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 切島がいうには、以前にも苗字は、その本屋の男とやらと一緒にいたことがあるらしい。
「二回目見たのは本屋じゃなかったけど、一回目は本屋だったし、上鳴が言うとおり俺もあの人は本屋の店員だと思う」
「あ? なんでてめえその時言わねえんだよ」
「言ったぞ。一回目は」
 切島がどこか呆れたような顔をした。言われて、俺は記憶をさかのぼる。そんな話をこいつとしただろうか。
 しばらく考え込んでいると、切島から「けっこう前。覚えてねえか?」と尋ねられた。……言われてみれば、そんな話をしたような気もする。そんな覚えがなくもない。だがたしかそのときは、たいした話じゃないと判断したんだったか。
 記憶をさかのぼっているうちに、だんだんと思い出してきた。たしかその頃は、ちょうど根暗がアホみたいに病んでいたのだ。俺も俺で仮免補講が始まって忙しかった。それで優先順位を考えた結果、本屋の男とやらのことは重大事ではないとしたのだったか。
 どうでもいいと思っていたわけではない。ないものの、たしかに後回しにはした。そしてそのまま、今の今まで忘れていた。
 つーか、んなことまで覚えてるわけねえだろ……。こっちがどんだけ忙しくしとったと思っとんだ……!
 腹を立てる俺をしりめに、上鳴と切島は話を続けている。
「けど一回目は爆豪に報告したのに、なんで二回目は黙ってたんだよ? ふつう逆じゃね?」
「二回目は、名前ちゃんに言うなって言われたから……」
「え!? それってやべーやつじゃん!」
 ヒイッと上鳴が悲鳴をあげる。切島は神妙な顔でうなずいた。
「名前ちゃん、泣いて……いや、泣いてはいなかったか。泣きそうな感じの、顔してて」
「……!」
 思わず目を見張った。むろん切島たちにバレない程度に、ではある。それでも、切島はうかがうように俺の表情を気にしていたから、もしかしたら気付いたかもしれなかった。
「泣きそうって……」
 上鳴は、なぜか俺より困った顔をしていた。
「それで、爆豪には言わないでくれって頼まれた」
 そう言って切島は、そこで一度言葉を切った。やはり俺の反応をうかがっている。どうリアクションしてほしいんだよ、と思わないでもなかったが、今の話の流れではさすがにそんなことは言えなかった。
 少なくとも切島は、一度は根暗とかわした「俺には黙っておく」という約束を、俺のために反故にしたのだ。罪悪感を感じているだろうところに畳み掛けるほど、俺も恩知らずではない。
 上鳴は俺と切島を交互に見て、おたおたと狼狽えている。まさか自分が始めた話が、こうもシリアスな空気の話題になるとは思いもしなかったのだろう。
「名前ちゃん、爆豪が忙しそうだから余計なことで煩わせたくない的な、そんな感じのニュアンスの話してた」
 今度こそ、俺は黙り込む。全体的に初耳の話ではあるが、まずいことにまったく思い当たる節がないわけでもない。というより、こうやって聞いてみると、最近の根暗にかんするさまざまなものが腑に落ちる。
 しかし、それは今は置いておく。苗字を問い詰め、洗いざらい吐かせたい気持ちは当然あるが、それは後からでも遅くはない。今はそれよりも、
「結局、その話に、男はどう絡んでんだ」
「泣きそうな名前ちゃんのこと、……なんつーか、慰めてる感じだった」
 切島は、どこか言いづらそうに答えた。
「俺が近づいてったら、そのまますっと離れてどっか行ったけど」
「おいおいおい……あわわわわ……」
「名前ちゃんは、たまたまそこで会っただけって言ってた。……ごまかしてる感じでは、なかったと思う。……爆豪、なんか心当たりあるか?」
 問われた言葉に、俺は返事をしなかった。
 根暗が病んだり挙動不審になっていることについては、まあまあ心当たりがある。だから今後、対処のしようもあるというものだ。
 というかそもそも、あいつはまだ病んでんのか? このあいだ通話をした感じでは、元気でピンピンしていたはずだ。言われてみれば、バカにテンションが高いような気はしたが。
 しかし男のほうは、まったく覚えがない。まじでまったく、ひとつも覚えがない。根暗の生活に男の影があるようにも見えないし、万が一そういう話があったとして、あの苗字が、この俺に隠し事をできるはずがない。単純に、あいつは嘘をつくのが下手すぎる。
 黙ったままの俺を前に、切島と上鳴が目くばせした。
「ちなみに俺が二回目に見かけたのは、爆豪が仮免補講でドタキャンした日だったはず」
「あの日か……」
 自分の声がいっそう低まったのが分かった。
 あれはさすがにまずった、という自覚がある。悪気があったわけではないが、ドタキャンのタイミングが悪すぎた。根暗がすでに待ち合わせ場所についた後だったし、そもそもが俺の都合で会えない日が続いたあとだった。
 根暗は文句のひとつも言わなかったが、あのクソ生意気が文句のひとつももらしていないというのは、たらたらと文句をつけられるよりまずい。
 室内に気づまりな沈黙が落ちる。
 その沈黙を破るように、上鳴がなぜか俺の肩をたたいた。
「まぁ、アレな? 俺が言い出した話ではあるが、あんま考えすぎんなよ」
 上鳴の手を払いのける。もともとは切島と勉強をしていたが、さすがにもう、そんな空気ではなかった。上鳴と切島がつれだって部屋を出ていく。音を立ててドアが閉まったのを見届けてから、俺はベッドに腰かけた。そのまま後ろに倒れ、仰向けになる。
 考えるべきことはいろいろあった。けれど真っ先に頭に浮かんだのは、補講が押して苗字との約束をドタキャンした日のことだった。
 補講のあとに苗字と会うというのは、実際のところ、それまでだってかなり厳しかった。体力的にはどうにかなっても、時間的な問題は俺ひとりではどうにもならない。
 補講が押せば、どうしたってあとの予定はつぶれる。補講の内容のハードさを考えれば、むしろこれまでそういう事態になったことがなかったことのほうが、奇跡的なくらいだった。
 行けなくなったと伝えたとき、苗字はなんと言っていただろうか。責められたおぼえはないから、大丈夫とか平気とか、そんな反応だったはずだ。
 今にして思えば、異様に物わかりが良かった。いや、良すぎたくらいだった。その少し前からそういうときはたびたびあったが、とはいえ都合を押し付けているのがこちらである手前、深くつっこむこともしてこなかった。
 壁にかけた時計を見る。まだ夕飯までは時間があった。メッセージアプリを開き、苗字との画面を呼び出す。
 朝方にきた根暗からのメッセージに既読をつけただけで、返信していなかったことに気付く。返信しようかと文面を考えかけ、けれどその手はぴたりと止まった。
 この時間、根暗はもう家についている。ふだん通話は夜にしかしないが、別に夕方にしてまずいということもないだろう。
 思考すること一秒。ほとんど迷うことなく、俺は発信ボタンを押した。
 コール音が三回続いたところで、通話がつながった。
「もしもし? 爆豪くん? どうしたの、今日は勉強とか特訓とかはいいの?」
 いつ聞いても気の抜けた声だが、今日は少しだけ声音が固かった。いつもと違う時間に架電したからだろう。陰キャはイレギュラーに弱い。
「今日は特に何もねえ」
「ふうん、そうなんだ。そういう日もあるんだ。や、そりゃそうか、毎日そんないろいろしてたら、疲れちゃうもんね」
 何やらごにょごにょと、根暗がしゃべっている。相槌かと思えば、勝手に感想を発表し、勝手に自己完結していた。こういうごにょついたところは、苗字とデクは少し似ている。不愉快。
「ええと、それで何だった? こんな時間にかけてくるの珍しいよね? 何か急ぎの用事とかあった?」
 苗字からそう問われ、俺ははじめて、話すことを特に考えていなかったと気が付いた。
 さっきの切島たちとの会話から、話さなければいけないことがあるのは分かっている。本屋の男っつーのはなんなんだだとか、聞かなければならないこともいろいろある。だが、いきなり核心に切り込むのは得策ではない。
 不意打ちで切り込めば、勢いで口を割らせることもできるかもしれない。だがこいつは都合の悪い話になると、平気で通話を切りやがる悪癖持ち。どうせ攻め込むならば、もっと逃げ場がない状況のほうがいい。面直だ。詰めるなら、向かい合ってガン詰めにかぎる。
 となれば、今はひとまずは搦め手だ。いきなりしょっぴくより、自白を促す方針で様子を見る。
「そっちは」
「え?」
「なんか……ねえのかよ、変わったこととか」
「なに? ないけど……?」
 露骨に戸惑った返事だった。
 根暗のくせに、むかつく喋り方をしやがる。
「なんか爆豪くん変じゃない? やっぱり疲れてる?」
「んなわけねえだろ、余裕だわ」
 疑うように黙る苗字。少ししてから「そっか」と短い返事が返ってきた。
 ふいに、今こいつはどんな顔をして話をしているんだろうかと、そんなことを考える。
 顔を合わせてない期間も、もう軽く一か月は過ぎている。会えない理由はそれなりに説明してあり、その点については苗字からの了解もとれている。根暗はアホではないから、説明すれば食い下がりはしない。
 けれど、そういえば、ここのところは次にいつ会えるのかすら、聞かれなくなっている。それが根暗なりの気遣いなのは分かるが、切島の話を聞いたあとではどうにも極まりが悪い。
「……今何してんだ」
「え?」
「今何してんのか聞いてんだ」
 雑に話題を振ると、根暗はまたも困惑したように「えぇ……?」と言った。
「今は、爆豪くんと電話……」
「その前! 文脈から察しろや!」
「えっ、なに? いきなり怒んないでよ怖いな……」
 困惑しつつも、しっかり文句は言ってくる。この女、油断するとすぐ図に乗りやがる。
「爆豪くんから電話かかってくるまで、何してたかってこと?」
「だからそう言ってんだろうが!」
「言ってないじゃん……」
 よくもこの読解能力で学年九位とかのたまえたな。こいつの学校、じつはめちゃくちゃアホの掃きだめか? 苛立たしさをおさえこんでいると、根暗がようやく俺の質問に答えた。
「今は、えーと、買ってきた本読んでたよ」
「本……」
 自分でも無意識に、根暗の言葉を繰り返していた。否が応でも、さっきの話に登場した「本屋の男」が頭にちらつく。
「そう、本だけど。え、なに? どうかしたの?」
 聞き返されたところで、こちらから「本屋の男」について聞けるはずがない。
 「本屋の男」の話をすれば、確実になぜ俺がそれを知っているのか、という話になる。本人のいないところで、いつどこで根暗を見たなんて話が共有されていると知れば、苗字が気分を害するのは目に見えている。
 いや、本当なら聞いても問題はないのかもしれない。なにせ根暗は俺の女なわけだから、不貞行為の疑惑があれば、それを質す権利が俺にはある。
 しかし、頭ではそう考えていても、どうしても質す言葉は口にできなかった。
 それを口にしてしまえば、取り返しのつかないことになるということが、思考をともなわないカンのようなもので分かってしまう。そして今のところ俺には、その取り返しのつかない事態をみずから呼び込むような、そこまでの覚悟はキマっていない。
「爆豪くん……?」
 苗字が心配そうに俺の名前を呼ぶ。こいつ、俺が誰のせいで頭を悩ませているのか、まったく分かっていないらしい。そうやって心配するくらいなら、はなから疑われるような言動をとるんじゃねえ。そう言いたい気持ちを、理性でどうにか押し込めた。かわりに、どうでもいい疑問を口にする。
「なんの」
「なに?」
「なんの本だよ。タイトル」
「……本当にどうしたの? 今日の爆豪くん変だよ」
 しばしののち、根暗が暗い声でおそるおそる聞いてきた。
「もしかして仮免補講、だめそうなの?」
「なんっでそうなんだ!」
「だって、おかしいよ……今まで私が何読んでるとか、そんなの気にしたことなかったじゃん……」
 不本意ながら、俺は今度こそ本気で、根暗に返す言葉を失った。
 こいつ、そんなふうに思っていたのか。
 たしかに根暗が何を読んでいるのかなんて、わざわざ本人に確認したことはなかった。が、気にしていなかったわけではない。わざわざ聞かなくても、根暗がどんな本を読んでいるのか、俺はだいたい知っていたからだ。
 中学時代から今に至るまで、根暗が読書しているところを見慣れている。かばんの中身が見えることもある。タイトルが見えればそれなりに記憶もしておくし、読書傾向だってなんとなく把握している。
「あっ、別に爆豪くんに教えたくないとか、そういうわけじゃないんだけど。でも、どういう風の吹き回しかなっていう」
 根暗が急いで言葉を継ぐ。それでも黙っている俺に、溜息をひとつ吐いてから根暗は言った。
「疲れてるなら、もう通話切っても大丈夫だよ。別に今日どうしてもしないといけない話があるわけじゃ、」
「うるせえ、変な気ィ回すな」
「…………」
 今度は根暗が黙る番だった。嫌な沈黙を垂れ流す携帯を耳にあてたまま、俺は舌打ちする。
 違う、今のは良くなかった。十中八九、根暗をキレさせる、あるいはへこます一言だった。が、言ってしまったものはもう遅い。口に出してしまった言葉を、無責任かつ簡単に撤回する気もない。
 相変わらず黙っている根暗に、俺はもう一度舌打ちをした。そして、
「……おい、週末空けとけ」
「週末? でも、補講は?」
「補講の後ならいけるっつってんだ」
「そうなの? 今度は無理じゃないの?」
 多分、苗字にとっては何気なく放ったつもりの言葉なのだろう。それでも、その言葉が妙に癇に障った。
「いけるっつってんだからいけんだよ。いちいち無理とかどうとか聞いてんじゃねえ」
「そうなんだ。うーん、分かった。でも、無理そうならはやめに教えてね」
 しつこいくらいに「無理ならいい」を連発してから、ようやく苗字は了解した。
「じゃあ、日曜だね。……楽しみにしてる」
 通話を終え、携帯を耳から離した。ベッドの上に携帯を投げ出したまま、俺は反芻するように今の通話を思い返す。
 結局、聞きたかったことは何も聞けていないし、言いたかったことも何も言えなかった。とはいえ、それらは直に対面して問い詰めつべき事柄だったから、話題にできなかったことをまずいとは思わない。
 問題は、そこではなかった。執拗に「無理なら」を繰り返し、必要以上に俺を気遣おうとする根暗の物分かりの良さが、言葉にできない不快感となって俺のなかを這いまわっていた。
 いや、不快とは違うのか。なんというべきか。遣る瀬無さ、あるいは焦燥。
 俺が思っていた以上に、根暗は、俺に期待することをやめているのかもしれない。




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