流れ星は捕まえられないと、誰かが最初に教えてくれたなら。



 名前が起きると、もう空は赤く染まっていた。まだ外からは運動部の声が響いているから、最終下校時刻を過ぎたという事はないだろうが。
 図書室には本を読んでいる図書委員しかおらず、しんと静寂が満ちている。いつ頃から眠り込んでしまったのだろう、起きていた時にはそれなりに人がいた気がするのに。ぶるりと肌寒さに鳥肌を立てて腕を擦れば大分冷えていた。かさばるのが嫌で平素から薄着なのだ。だからこうして体を冷やしてしまう事もさして珍しくなかった気がするのだが、いやに久しぶりの感覚に思えて、何故だと自問し、そうして思い当たって、思いを巡らせた事に後悔した。

(先輩、こんなところで寝ちゃだめですよ――)

 男にしては高い声が、困った風に名前を優しく咎める。名前が無視して組んだ腕に顔を伏せると、声の持ち主は決まって一つ溜息をつき、そうして名前に上着を被せるのだ。ちらりと片目で窺うと、隣に腰かけて、適当な本を生真面目に読んでいる。そうしてたまに、うとうとと微睡んでいる名前を微笑んで見る。一度、伏せた腕の間(あわい)からそれを知ったとき、目はすっかり覚めてしまったのに起き上がれなかった。起き上がれる訳はなかった。薄紫の瞳がいつもと違う風に和らいで、ほんのり朱の差した頬の緩む様と言ったら、名前を机に沈み込ませるには十分な威力を持っていたのである。男からそのような目で見られた事など今までになくて、そしてきっと、これからもないだろう。

(先輩、名前先輩、起きて下さい)

 こんなに暗くなるまで眠る事も久しくなかった。その前には隣に忠犬よろしく座していた彼が、名前を揺り起こすからだ。すっかり寝入っていた名前はまだ眠たい目を擦りながら彼に手を引かれ、いいと断るのに家まで送られる。それが日常になるまでに、彼は名前のそばにいた。

(先輩、また明日!)

 あの日もそう言ってくれれば良かったのに、生真面目な彼は嘘がつけないのだ。ダグベースに名前を呼んで長い長い時間を待たせた上、両手を握って、いやに真剣な瞳で告げた。

(僕は忘れません、先輩の事、絶対に。でも……)

 そこで薄い唇が辛そうに噛み締められたので、名前はつい手を伸べた。痛そうだと思った。
 指の腹が触れるか触れないかのところで、弾かれたように雷が名前を抱きしめた。

(先輩、名前先輩、……名前、さん)

 きっともう雷には会えないのだと悟った。彼は遠い星に帰ってしまう。まだ人類が発見に至っていない、嘘みたいに遠い星に。いきなり名前の日常に飛び込んできて、光の尾だけ残して消えてしまう。流れ星みたいだ、と雷の頭を抱えながら、名前は思考した。輝く翠の髪が震えて、名前は宥めるように、私も忘れないよ、と囁いた。
 どうしてあのときそんな事を言ってしまったのか、名前は今でも悔やんでいる。
 忘れてやる、と言ってやれば良かったのだ。自分の脳はそう上等でもないから、きっとお前の事なんかすぐに忘れる。お前が私を忘れなくても、私はすぐに忘れてやる。いつも女子に追っかけられては情けなく私の背に隠れて、いつも炎や激に無体を強いられて、いつも竜を追っかけていて、いつも私のそばにいたお前のことなんか、明日には忘れてやる。だから、忘れられたくなかったら。

「……帰らないで」

 口をついた言葉は、冷たい合板の机に落ちて揺れた。
 言えば良かった。言える訳がなかった。
 名前は年頃にしては物わかりが良くて、だからこそこうして今一つだけ涙が零れる。もうそれを見て慌てて、おろおろと慰めてくれる男はいない。言葉で慰められないと分かった末に、恐る恐る抱きしめてくれる男はいない。一つ戦うごとにもうやめると我侭を言っても、生真面目に取り合ってくれる男。いいことがあると名前以上に喜んでくれた男。あんなに愛し気な目で名前を見た男とは、もう二度と会えないのだ。
 雷、と呼ぶ。

「む、こんなところにいたか」

 ばっと目を上げれば、そこにいたのは清廉な真っ白い詰襟の男である。一瞬でも期待した自分を恥じ、責めるように名前は唇を尖らせたが、海には別の表情として映ったらしい。

「何だその顔は。何が不満なのだ」
「……別に、なんとも思ってないけど」

 一人で決まりが悪い名前は立ち上がって、目元を押さえる。濡れていることを悟らせないよう、不機嫌な表情を作って鞄を掴んだ。

「何か用? 放課後にもなって」
「とりたてて用と言うこともないのだが……君がこうしていることをよく聞いていたからな。遅くならないうちに帰れと言いにきただけだ」
「……あ、そう」

 誰から聞いていたのか、海は言わなかった。名前は黙って、海の横をすり抜ける。

「待て、女性の一人歩きは危ない。送って」
「いらない」

 遮って、背に浴びる視線を振り切るよう、名前は走った。廊下は走るな、と海が遠くで言う。追っては来ない。名前は申し訳なく、そしてありがたく思いながら、全速力で走った。
 涙が出るのは体が辛いせいだと思いたいから、速度を緩めるわけにはいかない。
 名前の星は大きくて、家に帰るだけでも息が切れる。雷のいる星までどれほど遠いのか、名前には見当もつかない。

11.03.25(13.06.02再録)
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