名ばかりの幽霊


 雨風がしのげる場所があれば、どこだっていい。強がりでなく本心よりそう思っていたから、目の前の古びているとはいえしっかりした建造物に、私は「本当に、ここが?」という疑問の目で、シャディク坊ちゃまを見上げた。
 かつてベネリットグループの有力者の保養所として建造されたものの、設備の老朽化や利用者の減少に伴いいつしか放棄された、無人の小規模フロント。ここが私たちの現在地だ。
 保養所だったころの名残もどこにもない。あたり一面の荒れ野からは、虫の気配ひとつ感じとることができない。
 見渡す限り人工物がないのは、長年の放置のたまものというよりは、今回のことをきっかけに、人が潜めるスペースを極限まで排除した結果だろう。
 視界にある建物は、目の前の邸宅ただ一軒、それだけだった。
「このあたりで人が住める場所はここしかなさそうだ。何よりほら、あそこに監視の人間がいる」
 坊ちゃまが指した先に視線を送る。古色蒼然たる門扉の前では、武装した軍人がふたり、私たちを待っていた。
「あんな、最前線の兵士のような身なりの人が……」
 思わず、つぶやく。
 荷物と呼べるほどの持ち物もない、丸腰の民間人である私たちに対し、彼らの装備はあまりにも過剰だ。
「あそこまでの重装備は最初だけかもしれないが……。俺の刑を考えれば、妥当なところじゃないかな」
「ですが坊ちゃま、我々には叛逆の意思がないことは」
「それでも、だ」
 強く言いきられ、私は言葉を飲み込んだ。
 足を止めていた私を置いて歩き出した坊ちゃまを、慌てて小走りに追いかける。
 坊ちゃまの言うことは正しい。そもそも、彼らにとっての坊ちゃま──シャディク・ゼネリは、民間人などでは有り得ない。
 歴史に名を残す、美しき政治犯。若きテロの首謀者。
 すべての公判を終え、罪の重さを正式にさだめられた彼は、これから死ぬまでの人生を、眼前の古邸宅で過ごすことが決まっていた。
「それよりナマエ、頼むから坊ちゃまはやめてくれないか。もうそんな年齢ではないし、何より今はもう、そんな身分じゃない」
 気負いなく微笑んだ坊ちゃま──いや、シャディクの顔を見て、私は胸のうちで軋むような痛みを覚えた。

 一連の事件への関与にまつわるシャディクの公判すべてに片が付いたのは、今から一年前。およそ三年に及ぶ拘留期間のあいだ、シャディクと少なからず関係のあった人間はほとんど全員、一切の面会を禁じられた。もちろん私も例外ではない。もっとも、使用人風情が面会を申し込むことなど、端からできはしないのだが。
 事後処理のため責任者の立場に立たされたサリウス・ゼネリは多忙を極め、これまでよりさらに邸宅に寄りつかなくなった。義理とはいえ、いずれは後継者にと目を掛けていた愛息との、思い出の残る邸宅でもある。単に都合の問題だけではなく、心情の問題としてもしばらくのあいだは足が遠のくだろうと、邸宅で働くすべての使用人が胸を痛めた。
 私たち使用人は主不在のゼネリ邸で、ひたすらに気を揉むしかない日々を強いられた。
 そして公判終了までの三年のあいだに、いずれすべてが片付いたときにはいとまを乞おうと、私は心に決めていた。
 報道された情報しか持たない私だが、あれだけのことをしでかしたシャディクが、何事もなく私たちのもとに戻ってこられるはずがないことくらいは、いくら何でも容易に推察できた。
 土台、学生ひとりの命であがなえる罪ではない。そもそも命であがなえるものなど、本来それほど存在しないのだろう。けれど、命を差しだす以上のつぐないもまた、この世に存在しない。
 だから公判を終え、シャディクが己の罪科をつぐなうときには、私もこの場所を去ろう。そう思っていた。シャディクのためでも、まして被害者のためでもない。ただ利己的に、私のためだけにそうするつもりだった。
 シャディクのいない世界で、これ以上生きている意味も理由も、私には思い付けなかった。
 それが、今から一年前のことだ。

 *

 今日から暮らすことになる屋敷のなかを、シャディクとともに、ひと通りあらためて回った。ふたりで暮らすには広すぎる屋敷には、けして華美でも高価でもない、最低限の生活ができるだけの家具や日用品が、雑多に取り揃えられている。
「もとからここにあったものを転用しているんでしょうか?」
 広々としたリビングに置かれたテーブルの、表面にそっと指を這わせる。意外にも掃除は行き届いているようだった。
「それにしては統一感も高級感もないから、どこかで拾ってきたリサイクル品でも適当に置いているんじゃないかな」
「わざわざここにあったものを撤去して、ですか?」
「おおかた上つ方のどなたかが、重罪人に高級品を使わせるなどけしからん、とでも言ったんだろう」
「さすがシャディク坊ちゃま。冷たい食事を何年も召し上がっていたにもかかわらず、上つ方の思考回路をよくご存知でいらっしゃいますね」
「おっと、しばらく会わないうちに皮肉や当てこすりを覚えたとは」
「口が過ぎましたか。失礼いたしました」
「いいよ。この静かな場所でふたりで暮らしていくんだ。冗談は大歓迎さ」
 本気でそう思っているのだろう。晴れ晴れとしたシャディクの表情に、また胸が痛んだ。
 屈託のないシャディクの笑顔を見るのなど、一体いつぶりのことだろう。少なくともグラスレーに引き取られてしばらく経った頃には、もうこんな顔は私の前でもしてくれなくなっていたような気がする。
 生まれ育った掃き溜めと比べれば、私にとっては天国にすら等しいアカデミーという場所も、シャディクにとっては違ったのだろう。劣等生だった私と優等生のシャディクでは、ものの考え方も感じ方も違う。シャディクにとってのそこは、屈託なく笑えるほどやさしい環境ではなかった。
 できることならば、こんな状況で昔のような笑顔を見たくはなかった。だがこんな状況にならなければ、私がこの笑顔を見ることはなかったのだ。その現実に、胸が苦しくなる。

 屋敷内の検分を終えた私たちは、その足で厨房へと移動した。厨房にはすでに、当面の食料が運び込まれていた。嵌め殺しの窓からは、赤い太陽が焼け付きそうな光を差しこませている。フロント内天井パネルは、一日の空の変化を、本物そっくりに映し出していた。
「夕食はいかがいたしますか?」
「簡単なものでいいんじゃないか?」
 段ボールで運び込まれ、放置されたままの食材を覗きこみ、シャディクが言った。「無理に凝ったものを作って食料が底をつくのは避けたい」
 シャディクの言うとおりだった。見るかぎり、ふたりぶんの食料としては、あまり余裕があるわけでもなさそうだ。そもそも次の食料配給がいつなのかも、私たちはまだ知らされていない。
 一見して、保存がきくものが大多数をしめていたが、それでも野菜や果物といった生鮮食品も、多少は取り混ぜられていた。パウチに入れて密閉してあるものも多い。
「でしたら、パンとスープ、それと何か保存食から見繕いましょうか。明日からはもう少しきちんとしたものをお作りいたします」
「ひとりで気負わなくていいんだよ。俺も料理くらいできることだし」
「ですが、身の回りのお世話をさせていただくために、ここに遣わされておりますので」
「頭が固くて頑ななのは相変わらず、か」
 シャディクが苦笑した。そして鷹揚にうなずくと、すぅと目を細めた。
「分かった。それじゃあ、あくまで俺の気晴らし、趣味……というと、この流刑を楽しんでいるように聞かれかねないから」
 シャディクがちらりと、少し離れた場所で停止するハロに視線を向けた。シャディクにつけられた監視の兵は、屋敷のなかまで踏み込んでこない。そのかわり、屋内の監視と緊急時の連絡手段として何台かのハロが用意されている。
 今のこの会話も、おそらく記録されているのだろう。意識してしまうと、どうしたって頬が強張った。
 シャディクが続ける。
「自分のことを自分ですることも、──罰のひとつだと思ってくれてかまわない。だいたい、今や俺は御曹司じゃないんだ。貴族階級の人間のように、何から何まできみに面倒を見てもらう必要はないし、そうすべきではないんじゃないか?」
 罰と口にした瞬間だけ、シャディクの声が不自然に揺れた気がした。私は気が付かなかったふりをして、ゆっくりと腰を折り低頭した。
「……分かりました。それでは、シャディク様にもお手伝いいただくことにいたしましょう。ですが、それは明日からでもよろしいですか?」
「うん、それで大丈夫だ」
 先ほどから、シャディクの顔には疲労がはっきりと浮かんでいた。むろん微笑みを崩しはしないが、それでも目元に滲むものはある。
 三年にわたる拘留生活と、その後一年の禁錮によって、シャディクの体力は明らかに低下している。上背があり、体つきは今でもしっかりしているが、それでも全体の印象として線が細くなった感じがした。纏ったシャツは、肩のあたりで布地がだぶついている。
 シャディクにも、そのことを隠す気はないのだろう。私の提案に素直にうなずいた。
「食事の用意ができたらお呼びいたします。少しお休みになられてはいかがですか?」
「悪いが、そうさせてもらおうかな。迷惑をかけてすまない」
「ごゆっくりなさってください。ご入用のものがございましたらお申し付けくださいませ」
「その使用人の口調もあらためてほしいが、それも明日以降に話をしよう」
 そう言って、シャディクはゆっくりとこちらに背を向けた。主寝室は二階にある。私が使用することになる女中部屋はその隣室だ。私には分不相応な広い部屋だが、どうせ私とシャディク以外に部屋を使うものはいない。
 シャディクが厨房を出ていくのを見送ってから、私はそろりと息を吐いた。監視用のハロはプログラムに従いシャディクについていったので、厨房のなかは私ひとりきりになる。
 罪人、流刑、罰。
 それらの言葉がシャディクの口からこぼれるたび、自分ではどうしようもできない震えが、身体の中心からおこった。シャディクのことをまっすぐ見られず、ついつい目を伏せてしまう。
 きっとシャディクも気が付いていただろう。不穏な言葉を口にするたび、その言葉が持つ意味そのものにではなく私が示す反応に、シャディクも肩をこわばらせていた。
 厨房にひとり立ち尽くしたまま、私はぺしん、と軽く片頬を叩いた。
 こんなことではいけない。明日からはもっと強く、自分を律しよう。シャディクの心が少しでもおだやかであるよう務めるのが、私がここにいる理由だ。私がこんな体たらくでは、シャディクはますます心を閉ざしてしまう。
 気を取り直して、食材の管理に手を付ける。そういえばシャディクと食事をともにするのはいつぶりだろう。パウチに入ったトマトを手に取りながら、私はまた、知らず過去に思いを馳せた。

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