08
個性のことに触れられるのは好きじゃない。いくら発現したからいいじゃないかと言われても、過去に経験した嫌な思いが消えてなくなるわけではない。
過ぎ去ったことだと言われたところで、被った悪意はなくならない。いじめられた側は、いじめっこの顔を、言葉を、絶対に忘れたりはしない。
個性の発現が人より遅かった。
今となってはそれすらも個性的、くらいには思える。みんなが一律四歳までに個性を発現するなか、私だけそうじゃなかったというのなら、それだってまた個性と言えなくもない。のんびりした性格の人間がいるんだから、のんびりした個性だってあっていいはずだ。
けれど現実には、個性を持たない私は幼稚園から小学校に至るまで、それなりにきついいじめにあった。
さいわい、我が家は両親祖父母みな揃って、個性の有無に頓着しない人たちだった。祖母が無個性なので隔世遺伝かね、と笑って済ませて、それだけだった。
そんな家族の在り方に、幼いながらに私は救われたし、個性がなくてもいいのかと納得もできた。個性がすべてではないと思えただけでも、私には十分に救いだった。
けれどそれはあくまでも家庭内での話である。一歩家の外に出れば、そこにあるのは個性至上主義の残酷な世界だ。
「名前ちゃんは出来損ないの無個性だから一緒に遊ぶと個性とられちゃうよ」
ひどい言葉を投げつけられた。まだ幼稚園児のころの話だ。
誰もあんたのしょうもない個性なんていらないと、そう言えたらよかったのだろう。そんな個性ならいらない、ない方がましだと一蹴できる強さがあればよかったのだ。
けれどそんな強さを備えるには、当時の私はあまりにも幼すぎた。言い返すだけの語彙も、すべてを撥ね退けられるだけの度胸も、持ち合わせてはいなかった。
それでも、胸にじわじわ広がる悔しさを、私はけして忘れはしなかった。幸か不幸か、そこで折れるようなやわな性格に生まれついてもいなかった。
いっそ委縮してしまえば、こじれることもなかったのかもしれない。けれど私は、そうならなかった。そうできなかった。
無個性だからといってなめられる道理はない──そんな思想の親のもとで育ったからか、物心ついた頃には、私は個性のことで引け目を感じることはなくなった。やがて小学校になると、嫌がらせに反撃することを覚えた。
そもそも小学生なんて、個性があったところで使いこなせない児童がほとんどだ。たとえ喧嘩向き、戦闘向きの個性を持っていたとしても、それを実際にうまくいかせる人間など、滅多にいない。そんなことができるのは、それこそ爆豪くんのような選ばれし一握りの人間だけだ。
普通に喧嘩をしたら、素手で殴って強い方が強い。もっといえば、ひるまず素手で殴れる人間が強い。今でこそ大した体格ではないけれど、小さい時は人並みに身長も体重もあったから、本気でやり返せばそれなりに喧嘩することはできた。
もちろん個性がないこと以外でいじめられるのは嫌だったから、勉強だって頑張った。弱みになりえる要素はすべて、ひとつ残さず潰さなければならない。
負けるわけにはいかなかった。
無視されたり、ものを隠されることは平気だった。親や先生にもバレないから、嫌がらせを受けていることを隠すこともできる。大事にしたくないのは私も同じで、大人にバレない程度の嫌がらせならば、それほど気に病むこともなかった。
けれど叩かれたり、実際に暴力を振るわれるのは別だった。相手がどれだけ巧妙にやったつもりになっていても、しょせんはいじめなんかするような小学生の浅知恵でしかない。遅かれ早かれ大人にバレる。
親にバレるのだけは絶対に嫌だった。
だからいっそ、やり返すことにしたのだ。無個性であることは私の怠慢ではないし、黙ってやられる道理はない。嘘いつわりなく、正当防衛を主張できる。
こちらが相応にやり返せば、女子小学生なんて当然ひるむ。直接的な攻撃はされなくなる。直接的に攻撃されなければ、あとの嫌がらせはかすり傷のようなものだ。
けれどそんな風に荒れた小学生時代は、ある日訪れた個性の発現とともに唐突に終わりを告げた。呆気なく「垂直飛び」の個性があらわれ、それきり私へのいじめはぱたりと止んだ。小学校生活は最後までひとりきりだったけれど、そういうものだと思ってしまえば、それほどつらくも感じなかった。
爆豪くんが私の個性について、何か事情を知ったらしい。そう思ったのはたまたま顔を合わせた道端で、いきなり個性の使用を強要してきたからだった。
隣の席同士、これまでも何度か少なからず会話らしきものはしてきた。けれど今まで、爆豪くんから個性のことをどうこう言われたことはなかった。
隠すつもりはなかったけれど、聞かれてもいない話をするつもりもない。爆豪くんとしては、単純に私に興味がなくて知らなかったのだろう。知りたくもない話を、わざわざ話題にする爆豪くんではない。
爆豪くんに個性を使えと言われたとき、本当はそんなに驚かなかった。地元の中学に進学してしまった以上、小学生時代の私の悪評が周囲の人間にバレるのは時間の問題だ。いくら私に興味のない爆豪くんでも、もしかしたら私の個性の話を耳にすることがあるかもしれない。そのくらいのことは分かっていた。
ただでさえ無個性の緑谷くんを目のかたきにしていた爆豪くんだ。私の個性のことも何か言うのだろうか。うーん、言いそう。だけどもし、本当に何か言われたら嫌だなあ、せっかく少しは仲良くなったのに。
そう思いながら、個性を使って見せた。
爆豪くんは私の個性を見て、しばらく黙って何かを考え込んだあと、言った。
「ハッ、俺のがすげえ」
明らかに私のことを見下した言葉だ。けれど、怒ったりだとか悲しんだりだとか、そうした感情は不思議と呼び起こされなかった。むしろその言葉は、何故だかすとんと心の中におさまった。
見下す言葉であっても、私を貶める言葉じゃなかったから。だから多分、嫌じゃなかった。あるいはその言葉が、爆豪くんの強い個性に裏付けされたものだったから。否応なしに納得させられる、純然たる事実だったから。
かつて私をいじめていた子たちと爆豪くんは、絶対的にものが違う。あの子たちは私を貶め、なじったけれど、爆豪くんは自分が強いということ、自分が一番になるということ以外にきっと興味はない。その姿勢は見ようによっては凶悪だし、自分本位である。
けれどそういう爆豪くんのことが、私はけっこう嫌いじゃなかった。
★
ぼんやりしていたらチャイムが鳴った。慌てて次の授業の準備を広げる。爆豪くんと個性の話をした日から数日、私と爆豪くんのあいだに特に変化はない。個性について話す機会もなく、またお互いその話を蒸し返す気もなかった。
隣の席の爆豪くんはさっきまで、両手を枕に机に突っ伏し眠っていた。今はだるそうな顔をして、まだ誰もいない教卓を睨んでいる。
ガラガラと音を立て、教室のドアが開いた。教師が入ってきて授業が始まる。
黒板に書き出された古典の訳を書き写しながら、ふと隣の席に視線をやると、何故か私を睨んでいた爆豪くんと目が合った。
いや、ていうかなんでこっち睨んでいるんだ。授業中なんだから前を向いてほしい。
恐怖を感じて、思わず笑顔を作る。私の歪んだ笑顔に、爆豪くんは本気で不愉快そうな顔をした。
と、おもむろに爆豪くんはパクパクと口を動かす。口を横に開いて、それからほとんど口の形を変えずにもう一音分。
なんだろうか。私は読心術なんて高度な技術を持たないので、意味が分からず首を傾げる。そもそも爆豪くんからこんなふうにメッセージを受け取ったのははじめてだ。何か大事な連絡だろうか。そう考えるとなんとしても読み解かねばならないような、そんな気になってくる。
恐らく最初の文字はイの段、二文字目は多分、エの段だ。アよりは小さく、ウよりは大きい。ということは、イネ? シケ? いや、シネ?
その瞬間、いかずちに打たれたような衝撃が私を襲った。
シネ、死ねだ! 今、爆豪くん、口パクで私に向かって「死ね」って言った! 絶対、絶対死ねって言った!
私が気付いたことに気付いたのか、爆豪くんがにたりとこの上なく悪い顔で笑う。その猛烈に腹立たしい笑顔に私も負けじと口パクで返した。普段ならば言わないような、口の悪い暴言の言葉。
爆豪くんは一瞬、不審げに目をすがめた。けれど、さすがは優秀な爆豪くん。すぐに私が何を言ったのか理解したらしい。
「あ゙ァ!?」
授業中にもかかわらず大声をあげて椅子から立ち上がった爆豪くんは教師に叱られ、ついでに何故か私まで叱られたのだった。