ずるずる、ずるずる。闇の奥から、這いずるような咀嚼するような、濡れた音が近づいて来る。これでもかと言う程生理的嫌悪感を掻き立てる音なのにアツロウが目を逸らせないのは、その中から名前の声がするからだ。

 ――ア――……ウ――、ロ……

 風に乗ってか細く、けれども確かに聞こえる、名前がアツロウを呼ぶ声。
 三日前にはぐれて以来、連絡が取れなくなっていた彼女の声だ。穏やかに優しく呼ぶ声に無事を知り、初めは喜色を露にしたアツロウだが、次いで襲われたのは悪寒だった。
 隙間風のように響くその声は、この異質な状況においては穏やか過ぎた。母が赤子をあやすように優しく鼓膜を震わす彼女の声は、しかし歌劇の魔王を思わせる誘惑の色が垣間見える。その響きに不用意に近づいてはいけない、と本能が警鐘を鳴らし、アツロウは結局一歩も動けず、息を殺して墓地の奥を注視していた。
 迎えにいってやれよ、と取り繕えなくなってきた理性が自棄気味に促す。ずっと探してた名前なんだぞ、何を怖がってるんだ。行って確かめたらいいじゃないか、無事だって。遅くなってごめんなって、ちゃんと謝らなくちゃいけないだろ。 風に乗って届く粘着質な音、巨体の何かが這いずる音、彼女の呼ぶ声、そして鉄錆の臭い。誤魔化しきれない異常に、傍らで同じように固まっていたヘッドホンの友人が声をかけた。

「……アツロウ」

 返事をしようとした口内は渇き切っていて、アツロウはごくりと唾を飲み込む。その音が意外と大きく響いて、アツロウは自分の行動だというのに飛び上がりそうになった。
 冷や汗が背を伝う。
 彼を何よりも絶望させたのは、その声が名前のものに違いないと分かってしまうことだった。悪魔は時に人に化け、人を騙す。そうであったらどんなに良かったか、とアツロウは益体もなく願った。
 けれどどんなに願っても、あの優しく親愛を込めて自分を呼ぶ声は、何が成り代わっているのでもない、間違いなく彼の知っている名前のものだ。教室で、帰り道で、自室で、何度も聞いた大好きな声が、ずるずる、ずるずると異音を伴って闇の奥からアツロウを求める。
 カブトムシの幼虫に似た突起状の移動器官が、濡れた音を立てて暗がりから光の下へ現れた。
 あ、と口から意識しない呻き声が漏れる。ユズが鋭く短い悲鳴を上げ、首を振っているのが視界の片隅に入った。目の前の現実を受け入れ難いのか、嘘、嘘、と繰り返すその声を、次の一瞬で大部分露になった姿が残酷に否定する。

「アツロウ、アツロウ」

 微笑む顔、伸べられた白い手、自分の名を繰り返す嬉しげな声の「名前」を、アツロウは暗澹たる表情で迎えた。

11.11.22
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