※現代パロディ
暗闇に包まれた街を、冷たい色の街頭が照らしている。冷えきった空気が頬を撫で、身震いしそうになる体を縮こませながら、ローレンツはその手に持った鞄から車のキーを取り出してそそくさと車内に身を滑らせた。風は凌げるが、それでも車内は外と同じくらいに冷えきっている。セルを回して、車内が温まるのを待つ。今日も疲れた。帰宅するのも面倒になるほど疲労が溜まっているのがわかる。帰ったらなにもしないで寝てしまいたい。けれどそうしたら、変な時間に空腹で目を覚ましてしまうのは目に見えている。小さくため息をついて、ローレンツはシートにその身を任せた。窓ガラス越しの夜空には星が瞬いていて、月に寄り添うような雲が浮かんでいる。疲れきった体に皮肉なほどその眩い光が降り注いで、染み渡る。星になれたら楽になれるだろうか、なんて不吉なことを考えていると、不意にスマホの振動音と聞き慣れた着信音が自分の鞄から聞こえた。鞄のサイドポケットからそれを取り出し、ディスプレイに目をやる。それから特に何も考えずに画面をタップして通話に出ると、電話の相手が少々騒がしい場所にいるのか、騒音が耳に入った。
「もしもし?今帰り?近くのコンビニにいるからさー、乗せてってー」
間延びした声が電話越しに耳へ届く。なるほど、この騒音はコンビニ店内のものか。ローレンツはシートに預けていた体を起こして座り直し、ふう、とため息混じりの声を出す。仕事疲れの影響なのか、突然襲ってきた緩やかなめまいに目頭を押さえた。
「……今夜はコンビニ弁当か?」
余程のことがない限り、彼女は食事に関しての手抜きはしない。それも自分の体を気遣ってのことだろうと、ローレンツはよく知っていた。冗談交じりにそう聞いてみると、電話越しの彼女は、あはは、と軽く笑う。
「違うよぉ、洗剤が切れちゃったの」
あとお菓子も買っちゃった、と、どこか子供っぽい声音でそう言う彼女の表情を想像して、ローレンツは口元に笑みを浮かべた。
「わかった、迎えにいく。今夜は冷えるから中で待っているんだ」
眉間を揉みほぐして顔を上げる。握ったステアリングはまだ冷たい。ありがとー、と相変わらず間延びした声を最後に通話が切れたのを確認すると、ローレンツはスマホを元の位置に戻し、シートベルトを締め、ハンドブレーキを下ろしてアクセルを踏みこんだ。
ローレンツの車がコンビニの駐車場に着くと、店内から外の様子を見ていたアレシアが飛び出すようにコンビニから出てきた。片手にビニール袋をぶら下げて、冷たい空気と共にアレシアが車内に体を滑り込ませる。アレシアの服装は、この寒さの中では不釣り合いなほど薄着に見えて、ローレンツは思わず顔をしかめた。
「風邪を引いたらどうする」
「走ったら暑くなるだろうと思って」
来てくれてありがとう、とアレシアは特に悪びれる様子もなく笑ってシートベルトを締めた。君という人は…、と半ば呆れ気味に呟いて、ローレンツは再びアクセルを踏み込む。
「雪降るのかな」
流れゆく景色と空模様を見ながらアレシアがそう言った。先程までは星空が見える程度には晴れていたのに、急にぐずついた天気になってきている。
「今朝見た予報では曇りだったが」
「そうなんだー」
そんな他愛のない会話をしているうちに、二人が住むマンションが見えてきた。たったこれだの距離だが、外の気温が気温なだけに、徒歩で行き来するのは体に悪そうだ。指定の駐車場に車を停めると、アレシアはローレンツの支度を手伝ってから外へ出る。寒っ!という声と、マンションの入り口に向ってパタパタと掛けていく音がドア越しに聞こえる。ローレンツは、エンジンを止めてアレシアのあとを追うように外へ出た。刺すような寒さに思わず息が漏れ、鞄を持っていないほうの手をコートのポケットに入れる。エレベーターの前で手を擦り合わせながらローレンツの到着を待つアレシアが、はやくはやく、と唇の形だけで伝えて上を指した矢印のボタンを押した。エレベーターの到着とほぼ同時にローレンツが入口の自動ドアをくぐり、アレシアは先にエレベーターの中に入って5の数字を押す。駆け足気味にエレベーターへ入ってきたローレンツの腕に、アレシアは暖を求めるかのように抱きついた。いつも通りの日常的なスキンシップだが、疲労が蓄積しているのが原因なのか今日のローレンツにはそれが少しばかり煩わしく思えた。いつもなら何かしらの反応を示すローレンツだが、今日はやけに静かというか、反応が薄いと不思議に思ったアレシアは、ローレンツの横顔を盗み見て、それからエレベーターのアナウンスが5階を知らせる案内と共に扉が開くのを見ると、その腕から離れて一足先に自室のあるドアへと向かう。ポケットからカードキーを取り出して開錠し、慌ただしく部屋へと入り込む。その一連の流れを見ていたローレンツは小首を傾げて、今しがたアレシアが入っていった自室のドアを引いた。
「おかえりなさい!」
入ってまず最初に目にしたのは、エプロン姿のアレシアとその飛び切りの笑顔だった。ローレンツは目をぱちくりさせて、彼が大好きなアレシアの笑顔に自然と表情が緩む。
「ああ、ただいま」
コートや手荷物を預けて革靴を脱いでいるさなか、背後でコートをポールハンガーにかけている気配がする。そこまではいつも通りだ。しかし今日は、ローレンツが立ち上がって振り向いてもアレシアはそこから動こうとせず、手元をもじもじとしながらなにか言葉を探しているような様子を見せていた。
「…………ご飯にする?お風呂にする?……それとも……」
アレシアはもじもじと動かしていた片方の手の人差し指を自分にさした。
「わっ……わたし?」
ローレンツは一瞬仰天して、それから思わず吹き出すように笑った。アレシアの顔は真っ赤だ。どこで覚えてきたんだそんなセリフ、と言いたくなる気持ちをおさえて、ローレンツはアレシアに近付くとその腰を引いて唇にキスを落とした。肩がびくりと跳ねる。何度か唇を啄んでから離れ、ローレンツがそっとその頬に触れると、アレシアはどこか怯えるように瞳を揺るがせた。このまま喰らってしまいたい欲求を一度落ち着かせながら、口元に弧を描く。
「そうだな…、では、夕飯を食べよう」
「……え、あ……ゆ、夕飯ね……」
度肝を抜かれたような表情をして消え入りそうな声音でそう言ったアレシアに、ローレンツはくつくつと笑って洗面所へ向かう。アレシアは高鳴る心臓をおさえるように胸元で拳を握り、リビングへと向かった。
既に作られていた夕飯の香りで充満しているリビングに入り込むと、"帰ってきた"感じがして体から一気に力が抜ける。テーブルの上には主食のシチューやラスク、様々な野菜を使ったサラダやデザートの果物などが所狭しと並べられていた。部屋着に着替えたローレンツが着席すると、アレシアもエプロンを外してそれに続いた。美味しそうだ、と素直に思ったことを言うと、アレシアは照れくさそうににっこりとわらって、愛情込めたよ、と言った。
「明日、休みだよね?」
食後。アレシアは食器を洗いながら振り向かずにローレンツへ問いかけた。ローレンツは風呂に入る準備をしながらその問いに、ああ、と一言だけ答える。
「疲れてなかったら、どっかいく?」
「……というと?」
アレシアは食器を洗う手を一旦止めて振り向いた。ローレンツもそれに気付いて視線を上げる。
「デートしよ」
屈託のない笑みでそう言うアレシアを受けて、ローレンツはふむ、と考えこむ。言われてみれば最近は仕事に追われて休日出勤もやむを得ないこともあり、アレシアと出掛けることがほとんどなくなっていた。駅前にアレシアがすき好みそうな店が出来たという情報もつい昨日、職場の女性たちが話しているのを聞いたばかりだし、そこに行くついでにショッピングやお茶を楽しもうと提案しかけたところで、アレシアがカレンダーを見ながら、あ、と声を出した。
「でも明日って安売りの日だー、あちゃー」
食器を洗い終えて蛇口を締めると、アレシアはエプロンで手を拭いて懐からスマホを取り出し、メモ帳を開く。
「ワイシャツ買わないとって言ってたよね」
買いに行かなきゃねー、と慣れた手つきでメモ帳に買うものを打ち込んでいく。周りを見渡して、なにが不足しているかを確認しているその背中を見て、ローレンツはひとつ気付いたことがあった。彼女も自分と同じように、昼間は仕事をして、夜に帰ってくる。自分よりその時間は短いが、帰宅後に家事をやっている分、仕事量は断然自分より遥かに上だ。それなのに休日も友人等と遊んでいる様子も見せず、今のように買い出しや家事を優先して身の回りに不便がないように考えてくれている。さっきのエレベーターを降りたあとの行動だってそうだ。きっと自分が疲労しているのを見抜いて、気を遣ってくれていたに違いない。彼女のほうがよっぽど疲れているだろうに、それに今頃気付くとは、自分はなんて情けないんだ。―――――と。
「えーっと…あとキッチンペーパーと……あ、あと来客用のスリッパも新しいの買わなきゃ……」
ローレンツは、考えながらぼそぼそと呟くアレシアの背後に近寄った。
「アレシア」
「ん?」
くるりと振り向いたアレシアの、スマホを持っていないほうの手をすくうように取る。そのままそれを自らの顔に寄せて、それから少しだけカサついたその手の甲にキスを落とした。
「……結婚しよう」
「……へ?」
考えるより先に声が出た。ローレンツは、いずれそうなりたいと常日頃から考えて、ずっとそれに相応しい言葉を思案していた。だがどうだろう。実にストレートで、一番伝わりやすい言葉が口から紡がれていて、長い間考えていた蜜より甘い台詞は脳内から完全に掻き消えていた。アレシアは呆然としながら、投げかけられた言葉を頭の中で再再生している。
「……え、……え?……い、今なんて?」
自分の耳を疑っている口振りでアレシアはローレンツを見上げた。ローレンツは至極真剣な眼差しのまま、その場に膝をつく。当然目線も下がるわけだから、今度はアレシアがローレンツを見下ろす番になった。
「きみの将来を、僕に預けては貰えないだろうか」
その言葉の意味をやっと理解したかのように、アレシアは分かりやすく顔を赤らめて目元に涙を浮かべた。それを隠すようにスマホを持った手の甲を口元に移動させる。
「えっと、えっと……」
今にも嗚咽が聞こえてきそうな震える声に、ローレンツは立ち上がってアレシアのその体を引き寄せる。スマホを取りこぼしそうになって、アレシアは慌ててそれをまた懐にしまった。ローレンツは自分よりふたまわり以上は差があるその小さな体を優しく包み込むように抱擁をして、アレシアの髪を梳くように、撫でる。愛おしさが溢れて止まらない。
「……すまない。こんな所で話す話題ではなかったな」
近いうちにきちんとした場所で話そう。ローレンツはそう言って体を離した。アレシアはそれに対してほぼ反射的に、ローレンツの着ている服の袖に手をかける。今度はローレンツが驚く番で、アレシアは生唾を飲み込むとそろりそろりと視線を上げた。
「こんな……私でよければ、是非」
語尾に向かうほど声が小さくなっていく。ローレンツと混じり合う視線に耐えられなくなって、上げていた顔をゆるゆるとまた下げていくアレシアの頭上で、ふっ、と笑い声のような吐息が聞こえた。
「そうか」
ローレンツは心底安堵したような表情を見せて、そうと決まれば、と言いながらアレシアの体を軽々と横抱きにした。アレシアは短い悲鳴を上げて、ぎょっとした顔でローレンツを見る。ローレンツの口元には綺麗な弧が描かれていた。
「え、待って、どこいくの」
「寝室だが」
そのまま歩き出したローレンツが、それとも風呂がいいか?と言って足を止める。その表情はどこか楽しげで、それがただ風呂に入るという意味ではないと理解したアレシアは、途端に頬を赤く染めてそのままジタバタと足を動かした。
「お風呂入る準備してたんじゃないの?ちょっと……」
「先にアレシアをいただこうと思ってな。その覚悟で先程はあんな質問をしたんだろう?」
あんな質問とは、玄関先で"わたし?"と言ったことだろう。アレシアはもちろん冗談のつもりで言ったが、どうやらローレンツの気分に火をつけてしまっていたようだ。
「さ、先にお風呂入らせて!」
アレシアの叫びも虚しく、ローレンツは器用に寝室へ続くドアを肘で開けてそのまま寝室へ足を踏み入れた。ふたりが甘い甘い蜜月を過ごしたのは、また別のお話……。
僕と私
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