Episode.1


 男の逞しい腕が、私の腰を抱いている。
「ええよな? 自分もそのつもりやったから、ここまでついて来たんやろ」
 男の熱く絡みつく視線から逃げるように、私は視線を横へ逸らした。壁の一面をガラス張りにした窓からは、大都会の夜景が一望できる。
「それは……そうともいうし、そうでないともいう、というか」
「なんや、煮え切らんな。まあええわ、どのみちこっちはとっくにその気なんや」
 必死の反論もむなしく、私の意思は無視された。男の片腕に抱きとめられたまま、身体を強く押し付けられる。思わず、身体を後ろへ引いた。けれど私と男のあいだの距離が広がることはなく、それどころか勢いそのままに、私は仰向けに押し倒される。私の背後に控えるは、優美な装飾と清潔なリネンのかかった、キングサイズのベッド。
「あ、」
 背中に布団の感触を得たのと同時に、男もベッドの上に乗り上げて、私の上に覆いかぶさった。ひ、と悲鳴じみた声が喉元までせり上がる。
「そない怯えんでもええ」
 にぃっと弧をえがいた男のくちびるが、ゆっくりと私の顔に寄せられた。
「ちゃんと俺が気持ちようしてや──」
 その瞬間、私の顔面になまあたたかいものが滴った。と同時に、ごろり、とベッドの足元の床に、重たいものが転がる音がする。
 目を見開く。最前まで今にも私に口づけようとしていた顔が、いやその顔が張り付いていた男の頭部そのものが、きれいさっぱりそこから消え失せていた。
 さらに、頭部を失った胴体が、ゆらりと重力そのままに、私の方に崩れ落ちてくる。
「う、ひぃ、いや──ッッッ!!」
 咄嗟にベッドの上で身を翻し、どうにか胴体の直撃を免れた。男の胴体はやがて音を立てて、ベッドにうつ伏せに倒れ伏せた。
 横たわる首から下だけの死体を、私は黙って見つめる。と、
「ほー、結構ええ眺めやん、この部屋」
 場違いに呑気な関西弁が聞こえ、私は死体から視線を外した。そして、むっと眉根を寄せる。
 先ほどまで私への下心全開にしていた濁声のとは違う、もっとけだるげで、聞き慣れた関西弁。
「……もうちょっと早くどうにかなんなかったんですか? 神々廻さん」
 溜息まじりの私のぼやきに、神々廻さんはこちらに振り向いて「ちゃんと間に合おうてるやん」と平然とうそぶいた。

 日本の殺し屋業界に圧倒的な影響力を誇る「日本殺し屋連盟」通称、殺連《サツレン》。その殺連の最高戦力たるORDERは、端的にいえば私の業務提携先、いわゆるお得意様だ。
 他人の嗜虐心や征服欲、ありとあらゆる仄暗い欲求を刺激するという、私の特異体質。道を歩けば通り魔に鉢合わせ、食事に出掛ければ強姦魔に薬を盛られそうになる。まともな社会生活を送ることもままならない私に就ける職業など、この不可思議かつ最悪な体質をいかした唯一無二の肉体労働くらいしかない。
 殺し屋からの依頼を受け、標的の前にこの身を差し出す。撒き餌となって、任務を成功にみちびく。殺し屋相手に営業三昧──おかげさまで、これが私の天より与えられし、ふざけた生業だ。

「私もう少しであのキッショいおっさんにキスされるところだったんですよ? 服脱がされたし! 本当にありえない、まじでキモすぎ! うっかり悲鳴上げちゃったじゃないですか」
 下着から露出した鎖骨には、切断された標的の頸部からしたたった血液が、びしゃびしゃと盛大に跳ね散らかしている。血濡れの下着を脱ぎ捨て、バスルームから持ってきたタオルを濡らして肌をごしごし拭っているあいだにも、悪態が自然と口をついて出た。
「加齢臭きっついし、まじで最悪ですよ。クソ、カス、死ね」
「もう死んでんで」
 混ぜ返すような神々廻さんのツッコミも、私のかっかとした頭を冷やしてはくれない。
「ていうか神々廻さん来るの遅いですよ! 部屋に入った時点で全然やれそうな雰囲気だったじゃないですか!」
「お前が服脱がされるの待っててん。この間の仕事んとき、気に入ってる服が血まみれになった〜いうて、お前大佛相手にめちゃくちゃキレてたやろ」
「服血まみれになる方がおっさんに脱がされるよりまだマシです」
「いやー、分からへんわ」
「ていうかダメになった服は経費で落とせるけど、心の傷は経費でどうにもできないし」
「そこにおっさんの財布置いてあんで」
「え? あ、本当だ。ラッキー! うわっ、三十万キャッシュで入ってる! やったー! おさわり代として徴収しちゃお」
「心の傷が何やって?」
 話しながらも全身を拭い終える。血のりでべっとり汚れたタオルは、いつものとおりそのへんに適当に置いておいた。どうせこの部屋にも、あとでフローターが入る。
 神々廻さんに視線を向けると、彼はそばに置いてあったボストンバッグを、こちらへぽいと投げてよこした。なかには下着まで揃えて着替えが入っている。
「シャワー浴びたいとか言わへんよな」
「もちろんです」
「もうちょい夜景楽しんでいきたいとかは」
「夜景が見たいときはおっさんの奢りじゃなく、自分で稼いだお金で見ますよ」
「さっきふところに入れた三十万は、自分で稼いだうちに入るん?」
「臨時ボーナスくらい許してくださいよ。殺連には内緒にしてくださいね」
「ええけど、このあとの店、勘定お前持ち」
「高いお店のとき、いっつも私が払ってる気がする……」
 私の言葉は、神々廻さんの「それにしても夜景きれいやな」という、しらじらしいセリフによって抹殺される。せめてもの抗議の意思表示としてジト目で睨んでみるものの、
「さっさと着替えて大佛と合流してメシ行こ」
 とあっさり流された。
「ちゅうか今更やけど、お前のぶんも店の席予約してあんで。行くやろ?」
「行きます行きます。こんなたくさん血を流したあとだし、しっかり食べて精をつけないと」
「血流したのお前ちゃうやん」
「ていうか大佛ちゃん来てるんだ。はやく大佛ちゃんに会いたいな」
「聞いてへんし」
 俺のまわり、こんなんばっかやん。ぼやく神々廻さんの言葉を、先ほどの仕返しとばかりに聞き流し、私は用意された着替えのシャツに袖を通した。

 ★

「今回の仕事、私いらなくなかったですか?」
 着替えを済ませたのち、大佛ちゃんが待つ店に移動しながら、私は神々廻さんにまだ文句を垂れつづけていた。店はこのホテルのすぐそばの料亭で、歩いていける距離だという。
「あんな隙だらけな標的、別に餌を撒かなくたって、神々廻さんならどうにかなったでしょう」
「そういうけどなぁ、あれであのおっさん、めっちゃガード堅かったんやで。ここんとこずっと張っててんけど、もうこれ以上時間かけられへんいうてお前に声掛けたんや」
「ガードねぇ……」
「おー。で、唯一の弱点が女好き」
「それは、事前の資料で読みましたけど」
 先ほど触れられた皮膚の感触や、ねばっこい視線を思い出す。なるほどたしかに、かなりたちの悪い女好きではあった。私の場合、自分の魅力云々は関係なく、他人の下心を引き出しやすくはあるのだが、それを差し引いてもなお、ずいぶん簡単に引っかかってくれた。私でなくても餌はつとまったのではないかと思う。
「せやけど、大佛は嫌やて言うし」
 私の思考とリンクして、神々廻さんが溜息まじりに言う。
「それはまあ、大佛ちゃんにあんなおっさんの相手させられるわけないですよ」
「そこは仕事として割り切ってもらわへんと」
「大佛ちゃんがいいって言っても私が嫌です。大佛ちゃんを差し出すくらいなら、私が一肌でも二肌でも脱ぎます」
「もともとはお前関係あらへんけどな」
 淡々と神々廻さんは言って、通りの光に視線を向けた。
 私は殺し屋ではない。だから当然、殺連にも所属していない。神々廻さんの「関係あらへん」というのはそういう意味だ。
 ORDERはたしかに私のお得意様だが、ORDERから私に依頼が入ることは、実際にはかなりまれだ。普段の私の仕事相手は、殺連に所属しつつも自分だけでは依頼を遂行できない、そういう殺し屋がほとんどを占めている。
 ORDERからの仕事の場合、依頼してくるのはたいてい神々廻さんか大佛ちゃんで、ときどき豹さんとの仕事のこともある。南雲さんは変装のスキルを持っているから、わざわざ外部に餌を求める必要がない。篁さんは言うに及ばずだ。
 神々廻さんや豹さん、大佛ちゃんにしたって、戦闘技能は人並外れた化け物級だ。たいていの場合、彼らの仕事では餌など撒く必要もない。少しでも標的に隙があれば、一撃で仕留めることができる。
 ORDERが私のお得意様なのは、一度の依頼の報酬が文字通り桁違いだから。彼らは自分の技能に自負と矜持を持っているから、余程のことがないかぎり、部外者である私に声を掛けてはこない。そう考えれば、今回の標的であるあのおっさんも、神々廻さんの言うとおりそれなりにガードが堅い手ごわい相手だったのだろう。苦肉の策として、私に声がかかったに違いない。
 神々廻さんと並んで、通りを歩く。時刻はもうじき日付を超えようかという頃だが、これから行く店は、常連に融通をきかせてくれるので重宝している。
「そういえば神々廻さん、さっき私の下着姿見ましたよね?」
 ふと思い出して、私はたずねた。神々廻さんが視線をわきへ逸らす。
「見てへん見てへん」
「うそ! めちゃくちゃしっかり見てた!」
 あのときはこちらも気が立っていたので、おっさん以外に苛立っている余裕はなかったが、思い返してみればあのときたしかに、神々廻さんにも下着姿を見られた気がする。
「見ましたよね? 私のなまめかしい肢体を」
「ようそこまで自信持てるな。すご」
「はぐらかすのやめてください!」
「……仮に、仮にやで? 見たとて、……なぁ?」
「なぁって何ですか!?」
「しっかり見たとて……」
「とて、って言わないでくださいよ! 傷つく!」
「心の傷開いてる?」
「三十万程度のはした金じゃとうてい塞がらない傷ですよ!」
 はは、と神々廻さんが軽い笑い声を立てた。その心底どうでもよさそうな笑いに、私はむっと神々廻さんを睨みつける。
 べつに裸くらい、今更のことではある。神々廻さんとの付き合いはそれなりに長いし、それこそ下着姿を見られるくらいならば、もはや恥じらうこともない。
 だが、自分の意思で脱いでいるときと仕事でいやいや脱がされているのでは、やはり何となく気分が違うものではないだろうか。そういえばここのところ、神々廻さんとそういうことをしていない。大佛ちゃんとなら、それなりにそういう機会もあるのだが。
「大佛ちゃんに言いつけちゃおうかな。神々廻さん、私が脱がされるまで殺しもせず待ってたって」
 ぼそりと吐き出した声に、神々廻さんが本心から嫌そうな顔をした。
「お前、やめとけって……。大佛にそういうんは、ほんまに冗談にならへんから」
「この後の食事代、半額神々廻さん持ち」
「すぐそういう……。や、まあええわ。そのかわり絶対大佛に言うなよ」
「信じてくださいよ。私は嘘は言わない女ですよ」
「口先でおっさん部屋まで引っ張りこんどったたやつが、どの口で言うてんねん」



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