18

 金曜の授業をすべて終えると、私は試写会の会場である映画館近くの駅へと向かった。電車をおり、駅のすぐ近くのチェーンカフェの、窓際のカウンター席を陣取る。
 爆豪くんからは、だいたいの予想到着時刻を教えてもらっていた。合流するまであと一時間以上はある。せっかくなので、爆豪くんを待ちながら課題を片付けることにした。
 耳にイヤホンを挿して、音楽を再生する。
 コーヒー片手にしばらく集中して課題を進めていたら、唐突に背後から頭を小突かれた。その勢いでシャーペンの芯が折れる。
 いった、と呟きながら振り返れば、爆豪くんがコーヒーとサンドウィッチの載ったお盆を手に、私の背後に立ち睨んでいた。
「あ、おつかれー」
「テーブル席とっとけや無能」
「顔合わせて最初に言うことが無能って、だいぶひどいからね」
 文句を言いつつ私の隣の椅子に腰掛け、爆豪くんはガサガサとサンドウィッチの袋を開けた。ミックスカツサンド。サンドウィッチの中でも多分一番ボリューミーなものを選んできたのだろう。ぱっと見、爆豪くんの顔の半分くらいはありそうなサイズ感だけれど、それをつかむ爆豪くんの手が大きいためか、そこまで大きなサイズにも見えない。
 課題も一段落ついたところだったので、私もカウンターの上に広げていた筆記用具を片付けて、財布だけをかばんから取り出した。
「私も何か買ってくるね」
「勝手に行け。いちいち報告すんな」
「勝手に行くと怒るくせに」
「んだと!?」
「行ってきます」
 コーヒーはまだ残っていたので、悩んだけれどキッシュだけ注文して席に戻った。そう長く席を離れていたわけではないのに、戻ったときには爆豪くんはすでにサンドウィッチをぺろりと平らげた後で、携帯をいじりながらコーヒーをずるずる啜っている。ちらりと見えた画面はニュースサイトのようだ。
「おまたせ。爆豪くん食べるの早いね」
「こんなもん食ったうちに入んねえよ」
「うわ、男の子の胃袋ってすごい。私このキッシュだけで夕飯いらなくなるよ」
「だからてめえはひ弱なんだよ」
「いや女子はこんなもんだよ」
 ふと店内を見回せば、時間帯のせいかカップルがわんさと溢れていた。店内のあちこちにピンク色の空気がぷんぷん漂っている。
 私と爆豪くんも、彼らと同じカップルに見えているのだろうか。
 そんな浮ついた思考が、ほんの一瞬脳裏をかすめた。まさか私たちの周囲にピンクのオーラが漂っているとも思えないけれど、物の見方捉え方は人それぞれだ。もしかしたら私と爆豪くんを恋人同士と見る人だっているかもしれない。
 頭に浮かんだ思考の浮つきぶりに気づき、自分のことながら若干引いてしまった。慌てて首を横に振る。邪念を振り払ったつもりだったのだけれど、目の前がちかちかしただけだった。
「何しとんだ」
「いや、ちょっと自分を……いましめてた」
「は?」
「浮ついた思考を粛清してた」
「分かるように喋れや無能」
「また無能って言われた……」
 およそピンクとは程遠い会話の殺伐具合に、心のどこかでそっと安堵した。

 食事を終えると、私たちはようやく映画館に向かった。カフェでのんびりしすぎたせいで上映時刻ぎりぎりの滑り込みになってしまったけれど、座席が決まっているので特に問題はない。
 肝心の映画の内容はといえば、盛りだくさんのCG、そして俳優陣がスタントを立てずに自分たちの個性で熱演したという、迫真の戦闘シーンが売りのアクション映画だった。ばんばん告知を打っていただけあって、大して映画に詳しくない私が見てもかなり面白かった。
 普段この手の映画をあまり観ないので、どうにもほかの作品と比較することはできないけれど、きっと目が肥えた人が観ても面白いのではないだろうか。会場も沸いていた。暗い映画館の中、ちらりと盗み見た爆豪くんの表情も、心なしか楽し気に見えた。

『無茶よ、そんな怪我で……っ!』
『そこを退いてくれ、俺は、俺は戦わなきゃならないんだ』
『今度こそ本当に死んでしまうかもしれないのよ!?』
『それでも……、それでも俺はヒーローなんだ』

 スクリーンの中で、きれいな女優さんがはらはらと涙を流す。ストーリーは佳境に入り、重傷を負った主人公が無理をおして戦場に戻ろうとするのをヒロインが止めるシーンだった。
 メインはアクションなのだろうけれど、ストーリーには思ったよりも恋愛要素を盛り込んでいる。
 一般市民のヒロインが、戦場に赴くべく去っていく主人公の背中を、涙を流してじっと見つめる。そのシーンを見ながら私は、ヒーローの彼女って大変だなあ、と考える。
 私だったら……どうだろう。あのヒロインのように、相手に追い縋ったりしなければいけなくなるような恋愛は、できればしたくないかもしれない。恋愛のことなんてよく分かっていない経験の少なさだから、そんなふうに思うのかもしれないけれど、あんなふうに不安に押しつぶされそうになるくらいなら、最初から恋などしない方がいい。
 爆豪くんの恋人になるひとも、いつかああして敵と戦いに行く彼のことを見送らなければいけなくなるのだろうか。
 爆豪くんはきっと間違いなくトップヒーローになる。彼の性格からして、災害救助というよりは敵と戦う方が向いているのだろう。危険な敵が現れるほど、爆豪くんの存在が求められるような、そんなヒーロー。
 死地になるかもしれない現場に、大切なひとを送り出さなければならない。その苦しみとは、一体いかばかりのものなのだろう。
 そこまで考えてはっとした。いやいやいや、なんで私がそんなことを心配しなくちゃならないんだ。私にはそんなの、全然関係ないことなのに。
 頬に両手を当て、心を鎮めるように細く長く息を吐きだす。一度だけぎゅっと瞼を閉じて目に力をこめると、邪念を振り払って映画に集中した。

 ★

 乗り込んだ帰りの電車はそれなりに混みあっていた。時刻は二十時を回っている。ラッシュは過ぎているのだろうが、車内に座席はひとつしかあいていなかった。
「あいてる席、爆豪くん座りなよ」
 などと言ってみたところで、まさか爆豪くんが私の言葉に従って座るとも思えない。下手なことを言うよりは、黙って一緒に立っていた方が面倒も少ないだろう。
 そう思いつり革に手を伸ばそうとすると、爆豪くんが私の顔をぎんと睨む。かと思えば、あっという間に爆豪くんに乱暴に座席に押し込まれた。
「うわ、ちょ、いきなり何?」
「荷物」
「え?」
「荷物持ってろ、ひ弱」
 言うなり爆豪くんは、座席に押し込んだ私の膝の上に自分のかばんをどさりと放った。身軽になった彼は私の前に仁王立ちになる。距離が近いので立ち上がることもできない。
 なんとも不器用かつ強引に、席を譲られてしまった。別に、一緒に立っていたってよかったのに。爆豪くんの微妙に分かりにくい優しさに、私の胸がぎゅっとなる。
 ここのところ、爆豪くんといるとずっと変だ。ずっとなんだか、落ち着かない。
「座っていいよって素直に言ってくれたらいいのに……、逆にツンデレみたいな感じになっちゃって恥ずかしくない?」
「んだとてめえ喧嘩売っとんのかコラ」
「ありがとうって言ってるんだよ」
「言ってねえだろ!」
「察してよ」
「無茶苦茶なこと言ってんじゃねえよ! 根暗の分際で!」
 軽口の遣り取りをしていたら、いくらか気持ちが楽になった。へらへら笑いつつ、どうにか思考を切り替える。
 どきどきして、なぜか爆豪くんの方を直視できなかった。いっそずっとののしっていてほしい。暴言を吐かれているときの方が、いつもどおりで安心していられる。
 映画の感想について少し話して、それからどちらともなく黙った。がたんがたんと揺れる電車と、初夏なのにクーラーがききすぎた空気。誰かの家の柔軟剤と汗がまざったにおい。そういうものに注意を向けて、爆豪くんへの意識をそらす。
 どうしてだろう。どうして私は、爆豪くんのことを考えすぎないようにしているんだろう。
 脳裏にふと、映画のヒロインの横顔が思い出される。
 恋焦がれ、追い縋ろうとし、けれどそうはしない凛とした横顔。
 爆豪くんと一緒にいて沈黙に落ち着かなくなったのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 電車を降りて改札を抜けると、爆豪くんは何も言わずにずんずんと進んでいく。私の家と爆豪くんの家とでは駅からの方向が違うので、本来であれば改札で解散になるはずだ。
「爆豪くん、爆豪くんの家ってあっちだよね? こっちの出入り口に親御さんがお迎え来てるとか?」
「は? なわけねえだろ。つーか迎えなんて頼まねえよ」
「じゃあなんでこっち?」
「いちいち俺のすることに口出すんじゃねえ、根暗は黙ってしゃきしゃき歩けや」
 まったく質問の答えになっていない返事が返ってきたけれど、さすがにそれで察せないほど私は鈍くもなかった。先ほど電車で私に座っていいと言ってくれたように、いや言ってくれてはいないけれど、ともかく態度で示してくれたように、多分今も、爆豪くんは送ってくれようとしているのだ。まだそう夜更けという時間でもないのに。
 胸の真ん中が、またむずむずする。そのむずむずはじんわり温度を持って、私の胸の裡にゆっくり広がっていった。
 正体の分からない感情が胸の真ん中から、やがて指先にまで広がっていく。言い知れぬふわふわしたもので身体の内側が満たされていって、それがどんどん膨らんでいく。
 膨張して、破裂してしまいそうで。
 いやじゃないけど落ち着かない。
 訳が分からなくて居心地が悪い。
 うそ、本当は分かっている。
 分かっているけど、認めたくなかった。
「爆豪くんって、なんでもできるのに不器用だよね」
 誤魔化すように、私は口を開く。口から出た言葉は、少しだけ上ずっていた。
「意味分かんねえこと言ってんじゃねえぞ、俺にできねえことなんざねえわ」
「コミュニケーションスキルが低い」
「まじで殺す」
「そういうところね」
 爆豪くんが右手を振りあげて見せたけれど、それでもまったく怖くはなかった。小突かれたりはするけれど、個性を使ったひどいことはしてこない。爆豪くんは、もうそんなことはしない。そんな確信のようなものがあった。
 優しいというより、人として当たり前のことだ。けれど、そういうことではない。そういう表層的なことではなくて。
「そういえば前も、爆豪くんがうちまで送ってくれたことあったよね。あの時は偶然道で会っただけだったけど。そういうところ優しいよねえ」
 うちまであと数メートルというところに差し掛かる。街灯に照らされた爆豪くんの姿が、少し白んで見える。
「てめえがひ弱なうえに警戒心ゼロだからだろ」
「爆豪くんに比べれば大抵の女子はひ弱だと思うけど……雄英には爆豪くんより強い女子いる?」
「いねえ」
「即答」
「愚問。愚の骨頂」
「またそういう……。爆豪くんって好きな子とかいないの?」
 尋ねると、爆豪くんは眉根をよせてこちらを見た。脈絡がない質問だったからかもしれない。
「なんで」
「さっきの映画でラブシーンあったから、ふと思って」
「……てめえにゃ関係ねえだろ根暗女」
 取り付く島もなかった。たしかに私には関係ない話だ。
 関係ない。
 爆豪くんから見た私には、関係ないはずの話。
「関係は、ないんだけどね……。ただ、私はあんまりこうやって、男子と二人で話したり出掛けたりとかしたことないから、えーと、なんていうかな……、爆豪くんはどうなのかな、と思って」
 脳裏に蘇るのは数日前の友人の言葉。
 「爆豪勝己って名前ちゃんのこと好きなんじゃない?」
 そんなはずがないのは分かっている。
 爆豪くんにとっての私、私にとっての爆豪くん。
 出会いは最悪で、そのあとも結構ずっと最悪で。それからなんだかいろいろあって、今は少しだけ仲良くなった友人。
 私たちのあいだにあるものが、恋愛のようなやわらかい場所からほど遠い、何か別のものだということは分かっている。それでもむずむずした気持ちが、こそばゆい感情が顔を出すたび、何かが違う、間違っていると言われているような気がした。
 視線をつま先に向ける。高校入学時に新調してまだぴかぴかのローファーが、私の視線を吸い込んで鈍く反射する。
「こんなこと言ったら怒られるって分かってるんだけど、友達に爆豪くんの話したら、付き合ってるみたいだって」
 言葉を発しながら、祈るような気持ちになる。
 どうかどうか、いつもみたいに「そんなわけねえだろ根暗女」と一蹴してくれますように。
 爆豪くんのきっぱりとした否定の言葉。ただひとつ、それだけあれば、私は余計なことを考えなくてもよくなる。
 爆豪くんの一言で振り払ってほしかった。強い爆豪くんの強い言葉で消し飛ばしてほしかった。
 それは願望というよりもいっそ、祈りや願いにも似た気持ち。
「爆豪くんが私のこと好きなんて、そんなことあるわけないのにね」
 そんなことあるわけない。
 そんなことが、あるわけがない。
 そんなわけないと言ってほしい。
 私は爆豪くんからの返事を待つ。
 私の隣を歩く爆豪くんが、ふいにぴたりと歩みを止めた。自分のつま先ばかり見つめていた私は、隣にあった大きな影がなくなったことに気付き、遅れて足を止める。
 不思議に思って振り返って、爆豪くんの顔を見上げ──そして息をのんだ。
 爆豪くんの表情は不機嫌そうでも嘲るようでもなかった。眉間に皺も寄っていない。
 彼はただ、ただまっすぐに、私のことを見つめていた。
 私のことだけを見つめていた。
「てめえ、それ本気で言っとんのか」
 その静かで凪のような声に、何故か背筋がぞくりとした。 
「てめえは、俺がてめえを好きにならねえと本気で思ってんのか」
 もちろん、思っている──爆豪くんが私を好きになんてなるはずがないと思っている、なんて、そんな言葉を、まさか口にできるはずもなかった。
 私を見据える爆豪くんは、今まで見たことのあるどんな表情よりも真剣な面持ちをしていた。それなのに、無駄な力が一切こもっていない、自然体な表情を浮かべているようにも見える。
「ばくごうくん」
 からからになった喉からこぼれた彼の名前を呼ぶ声は、自分のものとは思えないほどよわよわしくて、まるで声の抜け殻だけが残っているみたいだった。爆豪くんのところまで届いたのかも分からない。震えて、かすれて、消えたかもしれない声。
 手を伸ばせば爆豪くんに触れることができる。声を出せば彼の名前を呼ぶことができる。そのはずなのに、体の横に垂らした腕は力なく、彼の名前を呼ぶ声はこんなにも空虚だ。
「……帰る」
 そう言って私に背を向けた爆豪くんの後ろ姿を、私はただ呆然と見送る。そして思った。
 私はどうしようもない、取り返しのつかないことをしでかしてしまったのかもしれない。




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