106
八年間、私のなかには爆豪くんの記憶がずっと残ったまま、色あせることなく存在し続けていた。
付き合ってた期間は一年と少し、出会ってからの期間を入れても、二年半くらいだろうか。そのたった二年半を、幾度となくよすがにしてきたせいか、私のなかで爆豪くんの印象はいつしか「口は悪いけど優しい」というテンプレートに単純化されていたような気がする。
だって、仕方ないじゃないか。しんどい受験生生活とか、地獄の卒論時期とか、限界留学生活とか、本当にきつかったんだから。そういうとき、甘やかな思い出として、爆豪くんから優しくされたことばかり思い出すようにしていたんだから。
だからいつしか、私のなかの爆豪くんそのもの、本人の印象までもがなんとなく、優しい感じに寄ってしまっていた。
けれど、そうだった。よくよく思い返してみれば爆豪くんって、べつに全然優しくなかった。
付き合ってたときも、凄まれたり脅されたり怒鳴られたり、貶されたり暴言吐かれたりしてたことのほうが多かった。
八年もの歳月で美化されていた爆豪くん像が、今突然、唐突に本来の画質と質感で思い出された。うわっ、怖っ! 懐かしっ! 今私、久しぶりに爆豪くんに凄まれてる!
テンションを上げるべきなのか下げるべきなのかも分らず、混乱した心情で目を白黒させている私に、爆豪くんはさらに一歩詰め寄ってくる。燃ゆる炎の瞳は変わらぬまま、目の前の私を脅かす気まんまんで輝きを放っている。
「そうだそうだ、そういやてめえは、そうだったよなァ……? てめえはまじで昔から、救いようがねえ、勉強しかできねえ、とんだクソボケ無能女だったわ。八年経ちゃ、ちったァましになったかと思ったが、相変わらず脳みそスポンジの、ドアホ根暗女のまんまらしいな? 八年経ってもまだ、その陰キャしぐさが抜けねえとはなァ」
「う、うお……」
すごい、急に怒涛の暴言に次ぐ暴言を繰り出してくる。中学、高校時代ですらここまで言われたことはないはずだ。脳みそスポンジって。しかも相変わらずって。もしかして八年前から爆豪くん、私のことを脳みそスポンジ女だと思ってたの?
あまりの暴言の満漢全席ぶりに、おそれをなした私は無意識に後ずさっていた。けれど、すかさず爆豪くんが私の腕をつかむ。うわっ、出た暴力の行使!
「待て、なに逃げようとしてんだ」
「や、逃げようとなんて」
そう日和りかけたところで、背筋が凍った。
このほぼ犯罪みたいな状況のなかで、なぜか爆豪くんは私の顔を見て、にやりと笑っていた。
「ハッ! やりゃできんじゃねえか、そのクソうぜえ目つき」
「えええ? ほ、本当になんなの……? さっきから爆豪くんおかしいからね。久しぶりに会ったのに意味わかんない言いがかり、まじでやめてほしいんだけど……」
「そうそう、それだったよなァ」
「いや、待って待って。なんでちょっと喜んでるの」
ここで見せるのが喜びっぽい顔って、本当にどうしてそんなことになってるんだろう。もしかして爆豪くん、チャート下がってたショックでおかしくなってしまっている……? こういうときって、どこかに通報したほうがいいんだろうか。
と、私の腕をつかんでいた爆豪くんの手が、少しだけゆるむ。一瞬、腕を振り払って逃亡すべきか、なかば本気で考えた。走って逃げても多分追いつかれるけれど、せめて努力はするべきだろうか。
私がどうすべきか決めあぐねているうちに、爆豪くんが口を開いた。
「俺のこと追いかけさせて、さんざん待たせてんのがどこの誰か、てめえの自慢の脳みそで考えてみろ。分かんねえとは言わせねえ」
まさか話がそこに戻ると思わず、私はごくりと唾をのみこんだ。そういえば、さっきまでそんな話をしていたのだった。このトンチキな状況のせいで、感傷的な気分はいつの間にかどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「……ヒントはないの? 本当に分かんないんだけど。私の知ってる人?」
ヂイッ! とバカでかい音がして、私は恐怖に飛び上がった。季節外れのセミの断末魔かと思うような恐ろしい音は、まぎれもなく爆豪くんの舌打ちの音だった。人間の口腔内の構造で出せるとはとうてい思えないような音を、よくもまああの音量で出せるものだ。
しかしこのままだと、次に断末魔の悲鳴をあげることになるのは間違いなく私だ。せっかく希望の職に就けたのに、こんなところで死にたくない。
「ごめん、本当に分かんない……」
悲鳴をあげたい気持ちをどうにか堪え、私は爆豪くんに、なんとかそれだけ伝えた。腕をゆるくつかまれているだけなのに、ほとんど襟をつかまれているのと同じ圧迫感。
爆豪くんはじろじろと不満げに私を見つめる。けれど本当に私が何も思いつかないと悟ったのか、彼はようやく諦めたらしい。そして、まったくもって不本意そうに、その回答を口にした。
「知ってるもなにも、てめえだわ」
吐き出されたその言葉を理解するのに、つかのま時間を要した。
知ってるもなにも、てめえだわ。てめえというのは、要するに私ということだ。だってこの場には今、私と爆豪くんのふたりしかいないわけで、爆豪くんはさっきから何度も何度も、私に向けて、てめえと呼びかけているわけで。
知ってるもなにも、てめえだわ。
私? 知ってるもなにも、私?
「え、……え? わた、わたし?」
混乱する私に、爆豪くんが心の底から嫌そうな顔をする。そんな顔させてごめんな、という軽口が喉まで出かかって、しかしさすがにそれは今ではなさすぎるだろ、という冷静な自分が、自分の口を閉じさせる。
そんな現実逃避に走ってしまうほど、爆豪くんの言葉の意味が分からなかった。
いや、言っている意味は分かるのだ。けれど、その真意を理解できるほどの脳のキャパシティが、今の私には残っていない。
そんな私にかまわず、爆豪くんは言う。
「つーかよォ、どこの世界にてめえ以外に、この俺を追いかけさせられる女がいんだよ」
「いや、私にもそんなことはできないんだけど」
「できてんだろ、現実見ろ」
「現実って……」
答えて、私は目の前の爆豪くんをまじまじと見つめた。
爆豪くんが目の前にいる。私の手をつかんでいる。それが今、私の目の前にある現実だ。
それだけが、私の目の前にある現実だった。
「うそ、本当に……?」
「うそや冗談で、八年もてめえのことなんか待ってられるか。こちとらガチガチに本気だわクソが」
信じられなかった。だってさっきまで、失恋の胸の痛みでひとりで泣いていたのだ。今度こそ爆豪くんを諦めなくてはと、本気で思い悩んで追い詰められていたのだ。
それなのに、本当に? 爆豪くんが本当に、八年間も私のことを好きでいつづけてくれた? 八年間、私のことを追いかけて、待っていてくれた? 本当に?
そんな嘘みたいな、奇跡みたいな、私にしか都合がよくない夢みたいなことが、本当にありえていいの?
「ったく、この俺を八年も待たせて逃げ回って、挙句の果てには『うまくいくといいね』だァ? どこまで俺のことコケにしや気が済むんだ」
「な、だっ、で」
「なんでもだってもでももねえ!」
私の反論を、爆豪くんが怒鳴り声で封じた。
「こっちがこの八年、どんな気分で『待て』されとったと思ってんだ? なあ、おい」
つま先で私の靴のわきを軽く蹴り、爆豪くんが苦々しい顔をする。目を見開いて見つめる私を、爆豪くんが射貫くように、まっすぐな瞳で見つめ返してくる。
「てめえがやりてえことやって、一端ンなったのと同じように、俺ももう、てめえの支えなんかいらねえとこまで持ち直した。こっからは誰もてめえの人生に口出しなんかさせねえってとこまで、どうにか状況持ってきてやったんだ。だからちゃっちゃか戻ってこいって、やっと言えんのを、俺がどんな気持ちで……」
「ば、爆豪くん……」
もう、何を言ったらいいのか分からなかった。
爆豪くんの言葉のひとつひとつが、とんでもない威力をもって私を滅多打ちにしてくる。
もう、もう、これ以上はやめてほしい。これ以上、そんなことを言われつづけたら、
「それを、なにが『好きなひとと』だ! んなもんてめえだわ根暗! ここに書いてあること全部っ! てめえのことに決まってんだろうが!!」
「うそ」
「次それ言ったら本気でぶっ飛ばす」
「う、」
「つーか、ここまで言わすなっつーんだボケ。クソ、しまんねえな……」
私の腕をつかんでいない、あいた左手で、爆豪くんががりがりと頭をかいた。ようやく逸らしてくれた視線は、悔しそうに地面を睨んでいる。
辺りが暗いので分からないけれど、きっと今爆豪くんは、さぞかし真っ赤な顔をしているのだろう。私の腕をとる爆豪くんの手の熱さを感じながら、そんなことを考える。そして私の顔もきっと、爆豪くんに負けず劣らず真っ赤になっている。
なんだかもう、胸がいっぱいだった。
今このまま死んでも、心残りなんか全然ない。いや、さすがにそれは嘘だけれど。週明けの打合せのこととか、まだ設計と相談中の楽しそうな仕事のこととか、ミルコとの次の約束とか、心残りはそれなりにあるけれど。
でも本当に、今だけはほかのことを全部忘れてしまうくらい、爆豪くんのことだけで、私の頭はいっぱいになっていた。
やっぱり全部夢だったとか、妄想だったとか、そんなことはないだろうか。腕に感じる爆豪くんの手の熱さは本物のはずなのに、あまりにも唐突にもたらされた幸福すぎて、受け入れる準備がまったくできていない。
「爆豪くんって、私のこと、まだ好きなの?」
「おい。てめえ、この期に及んで……」
「だ、だって、信じらんなくて……」
爆豪くんがイライラした顔をしているけれど、及び腰になっている場合ではない。
「だって、そんなの絶対ありえないって思ったんだもん」
「また『ありえない』かよ」
はぁーっと、これみよがしな溜息を吐く爆豪くん。
「くだらねえこと聞いてんじゃねえ。いい加減にしとかねえと、簀巻きにしてその辺のどぶに流すぞ」
「どぶに……。せめて川に流してよ。どぶじゃ詰まるよ」
「てめえなんざ一生詰まっとけ」
どういう言いぐさ? そもそも爆豪くんは私の質問に答えてもいない。暴言で煙にまけると思ったら大間違いだ。
私は一歩、進み出た。
爆豪くんとの距離はもう、ほとんどゼロに近い。
「爆豪くん、私のこと好きなの」
「てめえはどうなんだよ」
「え!?」
思い切って聞いたつもりが、逆に聞き返され狼狽える。どうなんだと言われても、私はそんなの、ずっと、もちろん、八年前からずっと、爆豪くんのことを好きなままだ。けれどいざそれを言葉にしようと思うと、どうにも口が重たくなった。
「え、あ……いや、それは……」
しどろもどろになる私を、爆豪くんはややバカにしたように眺めている。それからチッ、と舌打ちをひとつ打ってから、爆豪くんは言った。
「俺はてめえと同じ気持ちだわ」
「あ……」
爆豪くんのセリフに、私ははっとした。
それは高一の春、告白をせまってくる爆豪くんに対し、私が言い放った言葉だった。爆豪くんがちっとも好きと言ってくれないから、業を煮やして意趣返しのつもりで言った言葉。「そんなに言えって言うなら、じゃあ言わせてもらうけどさぁ、私は……私は、爆豪くんと同じ気持ちだよ」。
胸が詰まって、何も言えなくなった。
だって、その言葉の意味ならば、ほかの誰より私がいちばん、よく知っている。
「爆豪くん、」
「ったくよォ……、八年だぞ、八年。こっちゃ八年、スキャンダルのひとつも出さずにやってんだ。それもこれも、俺がスキャンダルなんか出した日にゃ、てめえの勉強が手につかなくなるだろうからって気ィつかってよォ……。だってのに、なんで分かんねえんだ。昔も今も、俺ァおまえ以外のやつに興味なんかねえんだよ」
ぐいと腕を引かれ、気付けば爆豪くんの胸に抱きとめられていた。やわらかなスウェットの下にある、しっかりとした爆豪くんの身体。男の人のにおい。爆豪くんの温度。
「俺の気持ちは変わんねえ。好きだ」
「う、ううう、うええええええ」
「おい、クソみてえに萎える泣き方すんな」
「わ、わたしも」
嗚咽がもれて、言葉をつむぐのに苦労した。爆豪くんの、なんか絶対高級な服に涙をつけないよう気を付けたいのに、そんなことに気を回す余裕がない。
好きだって、爆豪くんがそう言ってくれた。
そのたった一言が、私の全部をだめにした。
「私も、……私も、爆豪くんのことが好きです。今も、昔も、この八年間も、ずっと、ずっと爆豪くんのことが好きだった。爆豪くんのことだけ、ずっと大好きだった」
「ハッ、当たり前だろうが。俺以外に靡いてやがったら、とっくの昔にシバいとるわ」
私をぎゅっと抱きしめて、爆豪くんが笑う。笑っているはずだった。顔は見えないけれど、声が笑っていた。
「……もう逃がさねえぞ」
「うん」
「待つのはこれっきりだ。……分かってんだろうな」
「うん、大丈夫。もう大丈夫だよ」
爆豪くんが好きだと言ってくれたから。
爆豪くんがずっと私を待っててくれたから。
私の気持ちを信じて、尊重して、ずっとずっと、待っていてくれたから。
だからもう、大丈夫。
もう何があっても、絶対に大丈夫だと思えた。