンツの背中に乗りながら、がちがちに固まっていた。どうしたって体重を軽くする方法なんてものはない。それならばせめて、とアレシアはローレンツの背中から上半身を離していた。
「……アレシアさん、そこまでして僕に触れたくないのか?背負いにくくて仕方ない」
「え!ごめん!そういうわけじゃなくて!………というか、……」
言われて初めてアレシアはローレンツの肩をしっかりと掴んで重心を前に移動させる。ローレンツは不思議そうな声を出して言葉の続きを促しながら、足元に気をつけつつ階段を降りた。
「どうして、こんなに良くしてくれるのかなーって…。私、平民だし……」
一度告白をして振られた身でもある、という言葉は言えなくて飲み込んだ。なんだそんなことか、とでも言うかのように、ローレンツは「ああ」と声に出す。
「同じ学級の生徒なのだから、助け合うのは当たり前ではないかな」
相手がアレシアさんじゃなくても今回みたいに助けるよ。と付け加えて、ローレンツはアレシアを背負いなおした。
「……そっか」
相手にとって自分はそれ以上でもそれ以下でもないと、再確認させられた瞬間だった。しかしアレシアはそれと同時に、まだ機会はいくらでもあると言われているようで少しだけ嬉しかった。学校生活はあと半年もある。ローレンツのことをもっと知りたいし、自分のことももっと知ってもらいたい。たまに働く肯定的思考だが、アレシアは諦めないことにした。
ローレンツの肩口にそっと頭を預けた瞬間、少しだけその肩が跳ねたのは、気の所為じゃなかったと思いたい。
広い背中
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