「おい、それがいいのか?」 オルオの呼びかけにナマエは我に返った。 「あ、ううん。ペトラだったらこっちの方が似合うと思うよ。ほら、薄紅色のバレッタ。綺麗でしょ?彼女の髪の色に映えるよ、きっと」 ナマエはオルオに付き合って宝飾店に来ていた。 久しぶりに会ったオルオは、若干、顔と口調がおかしくなっていた。ぺトラ曰く、兵長を意識しているらしいが、鼻につくだけで共通点は全く見当たらない。 「よお、ナマエ。俺がいない間のお前の不安を想像すると、身につまされる思いがするぜ。息災だったか」 とりあえず、面倒なので放っておくことにする。 「で、付き合ってほしい場所ってどこ?」 「お前はただ、黙って俺について来ればそれでいい。すべて俺に任せておけ」 「…帰るよ?」 「ま、街だよ街!」 「街?」 宝飾店に行くと言い出すので、ナマエは目を剥いた。 「一応、確認のために聞くけど、プレゼント?」 「バッカ!ちっげぇよ!いや、なんつーか…あれだ…」 プレゼントか。ナマエは小さくため息をつく。 「ペトラのやつがうるせえからよ」 しかもペトラか。再びため息が落ちる。 この男は、それを選ばせる相手をよりによって自分に決めたのか。ナマエはぐったりする。これだから嫌なんだ。あーあ、やってられない。何だか、今ここにいる自分が情けなくなってきた。 「ペトラへのプレゼントね。わかった。付き合ってあげる」 「はあ!?あ…ああ、そうだ。俺の実力に食らいつくのは大変だろうからな。たまには労ってやるのが余裕のある男ってもんだ」 「余裕のあるスマートな男は、プレゼントを選ぶのに人を頼ったりしない」 「うるせぇ!細かいこといちいち気にすんじゃねぇよ!」 「あーもう!ほら、行くよ」 そして今に至る。 せっかく人が選んでやったというのに、オルオはどことなく煮え切らない様子だった。 「なに?気に入らないなら別のもあるよ」 「ああ、いや…わかった。お前はもう外に出てろ」 ナマエは一瞬イラッとしたが、すぐに合点がいったので大人しく言われたとおりにする。大方、会計しているところを見られたくないのだろう。矜持だけは一人前なのだから。 しばらくすると、オルオはソワソワしながら店から出てきた。無事にプレゼントを買えて達成感を覚えているのか、これからそれをペトラに渡すことを考えて気持ちが高ぶっているのか。どちらにせよ、しまりのない顔をしている。それはナマエがもっとも彼らしいと思っている表情の一つだった。今日の夕飯がごちそうだと知っている少年は、おおよそこんな顔をする。この表情の先にぺトラがいるのだと思うと胸が苦しいが、こういう表情を見ること自体は嫌ではないから複雑だ。 「オルオ、どっか痒いところでもあるの」 「あん?何でだよ?」 「むず痒そうな顔してるから。公衆の面前なんだからちゃんとしてよ」 オルオは顔を引きつらせる。気恥ずかしさを隠すためなのか一つため息をついて、あの鼻につく笑みを浮かべた。 「この品のある大人の表情がわからないとは、お前もまだまだ子どもだな、ナマエ」 「帰るよ」 ナマエはオルオを置いて歩き出した。オルオが情けない声を出して追いついてくる。 道中、オルオはお決まりの巨人討伐数自慢を始めた。もちろんナマエは聞き流す。 「おい、聞いてんのか?」 「聞いてる聞いてる」 「いまいち俺の有難みがわかってねぇみてぇだな。今、お前の命があるのは誰のおかげだと思ってるんだ?」 「はいはい、オルオには感謝してるわよ。あなたは私の命の恩人。ありがとう」 そうだろう、そうだろうとオルオは得意げに首を振る。 しょうがいないやつ、と思いながらも結局彼に頭が上がらないのは、彼に窮地を救われなければ、本当に死んでいたからだ。そして、その時の彼の洗練された身のこなし、真剣な表情が鮮明に脳裏に刻み込まれているからだ。オルオの実力は本物だと、ナマエは知っていた。 「ねえ」 「なんだよ」 「ぺトラ、喜んでくれるといいね」 「あ、ああ…まあな」 だが、次に顔を合わせた時のオルオの表情は硬かった。後ろ手に隠しているつもりの紙袋は、この前出かけた時の店のものだ。あちゃー、受け取ってもらえなかったか。とは思ったものの、買い物に付き合った以上、聞かなければ聞かないでおかしい。ナマエは精一杯さりげなさを装って尋ねる。 「どう?プレゼント、ペトラに渡せた?」 「あぁ…あれな。いや、なんだ、ペトラのやつ、俺からのプレゼントなんて畏れ多くて受け取れねぇってよ。気持ちだけで十分らしい。可愛いとこあるじゃねぇか」 つまり、受け取り拒否されたんだよね。ナマエは内心苦笑する。ペトラもはっきりしてるからな。 こういう時、オルオは反射的に強がる。自分が傷ついていると思われることをすごく嫌がった。あくまで強がる彼の心情を想像すると、可哀想になってきてしまう。本当は慰めてやりたいところだが、それは彼の望むところではないだろう。 「はいはい。体よくあしらわれたのね」 「バーカ!話聞いてなかったのか!?」 オルオは声を荒らげたが、ふと背後に意識をやった。 「あー…だからだな」 頬を人差し指で掻く。 「俺が持っててもしょうがねぇっつーか…使い道もねぇっつうか…」 背中に持っていた紙袋をぞんざいに突き出した。 「お前にやる!あ、有難く思えよ!」 目の前に迫った紙袋に、ナマエはポカンとした。そして脱力した。 確かに、オルオが持っていても仕方がないのは確かだ。手元に戻ってきてしまった女物のアクセサリーをどうしていいかわからなかったであろうことも察しがつく。あのバレッタは可愛い。ナマエもそう思ったからプレゼントとして薦めた。 でも、私には着けられない。ナマエは大きく息を吐いた。ちょっと挫けそうだった。 これはペトラを想って買ったものだ。オルオが、ペトラのために買ったものだ。別に自分のためにプレゼントを用意してくれることを期待しているわけではないが、だからといって、初めてもらうプレゼントが、他の女性への想いが詰まった処分品だなんてあんまりだ。 「あのね、オルオ。よりによって事情を全て知ってる人間に渡す?他の子にあげなよ。株が上がるかもよ」 「は!?いや、いいんだよ!その…持って帰んのもめんどくせぇしよ」 「ちょっと…人をゴミ処理場かなんかと勘違いしてるんじゃないの?」 「な、んなこと言ってねえだろ」 「とにかく、私はいらない。あげるなら他の子にあげて」 オルオはナマエの機嫌の変化に気付き、おろおろし始めた。 「な、何怒ってんだよ」 「別に怒ってない」 「怒ってんじゃねぇかよ」 「怒ってないから…」 ナマエはオルオの手ごと紙袋を押し返した。 「これ持って早く帰って!」 唖然とするオルオをそこに残したまま、ナマエは足早にその場を去った。 あの日からずいぶん時間が経ったが、オルオとは顔を合わせていない。 その間に、57回目の壁外調査が近づいていた。ナマエは右翼前方の索敵班に配置されていた。陣営中、最も巨人との遭遇率が高いポジションだ。それは同時に、最も死亡率の高いポジションであるとも言えた。 リヴァイ班は今、旧兵団本部で独自に訓練中だという。もしかしたら、このまま会うこともないまま、壁外で命を落とすかもしれない。そんな不安が胸を掠めた。 そんな折、定期連絡に来ていたペトラとばったり遭遇した。 「ナマエ!久しぶりだね!」 「ペトラ!元気にしてる?」 「なんとかね。ねぇ、ナマエが原因でしょ?何とかしてくれない?オルオが鬱陶しくてしょうがないんだけど」 間髪入れないペトラのダメ出しに、ナマエは苦笑いを浮かべた。どうやらというか、やはりというか、オルオは落ち込んでいるらしい。とはいえ、どんな形であれ、現況が聞けてナマエはホッとしていた。しかし、ナマエも原因の一端を担っていることは否定しないが、大元はペトラだと言いたい。 「放っておくしかないよ。構うと余計うるさいから」 全くだという顔でペトラは頷いた。が、その顔を少し緩める。 「でも、『オレの何が悪かったんだ』って言ってたから、一応反省しようとはしてたみたいだよ。よーく言っといたから、適当なところで許してあげて」 ナマエは目を瞬かせた。ペトラは意味ありげなウィンクを残して走っていってしまう。ペトラの後ろ姿を眺めながら、ナマエは言葉の意味を考えていた。 「俺の何が悪かったんだ」 ペトラにプレゼントを渡す時の口説き文句のことを言っているのではないのか。それとも、もしかして、あの時の自分の反応を気にしているのだろうか。 オルオが湿っぽい顔をして舌打ちをしている姿が浮かぶ。 胸がざわついた。 考えてみれば、あれはただの八つ当たりだった。確かに、オルオもちょっとデリカシーがなかったけれど、それでも、ナマエが一方的に言葉を吐き捨ててその場から立ち去ってしまったのは、一重に自身が抱える感情ゆえだった。オルオに原因はあっても、罪はない。 謝ろう、かな。 そうだ、謝ろう。 壁外調査が終わったら会いに行こう。 ごめんって言って、何かプレゼントでもあげよう。兵長かぶれのオルオには、スカーフなんていいかもしれない。 そう決めたら、なんだか安心した。今度の壁外調査はエレン・イェーガーをシガンシナ区に送るための試運転が主だ。ならば、そんなに無茶はすまい。大きな被害は出ないのではないだろうか。そう、きっとそうだろう。 そんな安堵が底のない不安に変わったのは、調査前日の夜のことだった。何故だかはわからない。根拠もまったくないのだが、嫌な予感が身体にまとわりついて離れなかった。生きて帰れる気がしないのだ。地面に投げ捨てられている自分の死体が眼前に映る。金臭い臭気さえ感じるような気がした。おかしいな。どうしてだろう。刺すような胸の動悸が焦燥感を駆り立てる。出発の前日だというのに、こんな精神状態では本当に予感のとおりになってしまう。落ち着かなければならない。どうにかして心を鎮めなければ。 ナマエは紅茶を入れることにした。温かいものを飲んでリラックスすれば、じきに収まるだろう。 やかんに湯気が立ち昇るのを見ていると、少しずつ脈が緩やかになってくる。ティーポットの中の茶葉に湯を通すと、いい匂いが漂ってきた。蓋をしてしばらく蒸らし、カップに注ぎ込む。琥珀色の液体が、カップを包むように波打った。オルオの瞳の色と似ているな、と彼のことを思い出す。自然と笑みが漏れた。 時間をかけて紅茶を飲み終え、カップを静かに置いた。そっと目を瞑る。部屋に漂う残り香と静寂に、しばし身を浸した。 一つ息をついて、ゆっくりと立ち上がり、戸棚から白い便箋を取り出す。差し色や柄は入っていない、行を示すラインがあるだけのシンプルな便箋だ。そして、包装紙に包まれた細長い箱。ブルーのリボンを掛けてもらった。オルオにと買ったライトブルーのスカーフが入っている。ペン立てからペンを引き抜き、再びテーブルに戻ってくる。丁寧に便箋を広げ、ペンを握る。深く息を吐いた。 万が一の時のために、手紙を書いておくことにした。心が凪いでも、予感だけは消えなかったからだ。それは、幾重にも包まれた殻を丁寧に剥いで、最後に残った真実のようだった。それは胸の中に小さく、しかし沁々と点っていた。ナマエの中でその予感は、粛然と真実味を増していた。 オルオへ 手紙を書いておくことにしました。私はおそらく今回の壁外調査から帰って来られない。そんな予感がするから。ケンカ別れのようになってしまったことが、ずっと気になっていました。と言っても、私が勝手に怒って勝手に帰っちゃっただけなんだけど。 ごめんなさい。あれは八つ当たりでした。オルオは、そりゃちょっとは悪かったけど…でもあれは私の問題だった。 ただ、私は悔しかったのです。オルオがペトラのプレゼントを選ぶのに私を誘ったことも、ペトラに受け取ってもらえなかったプレゼントを私に渡そうとしたことも。あのバレッタは、ペトラには似合っても私には似合わない。そんなこともわからないのかって、悲しかった(『悲しかった』を塗り潰す)腹が立った。他の女性のことを想って買ったものなんていらなかった。この意味、わかるでしょ? オルオはバカだからわからないかもしれません。だから、不本意だけど、はっきり言います。私はあなたが好きでした。お調子者で、傲慢ちきで、自己主張が強くて、それが空回りして迷惑そうにされてたり、似ても似つかないのに無理やり兵長の真似して結果誰にも相手にされてなかったり、ホントしょうもないやつって思ってたけど、それでも、私にとってはヒーローだったし(『私にとっては』以下を塗り潰す)あなたが好きだった。 あの時、あなたが救ってくれた命を私は人類のために使うことができたかな。ほんのわずかでもいい、この先の未来の糧になれていたら嬉しい。でもなにより、あなたの命が一日でも長く続くように祈っています。 このスカーフはお守りです。私もリヴァイ兵長にあやかってみました。きっとあなたを守ってくれます。 オルオ、死なないでね。生きてさえいれば、いつかペトラも振り向いてくれるかもしれないよ。がんばって。きっと誰も応援してくれないだろうから、しょうがない、私が応援してあげます。 一方的に書きたいことを書いてしまってごめんなさい。でもすっきりしました。明日に備えて、もう寝ます。明日は人類の反撃の第一歩になる大切な日です。兵士としての使命を全うするつもり。勘違いしないでほしいのは、私は死ぬ気なんてさらさらないということです。必死に抗うつもりでいます。だから、私ががんばったということはわかってほしいの。それでも、この手紙を読んであなたが少しでも悲しんでくれたら、なんて思うんだから勝手だね。(この一文を塗り潰す) オルオ、元気でね。こんな世界で兵士をやってると、すごく難しいことかもしれないけど、できれば幸せになって(『できれば』以下を塗り潰す)自分の思うとおりに生きて。大丈夫、実力だけならあなたは結構イケてます。保障する。 そろそろ終わりにします。明日は晴れるといいね。天が人類に味方しますように。 じゃあね、オルオ。 ナマエ・ミョウジ ナマエは改めて便箋を取り出し、綺麗に清書した。それを封筒にしまって閉じ、リボンと箱の間に挟む。箱を手に取って、胸に抱え込んだ。そうして、少しだけ、彼を想って泣いた。 第57回壁外調査が始まる―― あんなにも死の気配が胸を掻き乱したにもかかわらず、ナマエは辛くも生き残った。だが、バカバカしいと苦笑する元気は残っていない。兵団の被害は甚大だった。今回の調査の水面下において極秘作戦が遂行されていたと聞いたが、撤退が最優先の現段階では、途切れ途切れの情報が錯綜するばかりで、正確なところはわからなかった。混乱と疲労が身体に圧し掛かる。 途中、現状の把握と隊列の再編成のため、兵団は休息を取ることとなった。行き交う兵士たちの中に、ナマエはリヴァイの姿を見つける。ホッと胸を撫で下ろして、彼の元へ駆け寄った。 「リヴァイ兵長、お忙しいところ申し訳ありません。リヴァイ班の皆さんは…オルオがどこにいるかご存知ですか?」 リヴァイは鋭い三白眼をスッと細めた。一瞬の間の後、彼は視線でその方向を示す。 「そこだ」 ナマエは表情を明るくして視線の先を追った。そして、そのまま凍りつく。 周囲には疲れ切った表情の兵士たちが、それでも忙しそうに動き回っていた。が、その空間だけは嫌に静かだった。音もなければ、動くものもない。風すらも、そこだけは避けて通っているようだった。 その空間の時は止まっていた。兵団は、取り残されてしまった時を丁寧に切り取り、ここまで運んできたのだった。 そこには、この戦いで果てた兵士たちの亡骸が横たえられていた。何列にも並んだ、物言わぬ兵たち。命の気配は、感じられなかった。 それだけ確認して、ナマエの頭は真っ白になった。 帰還してからは、調査の後処理に追われた。何しろ(一部では想定されていたとはいえ)イレギュラーな事態が多過ぎた。想定外の数の巨人との遭遇、女型の巨人の襲来、進路の変更、目的の変更。事前に提出していた調査計画書とはその内容があまりにかけ離れてしまっている上に、金銭的打撃も大きかった。上層部は各所への説明に奔走している。 ナマエもそれなりに忙しくしていた。分隊長クラスの手が回らなくなった事務処理が降りてきているのだ。ナマエはそれらを率先して引き受けた。いや、それは他の者も同様だったが。今、兵団は危機的状況に立たされていた。今回の調査での損害は大きく、兵団の存続自体が危ぶまれている。団員が一丸となってこれを凌ぐ必要があった。 それに、みな、忙しさを求めていた。休息の時間があればそれだけ思い出すからだ。失ってしまったもののことを。 リヴァイ班はエレン・イェーガーを残し全滅だった。女型の巨人はエレンを狙っていたものと思われ、女型からエレンを守るために班員は奮闘した。 遺体には、闘いの痕跡が色濃く残っていた。痛々しくて、直視するのが辛かった。いざという時は飛び抜けて冷静に行動できるやつだ、きっと最期まで兵士として闘ったはず。自分が悲しんではいけないと、ナマエは必死に言い聞かせた。 それでも時折、叫び出したくなる。こんなはずではなかったと、自分が予感していたのはこんな結果ではなかったと、悲鳴を上げたくなる。 それをなんとか押し留めることができたのは、残された者たちが皆同じ気持ちだとわかっていたからだ。 ある日、青年兵が一人、ナマエを訪ねてきた。その兵士は、見覚えのある紙袋を差し出した。オルオがペトラにバレッタを買った店の紙袋だった。 「あなたに直接お渡しした方がいいと思いまして」 兵士は、オルオの遺品整理をしていたのだという。ナマエは懐かしくて苦しくて、しばらくその紙袋をただ見つめていた。 「そうだね。私が引き取るのが一番いいのかも。…ペトラも、もういないしね」 兵士は首を振った。 「違います。それはあなたのです」 ナマエは首を傾げる。兵士は、機会があって少し事情を知っていると切なげに笑った。 兵士は紙袋をナマエに握らせた。ナマエは彼を窺うように見つめる。彼が頷いたので、袋の中に目を落とした。 中には小箱と手紙が入っていた。手紙を手に取り、表裏を確かめる。宛名は無い。が、兵士が促すので封を開けた。 ナマエ あの時は悪かった。 これはお前に買ったんだ。 いらなきゃ捨てろ。 今度会った時、もっと気に入るやつを買ってやる。 ナマエは目を見開いた。震え出す心を抑え、小箱を開ける。 そこに収まっていたのはブローチだった。 「バレッタじゃ…ない」 小箱に大事そうに収まったブローチは、シルバーの曲線で滑らかに花びらの形を描き、その中央に翡翠色の石を添えている。あの日、ナマエが綺麗だと思ってしばらく見惚れていたブローチだった。 ――これがいいのか? オルオの声が蘇る。 ナマエは口元に手をやった。体中の血液が逆流してくる。 ――私のために買いに行ったんだ。最初から、私に渡すつもりで―― 怒りに任せて押し返した彼の腕が、驚いた彼の顔が目の前に蘇る。狼狽と傷心の表情が滲んでいた。 何故、あの時受け取らなかった。何故、つまらない感情に流されてしまったんだ。しょうがないやつ、せめてそう思って受け取っていれば、結果は違っていたのに。 考えてみれば、オルオはそういうやつじゃないか。自分の気持ちを素直に表現できない――知っていたはずだ。 でも、そんなのわからない。あんなふうに言われたら、自分のことなんて全然見てないんだって、そう思ってしまうに決まっている。 傷つけてしまった――彼の気持ちを酌んでやれなかった。わかってやれなかった。 「ペトラさんにさんざん怒られていました。何でそんな馬鹿な嘘をつくのかって。どう考えてもオルオさんが悪い、早く謝れって」 偲ぶように目を細める兵士につられ、ナマエは顔を歪めた。 「ホント…馬鹿なやつ」 オルオは自分が悪いと思ったまま、ナマエが怒っていると思ったまま、逝ってしまった。傷ついたまま――ケンカしたまま、仲直りもできずに―― 謝るつもりだった。自分が悪かったと、オルオは悪くないと、そう、伝えようと思っていた。 「今度って…いつよ…?」 彼は帰ってくるつもりだった。調査を無事に終えて、ちゃんと帰ってくるつもりだったのだ。もう一度、自分と会うつもりでいてくれた。 ナマエは手元にある彼への贈り物と手紙を引き寄せる。行き先を失ってしまった長方形の箱は、ひどく頼りなげで、まるで泣いているように見えた。 帰ってくるつもりのなかった自分の方が、今ここにいる。何て皮肉なんだ。 兵士は、気遣わしげな眼差しを向ける。 「うまくいかないね」 ナマエは泣き笑いの表情を浮かべた。 「ホント、この世界はうまくいかないことばっかり」 兵士は憂いの色を覗かせて頷いた。 「そうですね」 馬鹿なやつだから、どうせ自分の想いには気付かない。ペトラのように他の女性を好きになって、それを今回みたいに無遠慮に相談してきたりするのだろう。損な役回りだ。けれど、それで構わない、そう思っていた。 ――嘘だ。 本当は望んでいた。本当は願っていた。 その先を―― 二人で肩を並べる未来を―― ナマエはブローチを取り出し、兵服の上着にそっと留める。そして、口の中で呟いた。 「オルオ、ありがと。大事にするね」 ナマエは顔を上げた。静かにその場に留まっている兵士に視線を合わせる。 「似合いますか?」 兵士はふっくらと笑った。 「とても」 「ありがとう」 このブローチが手元に届いただけでも幸運だった。多くを望めないこの世界で、彼の真意を知ることができた。それだけでも感謝しなければならないだろう。感謝して、前に進まなければならない。わかっている。 ――わかっている。 それでも、どうしても振り返りたくなってしまう。願ってしまう。 もう一度、あの時まで戻れたら、と。 ナマエは首を振った。 ないものねだりをしても仕方がない。オルオならきっと、前に進む。あいつはいざという時の判断を誤らないやつだったから。 ナマエは笑みを浮かべる。 「忙しいでしょうに、届けてくれてありがとうございました」 「いえ。私も胸のしこりが取れたような気がします。お伝えできてよかった」 ふと、オルオの顔が浮かんだ。歯に物が詰まったような、何か言いたそうな顔。 「オルオは――似合うと言ってくれたでしょうか」 兵士は目尻を緩め、にっこり笑う。 「ええ、きっと」 ナマエも微笑んだ。 ブローチが、応えるように光を放った。 愛して欲しいと願ってしまう |