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正門を出ると、避難所の外は思っていた以上にずっと真っ暗だった。
月が皓皓と輝いているので、視界が不十分というほどではない。けれど、街灯に照らされる夜の街並みを見慣れている身としては、月の光だけをたよりにした夜というのは、やはり真っ暗に思えてならない。
インフラが大打撃を受け、各地で送電中断が相次いでいることは知っている。避難所内でも電力供給は不安定な状態が続いている。ただ、こうして街の景色としてそのさまを目の当たりにすると、さすがに心にくるものがあった。
こんな状況をなんとかするために、ヒーローたちは頑張っている。そうと分かっていても、どうしたって不安に押しつぶされそうになる。生まれてこの方、夜がこんなに暗いものだなんて、私は知りもしなかった。
心が萎えかけたのを感じ、慌ててイヤーカフにふれた。気を取り直すと、一歩ずつ、周囲を警戒しながらバス停への道を進む。重たい足を、どうにか前に出しながら考える。
一体全体私はどうしてこんなことを引き受けてしまったのだろう。遅まきながらの後悔が、胸にひしひし押し寄せ始めていた。
こんなの、まったくまったく、完全に全然、私らしくない。本来の私はこういうとき「本部にないならないですね」と言うタイプなのだ。同情はするけれど、それ以上に深入りはしない。自分が危険につっこんでいって、そのぶん誰かに迷惑がかかるほうが困る。
それなのに、一体全体、どうしてこんなことに。爆豪くんの恋人っぽい選択肢を選ぶ、とは言ったものの、これって本当に爆豪くんの恋人っぽかったのだろうかと、今更ながら不安になる。
むしろこれ、爆豪くんにバレたら、そこはかとなく叱られそうだな……。
そんなことを考えて身震いしつつ、私は目の前の路上を懐中電灯で照らした。
しばらく歩道を歩いていくと、やがてバス停についた。懐中電灯を動かし、停留所の時刻表の足元、真下あたりを照らす。
と、暗闇のなか、白く浮かんだそこに、何かころんとした物体が落ちていた。
「あ、あった!」
思わず快哉を叫び、私はそれに飛びついた。
そこにあったのは紛れもなく、現在大炎上中のナンバーワン、フレイムヒーロー・エンデヴァーのキーホルダーだった。フェルトでできた可愛らしいフォルムのマスコットは、とてもではないが家庭内暴力を繰り返していた人物のグッズとは思えない。
拾い上げて見てみるけれど、エンデヴァーのひげに泥がついている以外には、これといった汚れもない。ほっと安堵し、私はそのキーホルダーをポケットにしまった。なくさないよう、しっかりとポケットの奥深くに入れておく。
何はともあれ、探し物がすぐに見つかりほっとした。さてこのままさっさと避難所のなかに戻ろう。そう思い、お守りがわりの右耳のカフに、何の気なしにふれようとしたときだった。
愕然とし、私はその場に固まった。
そこにあるはずの固い感触がない。
爆豪くんからもらったイヤーカフが。
「うそ……、な、ない……!」
一瞬、頭の中が真っ白になった。いや、どうして。エンデヴァーのキーホルダーと引き換えに消えたわけでもあるまいし、一体どこにいってしまったのか。
「え、いやいや待て待て、落ち着け私……」
自分を落ち着かせるため、あえて声をだしてみる。もちろんそんなことで落ち着けるはずはないのだけれど、やらないよりはましだ。
避難所を出る前、あの母子と話をしていたときには、たしかに耳についていたはずだ。耳にさわったことを覚えている。そのあとに避難所を出たあたりでも、一度さわった覚えがある。もしもその時点で紛失していたとしたら、その場で気付いたはずだ。
「落としたのは避難所を出てからで、それでここまでは一本道だったわけだから……、もしも落としていたとしたら、避難所からバス停までの道のどこかに、絶対に落ちてるはず……」
よし、大丈夫。大丈夫だ。探すルートが限られているのだから、探して見つからないことはないだろう。気分が悪くなってきたような気がするけれど、どうにか己を鼓舞してごまかそうと試みる。
こんな時間だし、こんな時世なのがさいわいして、この数分で人通りはほとんどない。私以外のだれかが通りがかって拾っていってしまう、ということもないだろう。
前向きに考えてはみるけれど、それでも嫌な胸騒ぎはおさまらなかった。
どくどくと、心臓が嫌な高鳴り方をしている。己を鼓舞してみたところで、当然ながら完全に自分がごまかされてくれるわけではない。
しっかり耳につけていたはずなのに。落としそうになったことすら、これまで一度もなかったのに。
どうしよう。爆豪くんにもらったのに。
爆豪くんからもらった、大事なものなのに。
懐中電灯の持ち手をぎゅっと握りしめ、私は来た道をふたたび歩き始めた。先ほどよりも広範囲に向けて、懐中電灯の光をゆらめかせながら、ゆっくりゆっくり、地面のごみひとつ見落とさないように念入りに、たしかめながら歩いていく。
しかし、私の入念な捜索もむなしく、気付けば避難所の正門まで戻ってきてしまっていた。そもそも、それほど長い道のりではないのだ。いくらしっかり探したところで、そんなに時間はかからない。
春先で冷えた夜にもかかわらず、じっとりと嫌な汗が滲む。どうしよう。焦燥はさらに募る。あんなにしっかり確認しながら歩いたのだ。それでも、私が歩いた道には落ちていなかった。どこかに転がっていってしまったか、誰かが拾っていってしまったと、そう考えるほうが自然なくらい、目を皿にして探した。
けれど、見つけられないまま戻るわけにはいかない。見つからなかったからといって、簡単に諦めて手放せるような代物ではない。
あれは、爆豪くんが私のために選んでくれた、たったひとつのものだから。連絡すらほとんど取れなくなっている今、爆豪くんのことを思うための、たったひとつのよすがだから。
泣きそうになりながら、私はまた踵を返す。もっときちんと探すのだ。草の根かきわけてでも。側溝がない道だから、どこか手が届かない場所に落ちてしまったということはないはずだ。あるとすれば絶対に、手が届くところ。
自分を励まし、さっきまで以上にゆっくりと道を歩き始めた。やがてバス停まで到着してしまったところで、途方に暮れた私はふと、自分の隣にある大きな物体に目をとめた。
そこにあるのは飲み物の自動販売機だった。誰かが壊したのか、光を発することもなく、黙って稼働を停止している。荒廃というものを一言であらわしたような、なんともわびしい佇まい。
その自販機を凝視して、私はごくりと唾を飲み込んだ。正しくは、その自販機の下。地面とのあいだにできた、ほんのわずかな隙間を見つめて。
「ま、まさかね」
呟きつつ、ただそこに佇むのみとなった自販機を、私は睨む。
目視できる範囲はもうほとんど全部確認したはずだ。カフの形状を考えれば、落ちた後に転がることもあるだろうけれど、それを加味した範囲を捜索している。その上で、なお見つからない。
探していない場所は、あと一か所しか思い当たらない。
そう大きな隙間ではないけれど、イヤーカフが転がって入り込むくらいなら、可能性としてはじゅうぶん有り得る。
「いやー、そんな、ねえ……」
しかし可能性がある以上、見て見ぬふりをすることもできなかった。
悩むこと十秒ほど。かなり抵抗を感じつつ、私は地面にはいつくばった。アスファルトの冷たくかたい感覚が、地面についた手のひらや膝に鈍い痛みを与えてくる。
顔を横に向け、自販機の下のわずかな隙間を覗き込む。当然ながら、真っ暗で何も見えはしない。そばに置いていた懐中電灯をたぐりよせ、自販機の下を照らしてみる。けれどやはり、いまひとつ視界は好転しなかった。
「うーん、どうしたらいいんだこれ……」
私ひとりの力ではどうにもなりそうにない。いっそ隙間に手を突っ込んでみたらいいのだろうかと思うも、さすがにそれは躊躇われた。そこにカフが間違いなくあるというのならばともかく、望み薄な状況でそこまでする勇気はない。
いや、でも、爆豪くんからもらったものだし……。
私の脳内で、衛生観念を根拠にした嫌悪感を、爆豪くんのブチギレがぼこぼこにしている。いや、やっぱこれ行くしかないのか。私だって、ここまできたら諦めたくはないし……。
一度体勢を立て直し、私は大きく深呼吸をした。
やるのだ、やるしかない。
覚悟を決め、私はふたたび地面に張り付いた。上着の袖をまくり、いよいよ自販機の下に腕を突っ込もうとした、その瞬間。
「おい、そこではいつくばってるお前!」
「ぎゃーっ!」
急に声を掛けられて、私は思わず悲鳴を上げた。はいつくばっていた姿勢から飛び上がり、ぶんとも言わない自販機に背をあずけて警戒態勢をとる。
ふだん滅多に大声を上げない私が、よもやこんなテンプレみたいな悲鳴をあげる日が迎えようとは。そんなことを思いつつ、よく分からない臨戦態勢のかまえをつくっていると、
「ん? なんだ、子どもか」
闇の中でも浮かぶように白いコスチュームを身にまとった女性が、かつかつと金属音の足音を響かせながら、ゆっくりこちらに近寄ってきた。
その姿に、私は先ほどとは別の意味で悲鳴をあげた。
ヒーローに詳しくない私でも知っている、特徴的な兎の耳と好戦的な顔つき。見るからに肉弾戦向きの引き締まった肉体を持ち、すべての敵をその強靭な足で蹴散らす、バッキバキのバトルヒーロー。
「み、ミルコ……本物だぁ……」
うわごとのように呟いた。ミルコは私の前までやってくると、じろじろと私のことを上から下まで眺める。その視線を受けながら、私はどうしたらいいか分らず、謎の構えのまま突っ立っていた。
すごい、ミルコだ。本物だ。本物の、ヒーロー・ミルコ。
思っていたより小柄なんだな。髪の毛切ったんだ。ていうかこの辺で活動してたんだ。顔こわ……。いろんな感情がうずまいて、うまく声が出てこない。ヒーローなんて興味がなかったはずなのに、はじめて間近に見る「自分でも知ってるヒーロー」の姿に、私はこんなときなのになぜか妙に興奮していた。
「おまえ何やってんだ、こんなところで」
ミルコに問われ、はっとした。そうだった、こんなところで急にミーハーになっている場合ではなかった。
「あの、イヤーカフを落としたの、探してて」
私が言うと、ミルコは「ハァ?」と呆れたように眉を寄せた。ちょっと不機嫌そうな顔をしただけなのに、めちゃくちゃ迫力がある。
「んなもん昼間に探せよ。なんでこんな暗い時間に探してんだ」
「たまたま今気が付いて。それで、その、すごく大事なものなので」
ケッ、とミルコ。顔の怖さといい、どことなく爆豪くんを彷彿とさせる彼女の登場に、私はすっかり安心しはじめていた。もちろん、カフがまだ見つかっていない焦りはあるけれど、少なくともこの暗闇のなか、ひとりぼっちで怖くて孤独な気持ちは、今はもうほとんど残っていない。