8 | ナノ
 足を怪我してから、よく同じ夢を見る。

 そこは決まって、地面が丸くなるまで続く、青灰色の水たまりだ。おかしなことにその水は、絶え間なく白い砂を舐めとり続けている。
 壁もない巨人もいない、広大な場所。

「あなた海を知らないの?」

 リヴァイにそう声をかけてきたのは、白い砂の上に佇む東洋人だった。
 その女はいつも海のそばに存在していた。本当に、存在していたという表現がしっくりくる。

 女は、地下街の市場で何度か見た東洋人とも、リヴァイの知るどこぞの新兵とも異なっていた。
 戦闘能力や容姿のようなものではなく、今まで見てきた人間とはもっと本質的な何かが違う。

「夢か……これは」
「あなたがそう思うなら、そういうことにしようか。頬をつねるなんて野暮なことはしないよ」
「……しかし俺の想像にしては妙な女だな」
「妙な女、はは、違いない。言い得て妙だね」

 その何かとは何か。

「海」を訪れるたびに考えを巡らせてみるものの、リヴァイはいまだ結論を出せないまま、靴底の砂の感触に舌打ちした。

「今日で三回目か」
「あ?」
「あなたがここに来るのは」

 初めて会ったのは一週間前の深夜。二回目は五日前の夕方。三回目は今、この朝まだき、と指折り数える女に「よく覚えてるな」と言うと、女はリヴァイに笑顔を向けた。

「そりゃあ、母親と知り合いの命日だもの。よく覚えてる」
「……そうか」
「ふたりが死んだあと、ここでふて寝していたらあなたが寝てて、起きて、喋って、背中を向けるとあなたは消えるの、いつも。まるで死神みたい」

 リヴァイは女をまじまじと見つめた。
 微笑みの向こうに悲しみを感じ取ることはできる。しかし、それを支えている何かが分からない。

 その何かとは何か。

「はっ……面白ぇこと言うじゃねぇか」
「なぜ、否定しないのだろう」
「しねぇよ。理由も、根拠もねぇしな」

 女が母親を亡くしたという2週間前、リヴァイが指揮した班は指揮官を残して全滅した。

 死神と言われてしまえばそれまでだ。
 班員が死ぬ理由も、リヴァイが生き残る理由も、リヴァイが持つ人類最強という大鎌にある。

「それは、根も葉もないってこと? それとも、言い返せないってこと?」
「どうだろうな……お前は、どう思う?」

 砂の上で足を伸ばしていた女は、ゆっくりと立ち上がった。雑な動作で服についた砂を払い、そして、紫色の海を見る。
 妙な匂いのする風が、女の黒髪を揺らした。

「わたし、初めて会ったときのあなたの顔を忘れられない。砂浜で一センチも動かないで、ただ海だけを見てるの。生まれて初めて見たみたいに。でもね、」

 そこにあったのは、悲痛な憧憬だった。
 海を目にすることも叶わず、無為に死んでいった兵士への悼みだった。
 言われてみれば、二回とも多くの死体を目にした日だった。

「だから、さっきの質問自体が答えだとわたしは思う」

 女はそう言い終わると、リヴァイに向き直った。
 少しだけ低い位置から、強い眼差しを感じる。女はリヴァイの言葉を待っていた。

 しかし、リヴァイはそれを知りながら踵を返した。

「おい……背を向けたら消えるんじゃなかったのか」
「あなた黙って帰る気?」
「お前こそいつまでも死神とくっちゃべっていたいのか。今日だって、お前の持論を借りれば、誰かが死んだんだろうが?」

 少し間があって、女は淡々と答えた。

「猫。母親の猫がさっき、庭で丸まって死んでいた。でも、こうしてふて寝すれば少しは悲しくなくなるんだ」

 背中ごしの声は微動だにしない。言葉の端々から「仕方ない」と言っているようで、どうしようもなく苛立ちを覚えた。

「母親のときも知り合いのときもそうしてきた、なんて言うんじゃねぇだろうな」
「もちろん、そうだよ」
「……そりゃ世話ねぇな。ずいぶんと、安い悲しみなこった」

 リヴァイは少なからず失望していた。
 未知であることで一種のきらめきを持っていた何かは、五年前、壁内で巨人を見たときに、脳裏をよぎったものと同じだった。

 二歩目を踏み出しながら、リヴァイは眉をしかめた。まだ海は目の前に横たわっている。

「たしかに、そう言われても仕方ないかもしれない。悲しみに抗って、どうすればいいのか、わたしにはよく分からない」

 女は、すべてを受け入れる。
 近親を喪ったことも、自分の涙も、死神も巨人の侵入も人類の滅亡も、すべてだ。
 リヴァイにとってそれは、拠り所としていたものを根底から覆すものであり、許されないものだった。

 ずぶり。靴底が傾いて、白い砂が足裏を滑る感触がする。リヴァイはまさに三歩目を踏み出そうとしていた。

「だけどね、安くなってしまったのは、あなたのせいだ。寝れば救われると思わせたのはあなただ。わたしよりずっと悲しそうな顔したあなたと話していると、わたしは、安心した」

 最後の方はほとんど叫び声に近かった。
 リヴァイは身動きひとつ取れずにいた。誰かの言葉に鳥肌が立つなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。

「下には下がいるってか……最低な奴だな」
「知ってるよ。その上で言った。だから、あなたにどう思われても受け入れるしかない」

「ならば言うが……共有していると思っていたのは俺だけか? 」

 背後で女が息を飲んだ。これは夢なのか、そんなことはもう問題では無かった。
 リヴァイは女の顔を見ようと、後ろを振り向いた。


「あーもうっ、どこ行きやがったあの野郎……面倒くさいなあ」

 反転した視界で、リヴァイは天井を見つめていた。
 上体を起こしながら、そういえばソファで仮眠を取っていたことを思い出す。
 海だった場所に格子窓が、女が立っていた位置にハンジの後ろ姿があった。間違いなく、リヴァイの部屋だった。

「そこは『怪我人だから』って言う場所だろうが……」
「うわああっ!?リヴァイ、いつの間に!?」
「あ? お前とうとう失明したか。ずっとここで寝てたじゃねぇか」
「さすがに私の目もそこまであんたを拒否ってないよ……って、やっぱり窓から入ってきたんだろ。床、砂だらけじゃあないか」

 おいおい、どういうこった。

 珍しいことに、汚いはずの靴も気にならず、リヴァイは無意識の内に口角すら上げていた。



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