「働き過ぎだと思うんですぅ……」

 体温計を見て、罪木はおどおどと告げる。

「苗字さん、最近すっごく頑張ってましたからぁ……一日、安静にしてよく休んだら、熱も下がると思います……」

 白くて柔らかい手が前髪を掻き分け、濡れたタオルを置いてくれる。母を思い出してくすぐったくなり、むにゃむにゃと礼を言った。

「罪木さん、ありがと……」
「そんなぁ、私に出来るのはこれくらいですから……えへへ」

 下がり眉ながらも口元を崩して微笑む罪木だが、あぅ、と時計を見て小さく呻く。

「ふゆぅ……このまま誠心誠意看病させて頂きたいのはやまやまなんですけどぉ……私、これから……」
「採集だっけ? 大丈夫だよ、寝てたらいいんでしょ?」
「はいぃ……びょ、病人放ったらかしていくなんて保険委員失格ですよね!? ごめんなさいぃ……! あの、今日は首から「私はクズ以下のゲロブタド腐れ外道です」ってプレート提げて作業しますぅ!」
「いやいいよ罪木さん! いいから! ね!? 課題の期日近いからね!? 頑張ってね!」

 そんなプレートを提げられた日には復帰した時の周りの目が恐ろしい。
 泣きながら伏して詫び始める罪木を宥め、激励して送り出した時には休まりかけていた体も満身創痍の有様だった。

「……つかれた」

 ベッドのカーテンを引いて横たわると、南国の光が翳って身を包む。白い清潔なシーツは糊が利いていて気持ちいい。
 ここのシーツはいつ取り替えられたものだろうか? 以前掃除担当に聞いた事があるものの、その時は誰もそこまではやっていない、と返ってきた。にも関わらずここのシーツは毎日新しいものに換えられている。レストランの料理と同じで、生徒以外の誰かが用意しているという事なのだろうか。だとすれば、いつ。昨日ダウンしてから、名前は部屋を出ていない。

(朝になると自動的にシーツが入れ替わる仕組み……とか)

 例えば、午前零時を回ると見る見るうちにぱりっとし始めるシーツ。そんなものを空想して、名前はくだらなさにちょっと笑った。
 不可解なことを考えても、この島ではきりがないのだ。連絡船も来ないのに補充される商品棚、どこから引いているのか分からない電気、動くぬいぐるみ。ソニアではないが、オカルトじみたものまでこの島には溢れている。
 大きな羽枕が頭を柔らかく受け止めてくれて、ウッドブラインドをすり抜けた風も心地よくカーテンを揺らす。無為な考え事が端からどこかに流れていくような感覚と共に、名前は目を閉じる。

 ――夢を見た。
 己の才能を突き詰めて、誰よりも高みに昇って、そしてそれが当たり前で、並ぶものなどいなくなった後。
 世界にとって自分がかけがえのないたった一人、一人だけの――ひとりぼっちの人間になった後。
 世界が、誰も己を解してくれようとはせず、ただただ持ち上げて、遠巻きにするだけのものになった後。
 一人だった名前の手をとってくれた、美しい手があった。

 赤いマニキュアの残像が目蓋の裏から消えてしまう前、その指先を過たず掴んだ――と思ったのに、手の中で驚いた様に一度跳ねたのは、かけがえのなかった繊細な女の掌ではなく、骨張った男の左手。

「ごめん、苗字さん。起こしちゃったかな……」

 申し訳なさそうに言うのは、狛枝凪斗だった。名前の額に左手を当て、右手でタオルを盥の中へ戻してくれようとしていた途中らしい。掴んだ手を離すと、今度こそしっかりと額が彼の手に覆われた。
 大きな手だ。額どころか目蓋の上まで覆われてしまう。
 この手をどうして彼女の手と間違えたのだろう。いやそもそも、あの手は誰の手だったのか。彼女とは、誰だ。
 消えゆく夢の残滓は指の隙間から零れる水のようだ。狛枝の手が額から離れる頃には、一滴の手がかりも残らない。

「熱、まだあるみたいだね。花村クンがお粥作ってくれたけど、食べられる?」

 名前の身を起こして背にクッションを差し挟んでくれながら、狛枝はベッド横の小さなテーブルに置いた盆を示した。一人用の土鍋に蓋がしてあって、小さな碗と水差しも一緒に置いてある。とりあえず水を受け取って一息ついた名前は、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる狛枝に問う。

「ありがとう。でも、何で狛枝くんが?」
「ボク、今日掃除当番だから罪木さんから頼まれて。ホントは女子の方がいいと思ったんだけど、生憎みんな採集班でね。でももうお昼だから、罪木さんも戻ってくると思うよ」
「そっか……」

 「あーんしてあげようか?」という誘いは丁重に辞退して、碗に盛られた粥を口に運ぶ。梅と卵でシンプルに味付けをされたそれは流石と言うべきか、大変な美味であった。
 舌鼓を打つ名前を見守りながら、狛枝はにこにこ笑っている。
 その左腕がつい気になって見つめてしまうと、あまりに露骨な視線だったせいか、狛枝が不思議そうに己の腕を見た。

「? 何かついてるかな」
「あ、ううん、そうじゃないの」

 誤魔化そうとして、食べ終えた碗を盆に起きながら名前は言う。

「……狛枝くんの左手、気持ちよかったなって……あの、冷たいんだね」

 体温低いんだ、と言うと、彼は小さく笑う。

「苗字さん、熱があるから。確かにボク、体温は低い方だけど」
「そっか、そうだよね」

 差し出された両手を握ると、言う通りにひやりと冷たい。
 それでも、名前はやはり左手の方が気にかかる。
 骨張った、と表現したが、美しい手だ。指先に四角い爪が規則正しく鎮座していて、真っ白な手の先端を仄かな桃色に飾っている。掌を合わせて比べると、小指すら驚く程長い。
 蜘蛛の糸のような夢を思い返すと、あれは女の手だったはずだ。どうして狛枝と間違えたのだろう。それに――間違えたはずなのに、どうして今、あの手を捕まえたという確信があるのだろう。あの手と狛枝の手は、ひとかけらも合致しないはずなのに。
 不可解な感覚に熱でぼうっとする頭を悩ませていると、不意に狛枝が、合わせていた名前の掌を絡める様に掴んだ。

「!?」
「あはは、ボクより全然小さいね」

 朗らかに笑った狛枝は、名前の手を握ったままひっくり返したり握り直したり、まじまじと爪を見つめたりする。
 熱が一気に上がった気がして、けれど振り払えなくて、名前は顔を伏せた。

「こんな小さな手でも、超高校級の才能を持っているんだもんね。あはっ、ボクなんか大きいばっかりでクズみたいな才能だし、まさにうどの大木って感じだね」

 そんなこと、と否定しようとしたが、独り言だったらしい。狛枝はあっさり手を離すと、名前をベッドに横たえてくれる。薄い掛け物を喉まできっちりと引き上げると、おまけにぽんぽんと頭を叩いてくれた。

「ふふ、看病なんて初めてだよ。ボクみたいなゴミクズに看病されるなんて、却って具合を悪くしたかもしれないけど」
「そんな……狛枝くん、すっごく上手だったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。クズ虫のボクでも、超高校級の君の力になれるんだね!」

 うまい否定の言葉が見つからず、また狛枝のこの卑屈な物言いは一朝一夕に治るものでもないと、短い共同生活の間でもよく分かっていたから、名前はそれ以上言うのはやめ、曖昧に微笑むだけにした。
 満腹になったせいか、目一杯眠ったはずなのにまた睡魔が押し寄せる。
 カーテンを引き直し、狛枝は微笑んだ。再び薄暗くなった世界で、彼の声は歌の様に耳に滑り込む。

「タオル、今絞るね。他に何かして欲しい事はあるかな。ボクにできる事なら何でもするよ。と言っても大した事はできないから、期待はしないでくれるとありがたいけど」

 額の髪を分けるのは、あの美しい左手だ。
 ……本当に、綺麗だ。
 欲しいという衝動が名前の口をついて出た。

「変なお願い、するけど」
「うん?」
「もう一回左手、貸して」
「……いいよ?」

 タオルを絞っていた手を拭うと、狛枝は素直に左手を差し出してくれる。再び握った手はやはり冷たく、そしてやはり、焦がれていたものを捕まえられた、という安堵が湧き上がる。

「熱があるから人淋しいんだね、きっと」
「そう、かな……」
「うん、きっとね」
「そう、かも…………少しでいいから、一緒にいてくれる……?」

 狛枝と言うよりは左手に向かって話しかける。余計な肉のついていない、長い指が名前の手を優しく握り返した。
 昔、誰かに同じ様に問いかけた気がする。その時の答(いら)えは、どうだったか。

「いいよ、ここにいる」
(ここにいるあたしが、絶望的にあんたといてあげる。あんたを絶望させて、あんたと一緒に絶望してあげる)

 再び夢を見る為に閉じた目蓋の奥、少女の笑う声が聞こえる。ありがとう、と誰に向けて言ったのか、名前は自分でも分からなかった。

13.04.07
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