98

 一時間ほどかけて、花火はすべて夜空に打ちあがり、花火大会は終了になった。潮が引いていくように会場を去る人たちに混ざって、私と爆豪くんも駅へと向かう。
 今日の爆豪くんは、雄英の寮ではなく実家に戻ることになっている。こういう日に途中でさよならになるのは、やはり多少寂しいので、一緒に帰ることができるのは地味に嬉しい。
 混雑した電車に揺られ地元の駅に着いたときには、すでに二十時半をまわっていた。爆豪くんと一緒だと伝えてあるので、家族を心配させることはないだろうけれど、それでも普段の私からすればずいぶん遅い帰りだ。大戦以降、特に夜は気を付けるようにと、家でも学校でも重々言い含められている。
「こうやって駅から家に帰ってると、一年前に戻ったみたいだね」
 人ごみから解放されたことで、遅れて襲ってきた気だるさを感じながら、私は隣を歩く爆豪くんに向けて言った。
 肌にはまだ、潮風のべたつきが残っている。下駄の鼻緒がこすれて、足の指が少しだけ痛い。
 爆豪くんは静かだ。電車に揺られているときからずっと、爆豪くんはほとんど口を開いていなかった。さすがに疲れたのかもしれない。鍛えているとはいえ、運動量が多いことと人ごみに揉まれるのでは、疲れ方も違うだろう。
 夜風はささやか。浴衣にあわせて結い上げた髪の、襟足のほつれ毛が、ぺたりと首に張り付いている感覚がある。
「でも、思ってたより知り合いに会わなかったよね? もっと会うかと思ったけど」
 私だけが、さっきから言葉を発し続けていた。言わなくちゃいけないことを後回しにして、どうでもいいことだけを、ずっと、べらべらと。
「屋台のほうとかもっと見て回ってたら、もしかしたら中学の友達とも、」
「なあ」
「ん? なあに、爆豪くん」
「言いてえことあんだろ。言えよ」
 さっきまで停滞していた夏の空気が、ふいに大きくさざめいた。爆豪くんがあゆみを止める。気付けば私も、そこで立ち止まっていた。
 街灯がしらじらと爆豪くんを照らしている。月は見えない。
 爆豪くんの燃える瞳が、夜のなかでただ一対、冷たい熱を宿していた。
「てめえが言えねえなら俺から言う」
「え、ちょっと待って、」
 私の制止の声を聞かず、爆豪くんは言った。
「別れてほしい、だろ」
 時間と呼吸が止まった気がした。
「……なんで」
「んなもん、顔見りゃ分かる。なめんな」
 爆豪くんは長く息を吐きだして、視線を一度地面へ逃がす。爆豪くんのサンダルが地面とこすれて、じゃりっと音が鳴った。けれど爆豪くんは、その場から一歩も動こうとはしなかった。
 私もまた、縫いつけられてしまったように、そこから動けなかった。
「今日だけじゃねえ。春……、連合のことがだいたい片付いたあたりからか。ずっと悩んどっただろ」
 返事をすることができなかった。
 声の出し方を忘れたように、私はその場に立ち尽くす。
「いつ切り出すかと思や、ちっとも言い出さねえ。いい加減鬱陶しくて仕方ねえんだよ」
「ご……ごめん、でも……」
「言わずに自分ンなかだけで、呑みこんでごまかして、どうにかしようとしとったんだろ」
 バレバレだわ、と。爆豪くんがぼやくように言った。
 そっか、バレバレだったんだ。そりゃそうか、そうだよね。
 爆豪くんの声を聞きながら、諦念にも似た感情が、染み出すように胸の底からわいてくる。
 当たり前だ。爆豪くんに隠し事なんかできるわけない。そんなこと、ずっと知っていたことだった。
 俯けていた顔を上げる。爆豪くんは怒ることもなく、凪いだ表情で私を観察している。
 溜息をひとつ吐き、爆豪くんが言った。
「……右手が使えねえからか」
「違う」
 間髪を容れず答える。けれど爆豪くんは、私の声を無視して続けた。
「俺の右手が使えなくて、こっから本格的にリハビリしてくってタイミングだ。そりゃまあ、別れるなんて言い出せねえよな。ハンデ背負った人間を捨ててくみたいでよォ、寝覚めも悪すぎるもんな」
「違うよ、それが理由じゃ」
「わーっとる」
 言いかけた言葉を、爆豪くんが遮った。
 泣きそうな気分で、爆豪くんを見る。
 爆豪くんはこんなときなのに、ばつが悪そうに眉根を寄せていた。言い合いで言葉が過ぎたときと同じように、いつもと同じように。
「んな必死になんねえでも、こっちも言ってみただけだわ。こんだけいろいろあったなかで、それでも一年ちょい付き合ってんだぞ。おまえがそんな理由で別れるだのなんだの、んなこと決めるような人間じゃねえことくらい、分かってる」
「……」
「けどま、腕が理由じゃねえってことは、別れたいって気があんのは実際事実で、その理由がほかにあるってこった」
 爆豪くんの視線が、私をするどく突き刺した。
 その目を見て、その声を聞いて、私は悟る。
 ああ、これはもう、言わないといけないんだ。
 言いたくなかったけれど、言わずに済めばいいと思っていたけれど、もう、そういうわけにはいかないんだ。
 爆豪くんは、なかったことにはしてくれない。
 鼻をすすって、息を吐く。心臓が痛くて、胃もひっくり返りそうだった。頭の奥はがんがん痛むし、指先なんか感覚がなくなっている。
 けれど、もう駄目なのだ。ここまでお膳立てされて、言わずに逃げることはできない。爆豪くんの手が、しがみつこうとする私の手を、そっと離させようとしてくれているから、だから。
「嫌なこと言わせてごめん。ちゃんと、自分のことばで言うよ」
 これ以上、爆豪くんの優しさに甘えることはできない。
「爆豪くん、ごめん。別れてください」
 声に出して言った瞬間、すぐさま撤回したくなった。
 ごめん、うそ、やっぱ今のなし。そう言って何もかも取りやめにしたかった。
 けれど、そんなことができるはずない。発した言葉は取り消せない。
 爆豪くんは「そうかよ」と、低く小さく、かすれた声で呟いた。左手を顔の高さまで持ち上げて、眉間をつまんだポーズのまま、長く這うような溜息を吐く。
「……一応聞いとく。理由は」
「一番の理由は、進路のこと。だけど、多分それだけじゃなくて……」
 声が詰まりそうになる。それでも無理やり、言葉を紡いだ。
「爆豪くんと一緒にいると、どんどん自分で自分が嫌になっていく」
 ああ、そうだ。言葉にして、相手に伝えて、そこでようやく、私も自分で理解した。
 そうだ。そうだった。
 私はたしかに、自分にほとほと嫌気がさしていた。
 爆豪くんが、視線だけで先を促す。からからに乾いた口で唾をどうにか飲み込んだ。
 自分のなかで重たい靄となっていた感覚。それを、必死でたぐって言葉にする。
「爆豪くんがどんどん強くなって、かっこよくなって、すごくなって……。爆豪くんはたぶん、昔の自分と訣別して、新しい、なりたい自分に、なりたかった自分になってて、それが私にもよく分かって。……それで、それは、いいこと、なんだよね。いいことなんだって、分かってるんだけど」
 分かっているからこそ、つらかった。
 爆豪くんが進めば進むほど、私との距離はどんどん開くから。
 頑張っても頑張っても、爆豪くんの隣にいられる自信がなくなった。
「爆豪くんのこと、わたし、大好きだよ。好きになったのは高校に入ってからだけど、中学のときからずっと強くてかっこよくて、すごいのは知ってた。高校に入って、いろいろあって……、優しくなったよね。爆豪くんはずっとすごくて、今もずっと、すごくなりつづけてて……。分かるよ、見てたから。ずっと見てたから、ちゃんと分かる」
 爆豪くんは黙っている。黙って、私の話を聞いている。
「一緒にいるためには、私も変わらなくちゃいけないと思った。私も頑張らなきゃって、置いていかれないように、しなきゃって」
 そう思っていたのだ。
 最初はたしかに、そう思っていた。
 だけど、それだけじゃ足りなかった。
 世界を救った英雄たち。前途ある若き救世主たち。未来を嘱望されたヒーロー。
 そんな爆豪くんの隣に立つには、私の存在も、私の頑張りも、何もかもがちっぽけすぎた。そこに私が立つためには、私の頑張りなんかいらなかった。必要なのは、求められた役割を正しくこなすことだった。
「私が本当に頑張りたいこととか、本当になりたいものとか……そういうのはきっと、爆豪くんと一緒にいたらできないことなんだと思う。爆豪くんと一緒にいる私は、……爆豪くんの彼女でいるときの私は、どうしても、ただの私ではいられない」
「意味わかんねえ。分かる言葉で話せ」
「爆豪くんと一緒にいる私は、爆豪くんの彼女として正しいかどうかばかり、ずっと考えちゃう」
 爆豪くんの肩がわずかに揺れた。右耳のイヤーカフは今、わざわざ触れるまでもなく、私の心の真ん中でにぶく輝きつづけている。
「みんなが私に期待しているのは、爆豪くんの彼女として、爆豪くんを支えていくことなんだと思う。戦いが終わってからずっと、そういう目に見えないちからみたいなものは感じ続けていて……。もちろん今までもそういう視線はあったけど、でも、それはまだ、そこまで気にしないでいられたんだよ。他人の言うことを、私はそこまで気にせずいられたというか」
 さいわい、そういう生き方には慣れていた。
 四歳で個性を発現しなかったときから、他人の声に踊らされ、脅かされないよう努めて生きてきた。身に染み付いた生き方は、爆豪くんと付き合うなかで幾度も、私の心を守ってきた。
「でも、他人の声は無視できても、それだけじゃだめになっちゃったんだよ。今はもう、自分ですらまず、爆豪くんの彼女としてどうすべきなのか、最初にそれを考えてる。他人じゃなくて、ほかでもない自分がだよ。自分のしたいことより、爆豪くんにふさわしいかどうかを考えてるの。信じらんないよね」
 笑ってしまう。私はいつから、そんな人間になったのだろう。献身的で、自己犠牲を厭わない、爆豪くんを支えるための人間。
 そんな人間に、私はなりたかったのか。
「進路のこととか、学校のこととか、いろいろ。そういうの考えるときにさ、『これを選んだら爆豪くんと一緒にいる時間が減るな』と思うと、だめなんだ。『爆豪くんを付き合わせることになるな』と思うと、私はもう、その選択肢を選べない。どんなに自分のためになるって分かってても、……無理なんだよ」
「……んなこと、俺は頼んでねえだろ」
「うん。そうだよ。爆豪くんには何も言われてない。私が勝手に考えて、勝手にだめにしてるだけ」
 だから言えなかった。爆豪くんは私に何も強いていない。爆豪くんは何も悪くない。だから、爆豪くんには言えなかった。
「ひとりよがりなんだろうね。でも、どうしてもそうなっちゃうんだよ。だって、私のしたいこと、頑張りたいことなんて、本当にちっぽけなことだから。世界を救うような戦いを経験して、今もまだその戦いの影響下にある爆豪くんの前では、私の気持ちなんて、取るに足らない、優先される理由のないものに、なってしまうから」
 爆豪くんのことを、ずっとすごいと思い続けてきた。それこそ中学時代、付き合うより前から。好き嫌いで言えば嫌いだったけれど、それでもずっと、爆豪くんのことをすごいひとなのだと、そう思い続けてきた。
 恋人になって、隣に立つようになって。いつも私の先を行ってしまう爆豪くんに、必死に食らいつこうとして。
 追いつこうと、隣に並ぼうと思えなくなったのは、一体いつからだっただろう。いつから私は、支えることしか考えられなくなってしまったんだろう。いつから自分を、後回しにするようになってしまったんだろう。
「勘違いしないでね、爆豪くんを支えるのが重荷なんじゃないよ。それだけは絶対に違う。だけど今の私は、自分と爆豪くんのことを両立はできない」
 自分のことだからよく分かる。ふたつのものを両方獲りにいくことは、今の私には不可能だ。
「爆豪くんがもしも、ずっとそばで支えてほしいって私に言ったら、私はたぶん、自分の夢とか人生とか進路とか、そういうの全部平気で投げ出す。だけど私は、そんな自分になりたくなかった。これからも、そんなふうにはなりたくないよ。ううん、爆豪くんが言わなくても、自分できっと、投げ出しちゃう。意味ないことだからやめようって、そう考えちゃう」
 だから、こうするしかない。別れるしかない。
「ごめんね爆豪くん、全部私のわがままで、私の怠慢なのは分かってる。爆豪くんは自分のすべきことをしていて、なにも間違ってないんだと思う。すべきことをできてないのは私のほう。できない私の怠慢が悪い」
「怠慢、とは言わねえんじゃねえの」
「でも私と同じ立場なら、きっと爆豪くんは頑張るんだよ。……頑張れるんだよ」
 爆豪くんの言葉を、私はきっぱりと否定した。
 これが怠慢であることを、私は誰より知っている。許されるぎりぎり、無関係な人間のなかで一番、爆豪くんに近い場所に私はいた。そこで爆豪くんの頑張りを見ていたから、私は自分が怠惰な人間だとわかる。
 爆豪くんならできる。私にはできない。
 爆豪くんならば、私への感情と自分の行動を切り離して、最善を尽くせる。ほしいものをすべて手に入れるため、両立するために、必要とあらば置いていける。切り捨てるのではなく、置いていく。爆豪くんならば。
 そういう爆豪くんだから、私は好きになった。
 そういう爆豪くんだから。
 だから一度は、自分を諦めようと思った。
 凡人の私には、両方は手にできない。ひとつを選ぶことを迫られて、私は自分ではなく爆豪くんを選ばないといけないと思っていた。爆豪くんの手を、放しちゃいけないと。
 その手を放してくれたのは、爆豪くんのほう。
 私は最後まで、爆豪くんに救われている。
「大変なときにこんなこと言ってごめんね。でも、ここからは私のこと気にしなくていいから、自分のことに集中して」
 視界がにわかに明るくなる。雲が流れて、月が私たちを照らした。
「爆豪くんのこと、離れたところで、ちゃんと見てるから。ずっと応援してるからね」




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