8 | ナノ
※ネタバレあり

 切欠は些細なことだった、などという語り出しはほとんど使い古されていて私の感性にはあまり感動を与えないものだ。それでも私たちの「切欠」はほんの「些細なこと」でしかなかったので、不快に思うならこう言い表さざるを得ない私の言語力を詰ればいい。

 私がアニ・レオンハートの存在を知覚したのは、訓練兵となって既に数か月が経って、徐々に脱落者や死人が出てきた頃だった。寝起きしていた四人部屋に私しか生活する人間がいなくなり、私は部屋の移動を言い渡された。その時に同室となったのがアニで、私はそれまでどの教科でもそこそこに優秀であった彼女の名前も、顔も知らなかった。
 自己紹介で始まった会話は特に続くことなく、名前と出身地を述べた私はまるであの通過儀礼を今更受けているような気分になったものだ。お互いに二言で途切れた言葉はそのまま尻切れ蜻蛉になって、私たちは翌日に備えて貪るような睡眠を摂った。

 翌日から、より正確に表現するならばアニを認識して彼女を視界に入れるようになってから、私の世界は凄まじい勢いで動き出した。
 アニは賢かった。強かった。小柄ながらもスタミナがあって、膂力も知力も十二分。それでも他人との間には常に一線を引き続ける、さながら美しい狼だった。
 私はアニの孤独な、美しい姿を守ろうと思った。彼女が彼女たるためには、アニの領域を侵す存在があってはならない。彼女の世界の形を変えるのは、たとえば僅かながらも彼女が心を許したミーナだとか、アルミンだとか、そういった人間だけで良いと思った。それ以外は、アニが望まない形に世界を変える存在ならば、その存在をやさしく取り除こうと誓った。

 幸いにもアニの領域内に近付くことを許された私は、それからの二年間死に物狂いで成績を伸ばした。同点十位。訓練兵になってから初の評点通知でほぼ全科目で十点中五点未満であった私が、血を吐く思いで手に入れた順位だ。アニが憲兵団へ行くならば憲兵団へ、駐屯兵団なら駐屯兵団、調査兵団ならば調査兵団へ。一番近くで彼女の世界を守るための私の思いはしかし、呆気なく打ち砕かれた。
 トロスト区での攻防戦で絶望と混乱の極みにあった私たちも、容赦なく配属兵科を問われた。私は十位だ、去っていく彼女の背を追いかける権利を有する。――しかし私の肩を押さえる手、肩どころか全身が軋むような力に眉根を寄せた。身動きのとれない私を顧みることなく、彼女は、アニは立ち去っていく。手をどけて、私は押し殺した声で言ったが終ぞその願いは叶わなかった。
 肩を握るアニの昔馴染だという彼には殺意を抱いたが、ミカサに諌められ、サシャに泣きつかれた私はアニに文句を言われたものの、調査兵団への入団を余儀なくされた。そうして私は、第五十七回壁外調査に参加した。


「……馬鹿だなぁ」

 右翼側三列五・伝達。凄まじい速度で駆け抜けて行った十四メートル級の巨人、その背後を付かず離れず馬を駆りながら私は眉をひそめた。私は黒の煙弾を既に撃っているから、あの巨人の許に大勢の先輩方が近づいて、討伐しようとしているのを知っている。そして、それが恐らく、何の成果にもならないだろうということも。
 索敵班が壊滅だなんて、そんなことは当たり前なのだ。丸みを帯びた女性的な身体つき、記憶の中の姿とぴったり重なるランニングフォーム、何より私を一瞬だけ視界に捉えた、あの目は。

「本当に馬鹿だよ、アニ」

 私がアニ・レオンハートを認識できないはずがないのだ。どんな姿であれ、どんな形であれ、私がアニを見紛うはずなどないのだ。
 私は彼女を追いかける。彼女が殺されないように、彼女の世界が邪魔されないように、……そうだ私が人類に心臓を捧げていたのなんて、たったの数か月だけなのだ。何も知らず、アニを知らず、並以下の訓練兵に過ぎなかった私なのだ。失った心臓は取り返せなかった、私は何やかんやと理由をつけて調査兵団に入ってしまったのだから。

「無事か!?」
「はっ!」
「ならば最高速度で馬を走らせろ、四列三班の場所はわかるな! 俺はあの奇行種を片付ける、お前は三班に合流しろ!」
「了解!」

 私は先輩にあたる調査兵の背を見送る。あれが彼の最期の背中だ。彼がアニに勝てる可能性など、万にひとつもありはしないのだから。何も知らない顔で目を背けて、私は人類の裏切り者になる。構わない、アニの世界が壊れないならば。私は彼女に心臓を捧げられない代わりに、この心を彼女に手向ける。


「あんたは馬鹿だね」
「……アニがそう言うなら、そうかもね」
「そういうところがだよ、ナマエ」

 いいや、違うよ。私は確かに馬鹿だったかもしれない、それでも最も憐れまれるべき愚者はあなただよ、アニ。
 水晶体の中で眠るアニに手を伸ばす。アニの世界はもう壊れない、もうこれ以上形を変えることはない。そのことに安堵しながら、私は半刃刀身を持ち上げた。



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