「セーガ…!あんたまた物理の先生にちょっかい出したでしょ!」
「あぁ?」
「こちとら幼なじみってだけで被害被ってんの!」
「はっ、いい気味だな」
「あ、あんたねぇ…っ!」

怒りか呆れか、もう区別のつけようがなくなった感情にひくりと口元をひくつかせた。けれど目の前にいる幼なじみは、そんなこと知ったこっちゃないという顔をして数学の続きを解きはじめる。もう十数年の付き合いになるのだから今更その性格をどうにかしてほしいとは思わないものの、年が経つごとにその性悪に更に磨きがかかっている気がしてならなかった。いや、これは確実に性悪になっている。昔の可愛かった清雅はどこにいったんだ。うなだれながらそんなことを思っていると、数学を解く手を一瞬止めた清雅は目の前の席の椅子を引いた。

「数学解き終わるまで待ってろ」
「…はぁい」

座って待っていろってことか、と引かれた椅子に腰掛けて鞄を膝の上に置いた。年々性悪な奴になっているけれど、こういう優しいところは変わっていないから清雅との幼なじみをやめようとは思わない。それに付随してくるマイナスもあるというのに、だ。

横を向くと、頬杖をつきながら清雅は迷うことなくノートにシャーペンを滑らせていた。硬質でまっすぐでキッチリとしていて、まるで彼の性格を表しているような数字たちが並んでいる。時折シャーペンを止めてはくるくるとそれを回して、思案するように書いては消して書いては消してをしばらく繰り返していた。

髪、柔らかそうだなあ。まつげ長いなあ。最初はシャーペンの動きを目で追っていたものの、気付けば私の視線はぼんやりと清雅の顔にまで移動していた。柔らかそうな髪も、長いまつげも、私にはないものばかりで羨ましい。字だって、私も汚いくはないけれど、もっとへろへろとしていてこんな大人っぽくて綺麗な字なんて書けないのだ。神は二物を与えないとは言うものの実際はどうだろうか。答えは否、一人の人物にいろんなもの与えすぎだよ神様。

夕暮れの空がうつる窓からは淡いオレンジの光が差し込んでいて、清雅のつめたい青銀色の髪をあたたかな色に染めていた。難しい顔をしながらシャーペンの頭でトントンとノートを軽く叩いており、ひょいとノートを覗き込むとどうやら三次関数。

「…このf(a)の計算間違ってない?」
「チッ…そっからやり直しかよ」
「珍しいね、清雅数学得意なのに」「…」

清雅は無言でノートに書かれた数字を消しゴムで消した。得意な数学を私に指摘されたのがそんなに悔しかったのか、その手つきは多少荒っぽい。カチカチとシャーペンの頭を押して芯を数ミリ出すと、清雅は先程消したf(a)の計算をやり直した。それから出た答えと先程から出ていたf(5)の答えを連立して、問いの答えを書き出すと清雅はガチャガチャと音をたてながらシャーペンと消しゴムをふでばこにしまう。

「帰るぞ」
「え、課題まだ終わってないんじゃ?」
「後は家でやる」
「…邪魔だった?」
「あんなジロジロ見られて集中できるか」
「ご、ごめん」

ばれてたのか、と思いながら片付けを始めた清雅を待った。鞄の中に数学のノートとテキスト、ふでばこを仕舞って携帯を取り出した清雅は、机の横に掛かっていたランチバックを手に取る。私が立ち上がって清雅に引かれた椅子をもとに戻すのと、清雅が大きいほうの鞄を肩に掛け終えたのはほぼ同時だった。

「いくぞ」
「うん」

教室の後方のドアに向かった清雅とは反対に前方のドアに向かって歩くが、私を止める声は飛んでこなかった。伊達に十数年幼なじみをやっているわけじゃないのだ、私が清雅のこの後の行動がおおよそ予想できるように、きっと清雅も私の行動がおおかた予想出来るに違いない。私は教室の黒板の隣にあった電気のスイッチを押して冷房のボタンをオフにすると、教室を出た。

昇降口で靴をはきかえて外に出ると、いつもと変わらない夕日が地面をオレンジ色に染めている。最近は日が落ちるのが早くなったな、とぼんやりと思った。

「清雅」
「ん」
「明日、朝、数学みせて」
「は?自分で解けよ」
「昼休みに解いたら、みっつめのやつ…グラフのあれ、わかんなかった」

いつも一緒にお弁当を食べている友人が委員会に行ってしまったため、やることがなかった昼休み。どうせ暇ならと数学の課題を片付けていたら分からない問題があったのだ。しかも結構最初のほうでシャーペンが止まってしまったため、ページは真っ白。厳しいとクラス中から恐れられている数学担当の教師にそのまま提出するだけの勇気が私にはなかった。けれど清雅ならたぶん、解ける問題だと思う。さっき私が清雅の数学を指摘できたのはただの計算ミスをしていたからであって、発想法は清雅のほうが的確だということは過去の成績から分かりきっていたことだった。清雅は口元を指先で隠しながら記憶を掘り返しているようで、やがて私がどの問題のことを言っているのか思い至ると「あぁ、あれか」と呟いた。

「写すだけなら課題の意味ないぜ。教えてやるから来い」
「え、どこに?」
「俺の家」
「…う、うん」

いともさらりと告げられた単語に、特に他意はないのだがどきりと胸が鳴った。清雅の、家。小さいころはお互いの両親が共働きということもあって頻繁にお互いの家に出入りしていたものの、最近ではめっきりお邪魔することがなくなったと思う。昔は一緒に昼寝をしたりプールに入ったりしていたほど仲の良い幼なじみだったのに、今は一緒に帰るだけなのだ。しかも清雅は生徒会に入っているので、その一緒に帰る機会さえたくさんあるとは言えないのが現実である。腐れ縁である清雅に幼なじみ以上のことを求めているわけではないが、この現状が寂しくないというわけではなかった。なかったから、少しだけ、嬉しい。

「明日、コンビニの肉まんひとつな」
「……」
「おい、稀世」
「…はいはい」

まぁ、この男がただで教えてくれるわけがないと、分かってはいたのだが。




オレンジの記憶



120924/