前日譚/灰白色の個体番号 T


 ── 一年前、株式会社ガンダム社長室

 もしかすると今日の用件は、ビジネスの場を離れた話題であるかもしれない。ミオリネの執務室に呼び出されたサビーナは、出迎えたミオリネの発する雰囲気から、うっすらとそう予感した。
 デスクの前に置かれた応接セットの、ふかふかとしたソファーに座るようミオリネからすすめられたとき、その予感はいよいよ確信に変わる。

「ナマエ・ミョウジがどういう人間なのか、か」
 ミオリネみずから淹れた紅茶のカップを覗き込み、サビーナは聞いたばかりの用件を復唱した。
 刑期を終えたサビーナたちが、ミオリネに拾われてからしばらく経つ。もともとミオリネとは学生時代から付き合いがあるし、シャディクを通しての縁もある。だからサビーナには、ミオリネのことをそれなりに知っているという、漠然とした自負があった。
 そのミオリネから投げかけられた、ナマエ・ミョウジという古い知人についての問い。その問いにいたった理由も、サビーナにはなんとなく想像がつく。
 正直に言えば、ついに来たかとも思ったし、ようやくかとも思った。そして、そう思うのは自分だけでないだろう。同胞であれば皆、少なからず同じ思いを抱くはず。サビーナはそう考えている。
 ついに、けれど、ようやく。
 相反するふたつの思いを抱くのには、理由があった。かつてナマエという少女は、誰よりシャディクに近い場所で生きていた。そして今は、気が遠くなるほど隔たった場所で息をしている。
 物理的な距離ではない。思想、哲学、大願、生きる意味。そういう目には見えないものの立ち位置だ。
 今のナマエは、よほどのことがない限り、誰からも目につかない位置にいる。そうであるよう、シャディクが仕組んだ。シャディクの経歴をアカデミーまで遡ったくらいでは、ナマエの名前が出てくることはない。
 ナマエの名前が出たということは、つまりシャディクのアカデミー以前の経歴まで、ミオリネが本気で洗いだしたということだ。そうでなければおかしい。
 テーブルを挟んで向かい合うミオリネの目は、いたって真剣そのものだった。やみくもにシャディクの過去を掘り返そうという、恥知らずのジャーナリスト崩れとは違う。ミオリネが今、彼女についてサビーナに問うということは、そうする必要があるということ。
「ミオリネ、きみのことだから私を呼び出した時点で、彼女の経歴は確認しているんだろう。私に聞きたいのは、書類にない情報についてか」
「話が早くて助かるわ。そう、私が聞きたいのは公的な記録に残らないようなこと。あんたとナマエ・ミョウジはグラスレーに拾われ、同時期にアカデミーに通っていた『仲間』でしょう。単なる印象でも何でもいいから、彼女について知ってることを教えて」
「と言われてもな。印象と呼べるような感覚を与えない女……といえば、分かるかな。地味な女だよ」
 答えながら、サビーナはナマエの顔を思い浮かべた。
 サビーナの記憶のなかのナマエの顔には、まだ幼さが残っている。子どもながらに整った顔立ちの少女だったが、逆にいえば、それ以外には取り立てて見るべきところがなかったともいえた。地味で目立たず、華がない。その場にいてもいなくても変わらないような、そんな人間。
 特別なところなど、どこにもなかった。たった一点、シャディクが手を握っていたという過去をのぞいては。
「私からしてみれば、アカデミーという場所で、地味に目立たず、印象を残さないというのは、それはそれで大したことなんだが」
 昔の記憶をたどり、サビーナは苦笑した。しかし彼女は、すぐにその凛々しい顔に浮かんだかすかな笑みを消す。
「そもそもミオリネ、きみはどうしてシャディクがナマエ・ミョウジを計画に加えなかったと思う?」
 問われたミオリネは、怪訝そうに眉根を寄せた。
「そんなの、実力の問題でしょう。あんたが今言ったとおり、彼女の経歴は華々しいものじゃない。アカデミー時代の成績も見せてもらったけど、良くもなければ悪くもない。突出したものがなく、アスティカシアへの推薦なんか望むべくもなかったでしょうね」
「正解。劣等生とは言わないが、平凡そのもの」
 まるで教師のような口ぶりで、サビーナは言い切った。あくまで私の私見だが、と一応の前置きをして、サビーナは続ける。
「ナマエ・ミョウジには向上心がなかったように思う。むろんグラスレーに見捨てられるわけにはいかないから、劣等生だろうがなんだろうが、アカデミーの学生は皆それなりに努力するんだが、それでさえ周囲ほど焦っていなかったんじゃないかな」
「食べて眠れればそれでいい……、地球での難民生活を知っていれば、そう思っても不思議ではないということ?」
 サビーナはうなずく。そして、
「それもある。だが、それだけじゃない」
 そこまで言ってようやく、溜息のように息を吐き出した。
 サビーナ自身は、ナマエとはそれほど親しくない。というより、ほとんど接点がなかったと言っていい。アカデミーでのサビーナは優秀で、早々にアスティカシアへの推薦確実といわれていたが、だからといって気をゆるめたり、遊びにうつつを抜かすこととは無縁の生活を送っていた。
 アカデミーの学生は同胞であり、ライバルでもある。ぬるい友情は芽生えにくく、かりに友と呼べる関係を築けたとしても、互いに事情に踏み込み過ぎないことが暗黙の了解となる。そんななか目立たぬよう息を殺して生活し、ライバルにもなりえないナマエなど、サビーナの眼中にはなかったのだ。
 それでも記憶に残っているのは、ひとつにはナマエがシャディクの特別な少女だったから。それから、ナマエが意外にも器用に立ち回っていることに、ある日サビーナが気が付いたからだった。
「ナマエ・ミョウジは優秀ではない。だが、愚かでも、怠惰でもない」
「それは今の話に矛盾しない?」
 ミオリネの眉間に、また皺が寄った。そういう顔をしていてもきれいなものだな、とどうでもいいことが一瞬、サビーナの胸をかすめた。
「矛盾はしない」
 カップの紅茶に口をつけ、口を湿らせる。自分の話ではないとはいえ、アカデミーの頃の話をするのは、ずいぶんと久し振りのことだった。
「彼女は自分がすべきこと、したいことを分かって動いている。そしてそのすべきこと、したいことに忠実に動いているのだと考えれば、彼女の行動は常に一貫していた。まあ、これは後から思い返してみればという程度で、事実かどうかは本人か、それこそシャディクに聞かなければ分からないが」
 だが、その一点をきわめる厳密さだけは、賞賛に値するとサビーナは思う。
「シャディクのためになるか、シャディクの足を引っ張らないか。ナマエ・ミョウジの行動理念はそれに尽きる。私は彼女のことをそれほど知らないが、これだけは断言できる」
 シャディクの足を引っ張らないよう、最低限の努力はする。シャディクの迷惑にならないよう、悪目立ちしないよう周囲に馴染む努力をする。シャディクの面子を潰さぬよう、ほどほどに頑張ってはみる。だが、それ以上には頑張らない。なぜならそこまでの努力は、シャディクに求められていないから。
 誰かのために頑張るということは、けして珍しいことではない。サビーナたちだって、シャディクのために働いた。シャディクは故郷のために尽くした。何のために、どの程度というのは人それぞれだ。そしてナマエの「シャディクのため」を愚かだとなじる気は、サビーナにはない。
 サビーナには、ナマエの気持ちが少しだけ分かる。ナマエは自分のためではなく、シャディクのために生きていた。根源にある感情の違いはあるが、結果としてシャディクのためという思いに至っているのは、サビーナもナマエも同じだ。
 しかしミオリネは、サビーナの話に困惑の表情を浮かべてる。
「分からないか?」
 少しだけ笑ってサビーナが問うと、ミオリネはゆるく首を横に振った。
「分からない。いえ、シャディクのためにという部分は分かるのよ。共感も、まあ多少は、するかもしれない。でも、シャディクのために必要以上の努力しかしない、という部分が分からない。だって、あいつのことがそれだけ大事なら……それならなおさら、シャディクのために努力するんじゃないの? シャディクだって、そこまでの忠誠心を持った仲間なら是が非でも手元にほしいはず……」
「忠誠心、か。少なくとも、私の目から見たナマエ・ミョウジは、シャディクに忠誠を誓うしもべという感じではなかったな」
 ミオリネの瞳が、答えを求めるようにサビーナを見つめた。
 だが、サビーナは微笑むだけだ。ミオリネの求める答えらしきものを、たとえサビーナが知っていたとしても、サビーナにそれを教えるつもりはなかった。
 ああいうものは、実物を見た方がずっと早い。いくらここでサビーナが言葉を尽くしても、きっとミオリネにはうまく伝わらないだろう。そう思った。
「まあ、きみも本人を見たら分かる」
 ともかく、とサビーナは話題を戻した。
「シャディクはくだんの作戦計画において、ナマエ・ミョウジのことを求めなかった。だから彼女も、そこに加わろうという努力はしなかった」
 いつのころからか、ナマエとシャディクはだんだん遠ざかっていく。どちらともなく作った距離だったのだろうが、より積極的に相手を遠ざけたのは、まず間違いなくシャディクだっただろう。ナマエはシャディクの思惑を察し、従った。
 シャディクがどんな意図を持っていたか、きっとあのころナマエは知らなかっただろう。知らなくても問題はなかった。シャディクが言わないということは、ナマエは知らなくてもいい、知る必要がないということだから。
「ナマエ・ミョウジはね、地球のことなんかどうでもいいと思ってるんだ」
「は?」
「そういう人間だから、シャディクにとってナマエは同胞ではあっても、同志にはなりえなかったんだろう。シャディクのことだけが大事なナマエは、社会問題に興味なんかないんだよ。そんな人間、仲間に引き込みようがない」
 ミオリネが絶句するのを見て、サビーナはまた微笑んだ。
「シャディクもそれを分かってる。だからナマエに何も言わなかった。ああもモチベーションが低い人間が混ざっていては、作戦全体の士気に関わるからというのが、シャディクの言葉だが、それはまあ建て前」
 ナマエのそういう在り方を、シャディクは肯定していた。むしろ積極的にそう仕向けていたのかもしれない。
 広い世界を見つめたところで、どうせ心が安らぐことはない。アーシアンである自分たちを取り巻く世界は、一度だって優しかったことはなかった。
 シャディクもサビーナも、そして多くの同胞たちも、そんな世界を憎み、変えたいと願った。そんな世界なら敵に回したっていいと、心の底から思っていた。
 だから、ナマエのことは計画に入れなかった。ナマエにはそんな闘志はなかったから。
 革命なんか、したい人間がすればいい。
「もちろん私も、こんなふうに話してはいるが、本当のところすべてを理解しているわけじゃない。だが私たちがどう考えようと……、おかしいと思おうと、シャディクとナマエ・ミョウジのあいだにあった信頼関係に、そんなものは関係ないんだろう」
 これがサビーナの知る、ナマエ・ミョウジのすべてだった。ミオリネは戸惑いを顔に浮かべたまま、膝の上で両手を組んでいる。
 想う男の過去を知り、ミオリネは何を思っているのだろう。胸に浮かんだその疑問を、サビーナはすぐに打ち消した。ミオリネにはすでに、生涯を誓った伴侶がいるのだ。そんなことを聞くのは、あまりにも無粋というものだ。
 ふと、ミオリネが独り言のように呟きをこぼす。
「シャディクは、ナマエ・ミョウジに何を求めていたの? ナマエ・ミョウジの、シャディクにとっての役割は……?」
「そこまでは私には何とも。それに私の知っている彼女は、あくまでアカデミー時代の彼女だ。その後シャディクと距離を置き、メイドとして働いていた時代よりあとのことは、私は何も知らないよ。シャディクもわざわざ話題にしなかったし、ほとんど会うこともなかっただろうし。ただ……」
「ただ?」
 先を促すミオリネの、左手の薬指に目をとめる。
 ミオリネも先に進んでいる。ならば、とサビーナは口を開いた。
「アスティカシア在学中、シャディクは一度だけ私用で実家に戻っている。その少し前にナマエ・ミョウジに縁談の話があったんだが、その話は不思議なことに立ち消えになったそうだ」
 その言葉の意味を、ミオリネはどう解釈したのだろう。もちろん帰省した実家でナマエとシャディクのあいだに何が起こったのか、あるいは何も起こらなかったのかは、サビーナも含めて誰も知らない。知っているのは、当事者であるシャディクとナマエだけだ。
 しばしののち、ミオリネが額に手をつき溜息を吐いた。
「……あいつって、本当に」
「言いたいことは分かるよ。本当にな」

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