「お嬢様、本日は、その――」

 声をかけたはいいものの、その後をどう続けたものか迷って、彼女は口を噤んだ。名前は振り向かず、さくさくと小さな足音を立てて芝生を歩む。足取りに迷いは無く、その背は相応しい教育を受けた証に常どおりぴんと張られていたが、彼女にはそちらのほうが却って痛々しく感じられた。お可哀想に、とメイドの彼女は胸を痛める。



 名前はダリルとあまり友好的な関係は築けていない。主に潔癖、加えて女嫌いの気さえ感じさせるようなダリルのせいである。初対面で名前が求めた握手を罵声と共に拒絶したその態度は、時を経ても軟化することは無い。年に一二度、茶会に応えるのが最低限の礼儀だ、父親の顔に免じてだと、名前の前で堂々と言いのけてさえいた。
 親に決められた婚約者という情の無い間柄でそんな態度をとられていては、関係も当然冷え切るであろうとされていた予想を盛大に裏切り、当の名前はダリルに対し、一度たりとも怒りを表にしたことはない。先の暴言を聞いても心中憤慨したのは居合わせた使用人たちだけ、名前は悠然と頷いて「それでも、会ってくれて嬉しいわ、ダリル」であった(その余裕に満ちた態度がまたダリルの気に障るらしいが、どうしろというのか)。
 時節の変わり目には必ず手書きのカードを贈り、軍勤めの身を労り、功績の知らせを聞いては手を叩いて喜ぶ。滅多に叶わぬ対面が何のそのとばかりに振舞う名前は、まさに古き良き、ステレオタイプな令嬢の鑑といえた。
 かの「皆殺し」がどこそこでまたひとつ大きな血の花を咲かせたことを聞き、その惨さには何一つ触れず「すごいわね」と笑む名前の姿は、人としては責められるべきかもしれないが、逆に彼女は哀れみを覚えたものだ。
 生まれてこの方、旧家の令嬢として求められるままに振舞うよう育てられてきた造花。接する人間は同じ年頃の娘たちなどよりずっと限られ、それはその目に映す世界すらも同じこと。数字だけで聞く人の死に現実感など覚えるはずがない、覚えられるはずがないのだ。
 優しく慈愛に満ちて、一途で健気。そんな名前は仕えるべき者としてとして十分に敬愛に足るものであったし、妹のように思うことすらあるものの、一方で、かわいそうな人形だという同情を禁じ得なかった。きっとこれからも、自分のために生きられない。自分のために生きる道があることすら知らずに生きていくのだろう。
 


 そんな名前が今日という日にダリルを訪ねたのは、他ならぬ彼の誕生日を祝うためであった。とは言っても、きっと会ってはもらえないだろう、承知の上だ、と寂しそうにこぼしていた名前を慰めようにも、なんと言ったものか分からなかった。きっと喜んでいただけますわと、贈り物の小箱を持ち直すのが精一杯で、だからこそダリルが姿を現したときは思わず口の中だけで快哉の言葉を叫んだほどだと言うのに――ああ、今思い出しても腹が立つ。行きと違い、何も持っていない手のひらをついきつく握り締める。
 あろうことかあの男は、名前が含羞んで祝福と共に差し出した箱の中身を見るどころか、開けもせずに叩き落とし、憤怒と共に踏み躙ったのだ。呆然とダリルを見つめ返す彼女らにも怒りは言葉となって向けられたのだが、その原因は気に入らない婚約者が会いに来たことでもなく、贈り物でもないらしかった。未だに正確なところはわからない。が、馬鹿にしやがって、何でお前が、本当はパパが、パパが最初のはずなんだ、どうして、と叫ぶ内容からして、原因が大好きな父親絡みであることは間違いが無い。
 ぶつけられる謂れは無い八つ当たりなわけだが、抗弁するには彼女の立場はただのメイドであったし、何よりも勇気が足りなかった。秀麗な顔を悪鬼の如く歪ませ、一心不乱に、まるで箱にすべての悪が詰まってでもいるかのように踏みつけるその姿の恐ろしいこと。美人が怒ると怖いって本当だな、と彼女は般若の面を思い起こした。尤も、その怒りの面相を前にしていたときはあまりの迫力に壁際で震えているしかなかったのだが。
 しかし名前は流石と言うべきか、立ち竦んでいる時間は彼女よりもよっぽど短かった。いち早くはっと我に返ると、無惨に崩れた箱と粉々になったその中身を踵で蹂躙し続ける彼を覗き込み、静かに語りかけた。

「――気に障ったのなら、ごめんなさいね」

 その声に嫌味や皮肉や当てこすりの棘は全くなく、母親がむずがる子供に言い聞かせるような響きすらあって、その穏やかさにこそ彼女は絶句した。
 彼女はあの贈り物に、名前がどれだけ思いを込めていたか知っている。中身――最早見る影も無いが、そこには小さな飾りピンが収まっていた。勿論二束三文の品ではない。色ガラスと小粒の宝石が優美な金細工に縁取られた品のある飾りは、素材だけでも名前の年頃の娘がぽんと出せる金額ではない。また金銭的価値を抜いたとしても、ダリルのためだけに作らせ、合うラッピングを何日もかけて探し、一分の妥協も無い特訓の末に名前が手ずから封をすることによって、まさに愛する人間に捧げるに相応しい、至上の贈り物と化したものであった。
 それを見も開けもせず壊した人間にかける言葉としては異質すぎる。ぜえぜえと肩で息をし、一時踏むのを止めて名前を見たダリルも、眉を訝しげに上げた。ただし自分から口を開き言葉をかける意思は無いらしい。その顎を伝う汗の一筋を拭おうと伸べた名前の手を乱暴に打ち払う。それでも名前の表情は微笑みから揺るがなかった。
 ハンカチを壁際で震える彼女に手渡すと、もう帰るわ、と囁いた。

「約束もなく来てごめんなさい。お詫びは後日必ずするわね」
「……やめろよ、押し付けがましい」
「では手紙だけでも。庭の芍薬がとても良く咲いたの。添えるわ、きっとあなたに似合うでしょうから」

 大輪の、零れんばかりに多くの花弁を湛えた白い芍薬。思い当たる花は、名前の一番の気に入りだったはずだ。確かに風貌ばかりは天使と喩えて差し支えないダリルとは絵になるだろう。しかし、今贈り物を壊されたばかりなのに更に至上を捧げようというのか。
 その献身がいったいどこから来るのか、彼女には理解できない。

「だから、いらないって言ってるんだよ! そのクソみたいな頭じゃ理解できないってのかよ、この■■■!」

 とても婚約者、いや、女性にかけるには相応しくない言葉を浴びせられても、名前の表情は優雅な微笑から崩れない。使用人たちの手前、威厳を保つために仮面を被っているのかとも考えたが、お付として長く名前を見てきた彼女にはそうでないと分かる。薔薇色の頬も潤んだ瞳も、間違いなく本心からのもの。
 困ったように首を傾げた名前は、臆することなく口を開く。

「……ダリル」

 癇癪持ちのダリル・ヤンが名前に手を出さないのは、仮にも名前が婚約者であるからだ。それも、その婚約を取り成したのは彼が絶対と敬愛する父である。だからいくらダリルが怒りを爆発させようとも名前の身の安全は保証されているのだが、そのことを分かっている彼女でさえ、次の名前の言葉には肝が冷えた。
 口にした途端彼の怒りのトリガーを弾いたその言葉がもう一度、笑んだ唇から滑らかに紡がれる。

「お誕生日、おめでとう」



 結局その後再び激昂し、最早後先知らぬとばかりに掴み掛からんとするダリルを振り向くこともなく、嘘のようにあっさりと名前は彼のもとを辞し、こうして帰路についている。
 改めて思い返してみると、長年仕えてきた相手ながら行動の意味が全く分からない。いつもの名前であればきっと、あんな風に人の逆鱗にわざと触れるようなことは言いそうもないものだが。珍しい、涼しい顔をしていてもやはりさすがに腹に据えかねたのかしら――と彼女が回想していると、不意に名前が振り向かぬまま口を開いた。

「かわいそうね、あの人も。またお義父様に裏切られたんだわ、きっと」

 本人がいないところで初めて口を開いた、すわ飛び出すのは不満か弱音か、ともたげた彼女の小さな好奇心は肩透かしをくわされた。名前の口調には取り繕おうなどというニュアンスは感じられず、そもそも自分付きの侍女相手に取り繕うも何もない。だから、ダリルの事情を斟酌し、憐れむのは間違いなく本心なのだ。
 それを悟れば、不満は彼女の口の方こそを衝いて出る。

「私からしてみれば、お可哀想なのはお嬢様です。せっかくの贈り物を、あんな風にされてしまうなんて……」
「ああ……」

 名前はそこで初めてその事実に思い当たった、とでもいうかのように軽く目を見開いて振り向き、小さく笑った。

「ありがとう。でも、いいのよ」
「何がよろしいものですか……あの方はいつもそうです! お嬢様の心尽くしを無下になさって……」
「優しいのね、本当に。ありがとう」

 その瞳には、過ぎた口を叩いた使用人に対する叱責や失望の色は無い。どこまでも柔らかい色が心底からの感謝を伝えてくる。
 優しいのは名前だ。そう育てられたからとはいえ、誰にも別け隔てなく接し、常に穏やかな笑みを崩さず、定められたことから逃げ出さず一途に努力し続ける。
 名前がダリルとの婚約を破棄することがないのは、それが家の為にならぬと分かっているからであろう。若く健気な娘が自分を殺して、人生で最も幸せであるべき結婚を不幸で彩らねばならないのが心苦しく、彼女はいつしか名前の手をとっていた。

「お嬢様、婚約を取りやめていただけるよう、旦那様方に掛け合ってみましょう。きっと反対されるでしょうけど、それでも――」

 名前にはきっともっと、優しい人が似合うはずだ。あれほど武勲を立てずとも、あれほど美しくなくとも、あれほどの身分でなくとも。敬愛するこの少女には、どこまでもいつまでも幸せにいて欲しい。己のために生きられぬ身であるならば、せめて少しでも良い道に進んで欲しい。そう思わずにはいられないのだが、

「え?」

 ぐぐっと盛り上がり勢いづいた彼女の訴えに、しかし名前はぱちりと、訳が分からぬという顔で首を傾げた。
 不思議そうに、先ほどの柔らかい素直な色のまま、瞳が不可解を伝えてくる。

「私、婚約を破棄するつもりなんてないわ……?」

 嘘です、と抗議する声は、出よう筈もなかった。
 先ほど、彼女を心から「優しい」と評してくれた表情はそのままに、――つまり、彼女は誰に強いられたからと言うわけでもなく、自らの意志で、あの男との結婚を望んでいると、そう言うのだ。
 これが嘘だと言うならば、今まで彼女にかけられてきた名前の言葉全てが嘘だ。
 けれどいっそそれでもいい、と一縷の願いをかけて、彼女は食い下がった。

「で、ですけど名前様……失礼ながら私には、あの方はあなた様を幸せにしてくれるようにはどうしても見えません……」
「そうかしら、私はあの人といるだけで幸せだけど」

 ふふふ、と含羞む顔に違和感を感じる。
 彼女が見ている限り、ダリルが名前に優しくしたことは一度もない。婚約発表時のエスコートでさえ、散々ごねた末に嫌々行ったほどの男だ。それに、度の過ぎた照れ隠しにしても、渾身のプレゼントを踏み潰すなど明らかにやりすぎである。
 そんな男といるだけで幸せ、と言う目の前の少女が信じられなくて、盛り上がった気持ちをそのまま凍りつかせて彼女は名前の言葉を待った。

「あなたは、本当に優しいわね……あなたみたいな人が傍にいてくれて、私は本当に幸せだと思うわ。でも、大丈夫よ」

 握った手を更に上からそっと包まれる。慈愛に満ちた言葉は、しかし今聞きたい言葉ではない。この胸に刺さる嫌な予感を、取り除いてはくれない。

「まあ、さすがにさっきの彼にはびっくりしたけど。でも怒らせてしまったのは私だからしょうがないのよ」
「でも……あんな……」

 弱々しい反駁を半ばうっとりと夢見心地で無視して、名前は語る。

「分かってて言ったんだもの。ダリルが一番にお義父様に祝われたがっていたことも、きっとうまくいかないだろうってことも。予想通りだったけど、彼があんまりにも悲しそうだったから、つい妬いてしまって」

 意地が悪すぎたかしら? と小さく舌を出す名前だが、彼女の胸は全く安らがずにざわめき続ける。
 ここで名前がダリルの、ひいてはヤン少将の持つ権力や地位や金が目当てだと告白してくれるのなら、それだって構わない。勝手に多少失望はすれども、理解はできるからだ。

「いつもつい怒らせてしまうのよね……不機嫌な顔ももちろん素敵だけど、一度くらいは笑いかけてほしいと思ってはいるのだけど。きっともっと素敵だと思うの。天使みたいに、ううん、ダリルの方が綺麗だわ、だってあんなに、うふふ」
「お嬢様、名前様は……」

 けれど、けれどもし――
 からからに乾いた舌で、彼女はようよう主人に問う。

「ダリル・ヤンを――愛していらっしゃるのですか」

 名前の、模範的な婚約者としての振舞い全てが、あの悪魔に対する真実の愛から出ているものだとするならば。人から愛されるに到底足りぬ歪んだ男を、名前が心から愛しているとするのならば。
 それは――名前もまた、歪んでいると言えるのではないのだろうか。鬼畜の所業をそれと知っていて許し、飲み込み、喜び迎えるその姿を健気だと、理想的だと評すのは、果たして正しいのだろうか。
 優しい微笑みも、温かな手も、誠実な瞳の色も、何一つ先と変わることはない。だというのに、彼女は悪寒が背筋を駆け上ったことを感じる。
 それに気づく様子もなく、――もしかしたら、気づいたとしてもどうでもいいのかもしれない。誰にも同じように優しいということは、誰であっても名前の行動ルーチンに影響を及ぼすほどではないということ。そう、あのダリルを除いて――名前は頷いた。

「ええ、私はあの人を、心から愛しているの」

 薔薇色に血の差す頬は、恋する少女の姿そのもので、本来なら心を明るくする類の表情に間違いがないのに、彼女にはなぜか別人じみた違和感を伴って迫る。今までずっとその心優しさを愛でてきた主人の姿が、急に得体の知れないものに見えてきて、不敬と意識する余裕すらなく彼女は手を引っ込めた。それでも、名前は笑顔だ。

「私、あんな人に出会ったのは初めて。ひどくて、素直で、とてもきれい。……ふふ、恥ずかしいわね。でも本当の気持ちよ?」

 そうして、たった今辞してきた建物、その奥を愛しそうに振り仰ぎ、呟く。

「――誰よりも何よりも、ダリルのすべてを愛しているの」

 ――歪みも、稚気も、何もかも、その魂のすべてを。
 そこに正義はなく、また悪もない。あるのは愛だ。名前がかくあれと言われ続け、かくあった為に周囲からも愛されてきたその形が、今の彼女にはひどく恐ろしい。
 彼女は回されてきた車のヘッドライトに照らされた、名前の背を見る。
 よく分からぬ怖気に震えつつも、彼女は以前見る機会に恵まれた、名前の宝箱の中身を思い出した。
 数々の貢ぎ物、銀河のように輝く貴石の溢れる中でも、とりわけ彼女が気に入っていたのはバロック・パールであった。調和のとれた正円に育つはずであったものが歪み、それでも歪んでいるが故の美しさで人を魅了する真珠。
 歪みつつも美しいダリルはなるほど、バロック・パールと呼ぶに相応しい。けれども、真実歪んでいるのは、正円の真珠であれと育てられた名前なのではないだろうか。整然と何層も重ねられたその奥、得体の知れない異物を孕む石――彼女のドレス、下着、肌、肉、骨、そしてその奥が今、ちらりと顔を覗かせた気がする。

「さ、帰りましょう」

 振り返り微笑む顔は、逆光になってしまってよく見えない。
 ただ、チョーカーを彩る歪んだ石が、ライトを受けてきらりと彼女の目を射た。

12.02.28
back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -