前日譚/灰白色の個体番号 U


 はじめて個人的に対面したミオリネ・レンブランは、記憶のなかの彼女よりも溌剌として、大人びているように見えた。
 株式会社ガンダム本社内、社長室。私のような人間が、社長室と聞いて真っ先に思い浮かべるイメージとは、その部屋はまったく違っていた。
 社長用のデスクがあり、応接用のテーブルセットが置かれている。しかし、社長室らしいのはそれだけだった。あとはいかにも殺風景で、ひとまず最低限の機能だけは果たせるようにしたとでもいうような、没個性なしつらえだ。
「何もなくてびっくりした?」
 私が無遠慮に部屋のなかを見回していたことに気が付いたのだろう。ミオリネさんは何ということもなさそうな調子で私に問うた。
「あ、いえ……」
「いいのよ。仮住まいっていうか、この物件もこのあいだ契約したばっかりで、まだまだ何も手付かずなのは事実だから。そもそも普段、あんまりここにいないし」
 ほとんど物置みたいなもん、とあっさり言ったミオリネさんは、私に来客用のソファーをすすめて、自分はその向かいに腰かけた。
 見計らったかのように、女性がふたりぶんのお茶を出して、部屋を出ていく。いい香りだ、と思ったところで、ミオリネさんが「さて」と切り出した。
「改めまして。はじめまして、ナマエ・ミョウジさん」
「はじめまして」
 実際には、はじめましてではなかったが、ミオリネさんに話を合わせる。むろん、こうして言葉をかわすのはこれがはじめてだ。私が一方的に、ミオリネさんを知っているに過ぎないので、彼女の言葉は無礼でも何でもない。
 かつて私は一度だけ、シャディク坊ちゃまが彼女のことを、パーティーでエスコートしているのを目にしたことがある。以来ずっと、その姿が脳裏に焼き付いている。消えないイメージとなって、こびりついてしまっているのだ。
 けれど、それだけ。私とミオリネさんの関係は、それだけだ。
 胸の奥にふいに湧いた、懐かしい感傷から目を背ける。今は記憶のなかのイメージにこだわっている場合ではない。私はつとめて、目の前のミオリネさんに意識を集中した。
「それで、本日は私にどういったご用件で……?」
 それは今日、私が真っ先に聞くべき質問だった。
 私は自分がなぜ今この場に呼び出されているのか、まったく知らされていない。数日前に勤め先であるゼネリ邸に呼び出しの連絡があり、指示に従っただけだ。
 とはいえ、ほとんど面識のない相手からの──それも、ミオリネ・レンブランからの呼び出しだ。直感的に、避けるべき話であるような気がしたのも、無理からぬことだろう。
 よほど知らなかったふりをしようかと思った。しかしその後すぐ、旦那様からも呼び出しに応じるよう念押しされてしまい、しかたなく観念した。私の性格を読まれ、根回しされているのを、ひしひしと感じる。雇い主からの指示であれば、私に断ることなどできるはずもない。
 そういうわけで、私は今日この社長室にいるのだった。
 旦那様も事情をご存知であるのなら、あやしい用件ではないはず。だが、油断はできない。
 ひとまず用件を教えてほしい、と伝えた私に、しかしミオリネさんは、ほのかな微笑みすら浮かべずに、ただ「年齢、変わらないでしょ」と無関係な言葉を返してきた。
「え?」
 思わず聞き返す。ミオリネさんは気分を害したふうもなく、先ほどの言葉を繰り返した。
「だから、私とナマエさんって多分、年齢そう違わないよね」
「ええ、多分」
「敬語使わなくていいよ。私、別にあなたの先輩でも上司でもないし」
「いえ、しかし」
「まあ、あなたが敬語の方が話しやすいのなら、それでもかまわないけど」
 なんだか出鼻をくじかれたようで、私は「はぁ」と気の抜けた返事をした。
 それにしても、一体どういうつもりだろうか。考えを巡らせているうちに、私の頭の中に、もやもやとした疑念とも苛立ちともつかない、暗雲めいた感覚がたちこめる。
 そもそも、片や解体されたとはいえ元ベネリットグループ総裁のひとり娘、片やそのグループ内企業の代表の家で働く小間使い。立場の差は明確であり、敬語を外せるはずがないのは明らかだ。
 コンプライアンス的観点から、社長として「スペーシアンの私とアーシアンのあなた、だけど私たちは対等ですよ」というポーズをとっているのだろうか。だとしても、社会的な立場がここまではっきり隔たっていては、敬語を使うなという方がハラスメントになりかねない。
 そこまで考えたところで、私は卑屈になりすぎている自分に気付き、猛省した。さすがに今のは穿った見方をしすぎている。彼女はただ、善意で申し出てくれているだけかもしれないのに。
 それとも、こうして私の心情を掻き乱し、話のペースをミオリネさんに有利に持っていくことが、彼女の狙いなのだろうか。
 そんな私の疑念を裏付けるように、ミオリネさんは間髪入れず、さらりと質問を繰り出した。
「サリウス・ゼネリの私邸で働いて、八年だったっけ。アカデミーは八年前に?」
 たちまち喉がきゅっと締まったような、居心地の悪さを感じた。きれいな顔に一切の感情を出さないところが、何ともにくらしい。八年という具体的な期間が、彼女が私の経歴をそれなりに調べ上げてきたのだということを如実に示している。
 そして、アカデミー。
 久しく聞いていなかった、古巣の呼称。その呼び名から、この会合の裏にシャディク坊ちゃまの存在があることを、私は否応なしに感じさせられた。
 返事をする前に、小さく頷く。それでどうにか、動揺を胸の奥に押し込める。
「おっしゃる通りです。アカデミーでは、卒業後の進路も用意してもらえますので。私も働き口を紹介していただき、そこで一度プログラムは終了しています」
「当時の成績は?」
「恥ずかしながら、あまり勉強は得意ではなくて」
「そう。でも、メイドの仕事の覚えはよかったと聞いている」
「……手や身体を動かすのは、好きですから」
「偉いね。すなおに尊敬する」
 ミオリネさんは、もはや言葉の裏にある意図を、隠そうともしていなかった。いちいちこちらを揺さぶるような話し方は、私から何らかの情報か、あるいは感情を引き出したいのだろうか。
 一度カップを取り上げて、ミオリネさんはそれを優雅に口に運ぶ。その美しい所作に、こんなときなのに目を奪われた。
 私の視線をじゅうぶんに誘って、
「それなのに、今の仕事をやめるんだってね。ナマエさん」
 ミオリネさんはまた、静かな声で呟いた。そこまで知られているのか。そう思うと、私は苦笑するしかなかった。
 私が辞表を出していることを知っているのは、私の直属の上司である女中頭をのぞけば、私の雇い主である旦那様──サリウス・ゼネリだけだ。
「もう次の仕事は決まってるの?」
「しばらくは、のんびりしようかと思っております。八年間で多少の貯蓄もできましたので、焦らなくても何とかなるはずですから」
「そのあとは?」
「……ご縁があれば、どこかのお屋敷でまた働かせていただこうかと」
「そう」
 それ以上の追及は、ミオリネさんからはなかった。しばし、沈黙が落ちる。
 私もできるだけ平静を装って、出された紅茶を口に運んだ。ミオリネさんのような優雅な所作とは比ぶべくもない、ぎこちない動作だ。
 どうかこのぎこちなさが、育ちの悪さのせいだと思われればいい、そう思った。胸のなかでは心臓が、今にも壊れそうなほどに早鐘を打ち続けている。
 シャディク坊ちゃまが捕まったのとほとんど同時に、アカデミーおよび坊ちゃまの関係者は、旧ベネリットグループの指示により、一斉に取り調べを受けた。その結果として実刑を受けたのは、計画に関与したごく限られたメンバーのみ。だが坊ちゃまを信奉している協力者は、アカデミーの卒業生だけでも山ほどいた。
 彼らはグラスレーの関係機関や会社で働きながらも、巧みにスペーシアンの目を盗んで、坊ちゃまたちに協力していた。その協力のかたちも様々で、なかには聞き知った情報について口をつぐむというような、罪に問うにはあまりに消極的なかたちでの『協力』も含まれる。
 協力者の人数は、未遂ではあるがその準備があったものまで数えると、世間が想像するよりもずっと多かったらしい。
 公表すれば、まず間違いなく反アーシアン感情は膨れあがる。そうした理由から、協力者については表沙汰にはなっていないし、ほとんどの罪をシャディク坊ちゃまが被っていると聞く。だが、関係者の一斉取り調べと、坊ちゃまの側近ともいうべき生徒たちが罪に問われたことは、同胞を震撼させるのにはじゅうぶんすぎる出来事だったという。
 これらの説明をするのに際し、私はどうしても他人事のような物言いをしてしまう。事実、私にとって一連の出来事はすべて、他人事だ。
 騒動の最中も、そしてやがて騒ぎが止んだあとも、私には調査の手は一度も伸びてこなかった。はじめこそ戦々恐々としていたが、しかしよくよく考えてみれば、そうなるのも当然のことだった。
 私の勤め先はサリウス・ゼネリの邸宅。そしてここに、私以外の同胞はいない。同僚はみなスペーシアンで、サリウス・ゼネリからの信頼が篤いものたちだ。
 長年の女中生活のあいだに、私は自分でも気づかないまま、同胞のコミュニティから完全に外れてしまっていた。アカデミー時代から、それほど人付き合いをしてこなかったのだ。今や私は、あらゆる輪から省かれていた。
 おまけにアカデミーのプログラムを途中で抜けたから、卒業者名簿にも名前がない。
 こうなってみて、つくづく実感した。私はずっと、私だけはずっと、シャディクの抱いた大いなる野望の外側に、弾かれぽつんと置かれ続けてきた。他の同胞から距離を置き、誰の意識にものぼらぬほど緩慢に、時間をかけてゆっくりと、遠ざけられてきた。
 もとより義憤や愛郷心とは無縁の人間だ。同胞と疎遠になったところで、特に不満も感じない。シャディクと時々顔を合わせていさえすれば、これといって違和感も持たなかった。
 そうして巧妙に計画の外側に置かれることで、私は守られ続けてきた。今、この瞬間まで。
 ミオリネさんの手が、私に届くまで。
「逆に──」
 と、ミオリネさんが、ふいに問う。
「あなたから私に聞きたいことはないの?」
「聞きたい、こと……」
「聞きたいこと、それか頼みごととか。一応これでも、使える肩書をいくつか持ってるから、聞くだけなら何でも聞くけど」
 気前よく提案され、戸惑った。聞きたいこと、頼みたいことといったって、咄嗟に思いつくようなことは何もない。この期に及んで、シャディクに守られ続けてきたと気付いてしまった私が口にできる言葉など、一体どれだけあるのだろうか。
 以前なら──守られていることに無自覚だった頃の私なら、彼女に聞きたいこともいろいろあったのだろう。もちろん立場の違いがあるから無礼な質問はできないが、それでもここまで気前よく請け負ってもらえるのなら、いくつかの質問くらいはしただろう。
 どうしてシャディクを好きになったのか。
 どうしてシャディクに好きになってもらえたのか。
 あるいは、こんな頼みごとをしたかもしれない。
 どうかシャディクを愛してください。
 どうかシャディクの愛を受け取ってください。
 どうか、シャディクを、誰より幸せにしてあげてください。
 それ以外、私は何も望まないから。
 けれど今、それらの言葉を口にする権利を、私は持っていなかった。もちろん、ミオリネさんは今でも、聞けば答えてくれるだろう。頼みごとだって聞いてくれるはずだ。嫌な顔をされたかもしれないけれど、彼女は口にしたことは守るひとに見える。しぶしぶでも、いやいやでも、一応答えてはくれたはずだ。
 口にできないのは、だから私の問題だった。
 自分が自分に対して、その問いを口にする権利がないと、諦めている。
「いえ、私は……」
「シャディクなら、もうここには帰ってこない」
 その言葉に、うつむけた顔の、頬がひくりと引き攣った気がした。
 のろのろと顔を上げれば、表情を消したミオリネさんの、視線と視線がぶつかる。強い瞳は私のなかの感情の波を、探ろうとしているようだった。
「驚かないのね」
 そう言われ、うなずいた。
「そんな気は……していましたから。グラスレーの御曹司とはいえ、世間はそこまで甘くも優しくもないですものね」
「まあ、そうね。死刑制度が廃止されて久しいけど、極刑をのぞむ声も出たそうだし」
 びくりと肩が震えるのを、自分で止められなかった。暗く凪いでいた心に、かすかなさざ波が起きる。
 そんな自分を、強く恥じた。
 守られ、遠ざけられ、責められもしない。そんな自分なのに、まだこんなふうに心が揺れるのか。

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