「…」
「清雅?どうし、んぐっ」

長官の部屋に報告に来たというのに、清雅は長官室の扉を叩こうと腕を持ち上げたところで動きを止めてしまった。どうしたのだろうかと清雅の顔を覗き込んで尋ねると、その大きな掌で口を塞がれる。それに驚いて奇声を発しそうになるが、彼の掌はそれさえも許さない。清雅は眉を寄せて難しい顔をしているようだったが、やがて舌打ちを零すとそのままの体制で慌てたように踵を返した。

「……戻るぞ」
「え、報告は?」
「馬鹿、今行ったら長官に殺される」
「は?」

意味が分からない、という顔をすると清雅はうんざりしたような顔を私に寄越す。長官室から遠退きようやく掌を口から離してもらうと、清雅はひとつ溜息を零してガシガシと髪を掻いた。夜も更けて明かりが少ない廊下では月の光だけが頼りで、清雅の表情は少し見えづらい。

「…女」
「は?」
「女の声がした」
「……茶州州牧の紅秀麗さん?」
「馬鹿か、長官と面識ないだろ。…あの人、嫁いるんだよ」
「よ、っ」
「声がでかい!」

再び清雅に口を塞がれるが、それをべりっと剥がして今度は無声で「あの人に嫁なんていたんだ?!」と尋ねる。すると清雅は苦々しく肯定の返事をした。意外だ。意外すぎるぞ、長官。

「え、なんで長官室にいるの?奥方といえど、外朝に立ち入りは…」
「そこは忘れろ」
「…こんな夜中に何の用だったんだろ」
「馬鹿、野暮なこと言わせる気か」
「…、…ごめん」

苛立ったような声に清雅の方を振り向くと、少し照れているような表情が見えて合点がいった。なるほど、そういう。意外と初な反応を見せる清雅にこちらまで恥ずかしくなり、口元を掌で覆ってうろうろと視線をさ迷わせた。

「長官やるなぁ…」
「女が言うな!」
「いでっ」

ぼそりと小さく呟くと、聞こえていたらしく清雅に頭を強く叩かれた。女も男も関係ないじゃんと唇を尖らせて言うと、そういう問題じゃないと返される。じゃあどういう問題なんだ。

そこで清雅の執務室につき、清雅は長官に提出するはずだった報告書をバサリと机に投げ出した。なんとも気まずい空気の中、私はお茶をいれようとお湯の準備を始める。カチャカチャと茶器の音を響かせながらちらりと清雅を振り返ると、現在手をつけている案件の資料をパラリとめくっている姿が見えた。今日の分の仕事は終わったというのに、一体どこまで仕事馬鹿なのか。

いれたお茶を清雅の前に置くと、それに気付いた清雅は顔を上げて「どうも」と短く告げた。最初はこのお茶係というのは清雅に女として見られている、もしくは下に見られているのだと言われているようで嫌だったのだが、清雅が唯一お礼を言ってくれることだということに気付いてからはそう悪い気はしない。何てったってあの清雅だ。

そう思いながら清雅の斜め前の椅子に腰を下ろし、自分用にいれたお茶に手を伸ばそうとすると「稀世、」と清雅に呼ばれてその手を止めた。代わりに茶器へと向けていた視線を清雅へと向ける。

「お前は飲むな」
「…なんでよ」
「眠れなくなるだろ。俺の仮眠室使えばいいから、さっさと寝ろ。報告は明日の朝だ」
「せ、清雅は寝ないんでしょ?私だけ寝るなんて、」
「お前、睡眠取らないと機能しない身体だろ。明日の仕事の効率が落ちるのは許さねぇ」
「…清雅は?」
「俺は徹夜しても機能する身体だからな。…心配しなくてもそのうち寝る」
「寝台借りてもいいの?」
「紳士だろ?」
「あ、そ…」

私が睡眠を取らないと身体が機能しないのも、お茶を飲むと頭が覚めてしまうのも正しい。ただ、清雅よりも先に寝てしまうということがなんとなく悔しかった。それだけかと言われればそれだけなのだが、ここで清雅に逆らうのは頭が悪い選択だと分かっている。きっと清雅はほとんど徹夜で結局は椅子で寝るんだろうな。そう予測がついてしまうけれど口に出すことはなかった。清雅が私をたまに女扱いしてくれるように、私も清雅の男としての矜持は尊重しているのだ。そして今回は、その言葉に甘えるのが正しいのだろう。

「あー、面倒だし敷布換えないよ」
「…お前がいいならいいが」
「いい。じゃあお先に。お休み」

うなじで結っていた髪を解き、清雅に挨拶をして仮眠室へと繋がる扉に手を掛ける。だが仮眠室に入ろうとした瞬間「稀世」と名前を呼ばれて清雅を振り返った。にやりとした笑みを浮かべている清雅に、嫌な予感が背筋を伝う。

「俺に襲われたくなかったら、ちゃんと服着て布団被って寝ろよ」
「か、鍵閉めるから!」

降ってきた爆弾発言に勢いで言い返すと、告げた通り扉を閉めてすぐに鍵をかけた。忘れかけていたというのに、先程の長官の話題を思い出して少しずつ顔に熱が集中してくるのが分かる。

(あ、ありえない…!)

私と清雅が、とか、空から槍が降ってきてもありえないだろう。私はそう思いながらもともと少ししか付けていない装飾を外し、眠りやすいように首元の官服を緩めてから清雅の寝台に潜り込んだ。だが、寝台に潜り込んだ途端に染み付いた清雅の匂いを感じて、なおさら先程の自分が考えていたことを再び思ってしまう。まるで清雅に包まれるような感覚は恥ずかしくもあり、けれどどこか安心して、私はなんだかんだですぐに眠りに落ちてしまった。




夜には魔物が住んでいる



130107