4 | ナノ
日が落ちて、人々の活動が終わり、時が経つとやがて夜は甘い香りを蓄えてそこにあった。昼間の雑踏を思わせぬとても穏やかな一夜で、紺碧は深く澄み渡り、しんとした冷たさを持っている。それに寄り添うような静けさは、命がその下にあることを許さぬように一切の音を持たなかった。
恐れだろうか。宿舎の井戸で延々と千切れそうなほど赤くなるまでに擦り付けていた手を止める。周囲を見渡すと、音もないように、雲もなく、遠い空に星がよく見えた。最後に空を見上げたのはいつだろう。壁が壊されてここにきてから、人々の思考の濁流に呑まれ、まるでそのような余裕もなかった。けれど、見上げれば、そこにある星々は故郷のそれと同じなのだ。わたしたちがもがき、足掻いても、色を変えてはくれないものなど、数え切れないくらい、そこにある。
それを思えば、やっきになって手を赤らめたこの感情の起伏が虚に思えた。どうして、こうなってしまったのだろう。追いやられ、上手く機能しない頭で考える。同期の仲間たちは、先の壁外調査にてみんな巨人に殺されてしまった。無理に助けようなんて考えを持つことは、人一人分の余裕を失った重さを抱えることだ。巨人に足を取らせる恰好の重しとなる。ただ、この状況の中、自分がどのように生き抜くか。それだけを考えていればいい。口にすることなど一度もなかったが、それがこの世界で生き延びて行く手段として確かであることは、奪われた身であれば誰よりもよくわかっていた。誰かを守ろうなんてことは、力を持つ者のみに、それこそ、人類最強と呼ばれる彼のような人のみにしか許されない、贅沢なことだ。みな優しく、誰かの為に戦うからこうなったのだ。愚かだとは思う。けれど、その温もりが生きる場所にわたしが棲んでいた季節は、とても居心地が良くて柔らかいヴェールの中にいるようだった。
喪失は確実にここにあるのだというのに、ありありと呼び戻される、喰われていく仲間の終わりの表情を脳裏に浮かべようと、まぶたから零れ落ちるものはなにもない。わたしにとっての情のない常識がいつまでも変わらずとも、棲みやすい場所を失ってしまったことをまるで理解できていない。その事実に正面から向き合うことをしようとはしていないのだ。こんな思い、幼い子供だったわたしの記憶にはなかった。小さな頃は、自分の領分にあるものを奪われたら、泣き叫ぶだけで、なんだって気が済んだ。
途方のない気持ちになる。その時だった。パキリ。日の下では気づかなかったであろうほんの小さな物音である。人の営みを許さない結界の闇が歪をつくる。


「そこで、何をしているの」
「も、申し訳ありません!」
「名は」
「ハッ!調査兵団所属、アルミン・アルレルト!104期訓練生です!」


人々が眠りに落ちる時間だからだろうか、その声はやや密やかではあったものの、静謐に不釣り合いな威勢のいい口語はこの場では騒音にも近くわたしは思わず目を細めた。しかし、まだ幼さを感じさせるようなやや舌足らずな声から読み取れたその、アルミンアルレルト、という名前には聞き覚えがあった。新兵にしては頭の回転が良く、作戦立案で大きく貢献しているとハンジ分隊長がその才を買っている少年の名前だったように思う。頭のいい、と言うものだから、甘きばかりを吸って生きてきたのではないのが顔立ちから判断がつくようなスッとした雰囲気の利発そうな背の高い少年を想像していたのが、意外である。実物である彼はこの年の少年なのだから伸び代はあるだろうが、わたしと背丈は変わらず、華奢で、なんとも可愛らしい顔立ちをしていた。少し裕福な家庭、それこそ貴族に近い家系に育った子だと言われても、さほど疑問には思えない。今はすっかりと不釣り合いな軍服を身に纏い、このまま表に出せばそのような嘘はすぐに暴かれてしまうだろうが。
しかし、その彼が何故このような時間に、このような場所に、と疑問に辿り着いて思考を止める。人のことを言えたことか。彼にとっては殆どの兵士が、住民が、眠りに落ちているはずのこの時間に、井戸のへりに座り込んで延々と手を洗い続けている上司の意図の方が甚だ疑問であろう。彼については巨人の及ぼす恐怖に、心を揺さぶられ眠りにつけなかったのだと、勝手に思うことにする。


「早く寝なさい、回らぬ頭で練った幼稚な報告書など参考にならない」
「ですが、」
「ハンジ分隊長からあなたの名を聞いたことがある、彼女の買うその才能が本物であればあなたの言葉は人類を救うことになるかもしれない、」


そうしたら、と口にして、慌てて言葉を止める。そうしたなら、此度の壁外調査で亡き者となった、わたしの同期も救われる。続きを紡ぎかけ、開いた唇から、わたしはそのようなことを新米の兵士に告げて、なにを果たそうというのだろうか。揺らぐ心のまま人前にいるものではないな、としばし反省する。
それも束の間、ふと言葉を止めたわたしの表情を伺い見るブロンドの少年の宝石のような大きな瞳に澄んだ水の色を連想させられて、思わずハッとした。この美しさならば、わたしが現実への疑いを拭うように手をさらした冷たい水の代わりを担ってくれるだろうか。そこではじめて、わたしは穢れを許さぬと言わんばかりに水にさらしっぱなしになっていた手は、信じがたい全てを洗い流すために冷え切ったのだと知った。
悲しみ淀みきった人の心は、ありもしない物事に因果を見出し、救いを求めたり、自身に罰を課したがる。それに加えて、自分の泡立つ心の内をひとつほどいた安堵。そんなものたちに倣い、許しを得た想いが瞳から零れ落ちる。頬を伝うぬくもりに、情けなさから、恨むのならこの時間に通りかかった自身を恨んでほしい、と身勝手にそう思った。流れ落ちるものを拒んでは、先を見つめることはできないと、そう、思ったからだ。


「意外でした、ナマエさんは強い女性だと思っていたから」


唐突に零れ落ちた涙になど驚いた様子など微塵も見せず、中腹部に入ってきた巨人のうなじを削ぐ横顔を見たことがあるのだと、彼は柔らかく笑んだ。
呆気にとられたように目を丸くして彼を見つめるわたしの髪に、おずおずと触れて、撫でる彼の指先は暖かく。触れられたのはそこだけだというのに、熱が指先にまで及んだようだった。全てを拒む静けさを割くように世界が色を変える中、掻き分けられた前髪の隙間にくちづけがそっと差し込んだ。


「あなたの涙も、僕のこのくちづけも、闇夜の中に隠して、また強く、生きましょう」


意図を探るように上げた視線の先で目が合うと、羞恥を紛らわそうとでもしたのだろうか、長い睫毛が瞳を閉じ込める。ただ名前しか知らぬ、年下の少年にされたくちづけが嫌ではなかったのは、その唇が心に空いた穴に僅かばかりの蓋をくれたからだろうか。全ては夜の帳の中の嘘だったのだ、と口にする頭のいい優しさは、これからどれだけの命を背負い、淀んで行くのだろう。頭のいい人間は、いつまでものしかかる罪に背を丸めなければいけない。わたしは団長をそのような人間であると、憐れんで見ることすらあった。それがいつしか目の前の彼をも襲うのだろう。ほんの未来を見据えるだけで、身の凍えるような切なさだった。
ならば、わたしは、未来の彼にくちづけを残そう。閉ざされた瞼にひとしずくの温もりを落として、わたしはひとり、このささやかな秘密がこの一夜で幕を閉じてしまうことを惜しんでいた。この宝石のように澄んだ感情をも、甘い香りのする秘密と一緒に彼も同じように抱き締めていてくれたらいいのに、と願いながら。



凍える深夜に秘められたキス
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