8 | ナノ
時計の針が午前0時を指し示す頃、とある一室だけ窓からほんのりと明かりが漏れていた。そこから何やらひそひそ声が聞こえてきてまるで秘密の対談でもしているようだ。突然、怒りを露わにした男の声が窓ガラスをびりびり振動させた。
「野郎!とぼけた面しやがって!!」
「だからいちいち切れんなよ!!」
「ああ!?」
二段ベッドの上でジャンがエレンの胸ぐらを掴んでいる。エレンの隣にくっつくように座っているミカサが呆れたようにため息をついた。ジャンにとって、たとえミカサが呆れたとしても、その対象が自分ではなくエレンにあることが何より気に入らない。何でもいいから自分に目を向けて欲しい、ジャンはやけくそになってそう心の中で吐き捨てた。
「二人とも落ち着いて、寝ている人もいるんだから」
アルミンが間に割って入って二人は渋々それに従う。エレンは去り際にジャンを一瞥した後、対談が行われている二段ベッドから部屋全体を見渡した。薄暗い部屋。向かいの二段ベッドには寝ている者達が見受けられる。少数派だが、顔まで布団の中に潜り込んでいる所を見ると相当今この部屋は寝つきにくいようだ。
「ところで…どうしてミカサがいるの?」
アルミンがエレンを凝視しているミカサに話しかける。ミカサはちらりとアルミンを見ただけでまたエレンに向き直って答える。
「こんな夜遅くにエレンが呼び出されるなんて、怪しいと思ったから」
目を丸くして聞いていたアルミンがミカサの心境を読み取って苦笑いを浮かべる。ジャンの方を振り返ると彼は鼻を鳴らしてそっぽを向く。ミカサからは疑い深そうな目で見られ、ジャンは素知らぬ顔を決め込まれている。アルミンはどっちにつけばいいのか分からなくなり、結局は誤魔化すことが一番平和に済むだろうと結論を出した。
「ジャンが明日の訓練のことでエレンに相談したいことがあったんだって。だからミカサが気に病むことは何一つないよ」
詳しく言えばミカサの恋愛絡みだが、敢えてぼかしてしまう。ミカサはそれを聞いて納得のいかない表情をしていたが、アルミンが厄介な仲介役を引き受けていることに気づいてそれ以上問い詰めなかった。アルミンはひとまずミカサの脅威を回避できたことに安堵する。するとさっきから事をアルミンに任せっぱなしでいたジャンが声を上げた。
「何でお前らが居るんだよ」
ジャンが二段ベッドから乗り出して指差す方を見てみると、クリスタ、ユミル…それにライナーまでも下の段でくつろいでいた。最もくつろいでいたのはユミルだけでクリスタとライナーは居心地悪そうにしていた。クリスタは上からジャンが見下ろしているのに気づいて慌てて答える。
「本当はね、まっすぐ自分達の部屋に帰るつもりだったの。でもこの部屋だけ明かりがついているのはおかしいって…ユミルが…言うから」
「…付いてきた訳だ」
ここは男子部屋だぞ分かってんのか?と言いたげな目をジャンはクリスタではなくユミルに向ける。俯いて顔を赤くしている彼女を責めることなんて誰が出来ようか。ユミルはジャンの視線を不愉快そうに受け止めると、黙り込んでいるライナーへ顎をしゃくった。
「別にいいだろ。それよりあいつにも聞いてやれよ」
ライナーははっと顔を上げた。額には汗が滲んでいる。
「どうなんだ…」
ライナーの違和感に感づいたジャンが重々しく問いかける。するとライナーは喉の奥から絞り出すように声を発した。
「実は…その…様子を見てこいって…言われて」
「誰に?」
ジャンはますます怪しそうにライナーを睨みつける。
「誰を見てこいって?理由は?」
ジャンの目の付け所はなかなかに鋭かった。その後の質問の応酬にライナーはもう逃げられないと判断したのだろう。やがて吹っ切れたようにあっさり口を割った。
「ベルトルトにだよ…」
ジャンは「はぁ?」と気の抜けた声を出す。ここにいる誰もが不審に思い、また意外に思っただろう。あの口数少ないベルトルト。消極的で影薄くて小心者の…。夜、ライナーに頼んでまで一体誰の様子を知りたかったのか。皆の顔つきが悪い方向に向かっていく中、ライナーが必死に弁解する。
「誤解だ!あいつは純粋にそいつのことを心配しているだけだったから!」
「心配?」
「あ…いや」
また誰かに痛いところを突かれる前に決着をつけた方がいいだろう。そう彼は思った。
「とにかく、お前らには関係ない。俺も知らないんだ。別にどうでもいいだろ」
エレンとミカサはライナーの思惑通り興味を失ったようだった。他はそれなりに気になる素振りを見せていたがライナー自身知らないと言い張っているのだからどうすることもできない。そこへジャンが閃いたように言った。
「それでライナー、そいつの様子は確かめられたのか?」
ライナーが訪れたのは男子部屋。寝ている者も含めてここに居る誰かがそいつに当たるのだ。ベルトルトがここに居る誰かを心配しているなんて到底考えられないと踏んでの質問だった。仲が良いどころか会話している所さえ見たことがないのだから。しかし、ジャンのシテヤッタリ顔にライナーは動じなかった。
「ああ」

*************

半開きの窓から夜風が入り込む部屋。薄いカーテンが翻り月光を中に誘い込む。一人の青年が月に背を向けて窓際に腰掛けていた。居心地悪そうに背を丸めて何かを見下ろしている。片足を上げて椅子に座っており、手に持つ小瓶を退屈そうに回して遊ぶ。小瓶の中身が細かい音を立てて掻き回されていた。よくよく耳を澄ましているとトントンと木の板でも叩くような音が微かに聞こえくる。音源を辿るまでもなかった。そこはまさに青年の居る場所のすぐ隣からだった。部屋の隅に位置するそこは埃が舞っていて酷く汚れていた。その運のない場所にベッドを置かれ、そこで寝ている少女はほぼ放心とも言える状態で仰向けになっていた。細い手で弱々しく壁を叩き続けている。トントン…トン…トントン…。ふと、その規則正しく鳴っていた音が止み、青年は少女を初めて見た。
「諦めがついた?」
低音の声と無表情で話しかける青年から不気味な恐ろしさを感じる。少女は顔を動かさず目だけで青年を捉えた。虚ろな瞳に端正な顔立ちをした好青年の姿が映る。彼の名はベルトルト。少女と同じ年度に訓練兵団に所属した兵士だ。そしてこの血色の悪い少女はナマエ。彼女はまだ闇から抜け出せていない。
「ど…して…こんな…こ…したの…」
渇いた唇が紡ぐ言葉は注意していないと聞き取れないくらい掠れていた。ベルトルトは小瓶をポケットに仕舞うと充血した瞳を薄く開けて睨んでいるナマエを横目に立ち上がった。
「待って…」
ナマエは睨むことをそっちのけで懇願するようにベルトルトに声をかける。しかし彼は答えない。言えない事情があるのかもしれない。彼の強く握り締めた拳から察するに、一筋縄ではいかない何かがあるのだろう。彼は震える手を胸の前に持っていきもう片方の手で強引に押さえ込む。そして彼は絞り出すように言った。
「秘密を知ってしまった君は悪くない…、でも…こうするしかないんだ」
ナマエは動かせない身体を必死に起こそうとする。
「開拓地へ行っても…きっと私は…あなた達を一生恨み続ける…」
もう一度壁を叩こうとした時、壁の向こうでエレンやミカサ、ジャン…それにライナーの声が聞こえてきてピタリと腕が止まった。入団当時は健康的な小麦色だった肌が今では白く変わり果てて、その痛々しい程白く綺麗な肌の上を極々少量の液体が滑り落ちた。ナマエは自分が泣いたことすら気づかず只只壁の向こうに耳を傾け続ける。それを見ていたベルトルトが辛そうに顔を歪める。
(何故同情する。彼女をこうしたのは自分じゃないか)
ベルトルトはポケットに入っている小瓶を無性に割りたい気分になった。しかしそんなことをしては証拠をこの部屋に残す羽目になってしまう。ライナーがせっかくこの部屋の女子達を足止めしているのに、それでは元も子もない。ベルトルトはナマエのベッドの脇に立つと、頬を濡らして放心してる彼女の瞳にそっと手をかけた。ナマエは反応を示さない。ずっと寝ていないせいで頭は朦朧とし、身体は重くてだるい。彼女の今の力では彼の手をどかすどころか指一本動かすことさえ出来なかった。ベルトルトの手が彼女の顔を覆ったまま下に少しスライドした。そして手をどけると彼女はまるで眠り姫のように長い睫毛を垂らして目を閉じていた。
「おやすみ…」



不眠症の眠り姫
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