前日譚/不退転神話 W


 一体今は何時なのだろう。
 今しがた、俺は幼馴染の女の子を抱いた。一度では昂りをおさえることができず、二度三度と吐精するまで。何度も何度も彼女を達かせながら。
 窓の外の暗闇に視線をやる。溜息が、勝手に口から吐き出される。
 倦怠感が全身を覆っていた。こんなはずではなかった。行為の後の虚脱感が、いっそう俺をむなしくさせる。
 ナマエにとっては、はじめてのセックスだった。それなのに俺は我を見失い、ずいぶんと手酷く抱いてしまった。さすがに中に出すようなことはしなかったが、しばらくのあいだ彼女は不安を抱くことになるだろう。そうでなくても、すでに残酷なことをしている。無垢で善良なナマエにとって、これほどひどい仕打ちもないだろう。まして、ナマエは俺を心底から、慕ってくれていたのだから。
 今更後悔しても遅いし、実際のところ、それほど後悔しているわけでもない。言葉を選ばずに言えば、本懐を遂げたとすらいえる。
 だが、目元を真っ赤に腫らして気を失っているナマエを見下ろせば、さすがに罪悪感をまったく感じないわけにはいかない。俺にだって人の心はあるのだ。
 いや、人の心があるからこそ、こんな無体を働いたのか。
 その事実に気が付き、俺はたまらず自嘲した。
 ナマエの額にはりついた髪を指で掬い取り、横に流してやる。月明りに照らされたナマエの顔は青白く、見ようによっては死人のようにも見えた。
 長く伸ばした髪は、救貧院にいた頃にはいつも傷んでくすんでいた。アカデミーに移ってからは、少しはましになっていたはずだ。今は──美しい銀糸の髪を持つ彼女とは比ぶべくもないが、悪くはないといったところか。
 本当はもっと、ナマエにいい思いをさせてやりたいと思う。だが今の俺では、これ以上の環境をナマエに用意できないのも事実だ。せめて使用人としてのナマエが悪待遇を受けていないことに、ささやかな安堵を得る。そしてそんな自分の愚かさに、何ともいえない滑稽さを感じた。
 髪にふれたその手で、彼女の頬に手のひらを合わせて添える。先ほどまであれほど身体を熱くしていたのに、こうしてふれたナマエの頬は、可哀相になるくらいに冷たかった。涙のあとで乾いた頬に、そっと口づけを落とす。眠りに落ちたナマエは、むずがるように「んん……」と寝言をもらした。
 ナマエが生まれたその日から、俺はずっとナマエを守り続けてきた。救貧院でもアカデミーでも、そして今も。この場所にいれば、ナマエは絶対に安全なはずだった。サリウスか俺か、どちらかだけでも生きていれば、ナマエの安全はおそらく保証されている。万が一俺がしくじったとしても、ナマエにだけは火の粉が降りかからないように、これまで入念に準備を進めてきた。
 今後俺の身辺や過去をあらっても、ナマエ・ミョウジの名に繋がるヒントは、どこにも存在しない。ナマエは誰にも見つからない。俺以外の誰にも、ナマエを見つけることを許さない。

 妹のような、親友のような、家族のような、大切な女の子だった。ナマエは俺が誰よりなにより大切にしなければいけない、俺がしあわせにしてあげるしかない、たったひとりの女の子のはずだった。
 天涯孤独のナマエには俺しかいない。だから恋愛感情ではないにせよ、彼女には俺が必要で、俺には彼女が必要なはずだった。
 ミオリネはけして俺を求めない。俺が彼女の足枷になることはあったとしても、その逆はあり得ない。ミオリネ俺が守る必要のない強い立場と確固たる足場を持った、選ばれた女の子だった。
 ナマエとは正反対の、対極の存在。そして俺は、ミオリネに惹かれた。
 どうすればよかったというのだろう。ナマエのことがどれだけ大切であっても、それが恋愛感情であるはずがないと、ずっとそう思って生きてきた。だからこそ、ミオリネに惹かれていると気付いたときにも、ナマエへの罪悪感はまったくなかった。そもそも俺がミオリネと一緒にあれば、ナマエはより強固に守られる。そうしてナマエは、いつか『普通の幸福』を手に入れる。
 それなのに、いざナマエが『普通の幸福』の手前にいると気付いた時、絶対に許せないと思ってしまった。許せるはずがない。ナマエが、俺じゃない誰かの手で幸せになるなんて、そんなことがあっていいはずがない。
「シャディク、か。きみに名前を呼ばれなくなって、ずいぶん長くなってしまった」
 行為の最中にそうしたように、彼女の口に、そっと自分の指をさしこむ。指の先が濡れた舌にふれたが、今はもう劣情をもよおしたりはしない。
 いつから上手くいかなくなってしまったのだろう。ナマエは一体いつから、俺の名前を呼ばなくなったのだろう。一体いつから、俺を見るときに瞳を曇らせるようになってしまったのか。
 ナマエの目に、俺はもう映っていなかったのか。そんなことを考えるだけで、怒りで頭がどうにかなりそうだった。そうなるように巧妙に立ち回ってきたのは、ほかでもない俺だというのに。
「ん、んん……」
 眠るナマエが、眉根を寄せて呻き声を上げる。その様子が幼い頃と何ら変わりないので、俺は思わず笑みをこぼした。頬を、瞼の上を、眉をなぞるように順に撫でれば、ナマエの眉間はやがてゆっくりと開き、安らかな寝顔が戻ってくる。
「ナマエ……。これまで俺はうまくやってきたつもりだが……最近はどうにも、うまくいかないことばかりだな」
 ナマエに縁談が持ち上がっていると聞いたときの、心臓が凍り付くような恐怖。あんな感情はもう二度と味わいたくない。
 破談に持ち込めたのは、間一髪だった。もう少し遅ければ、父によってナマエはよそに嫁がされていたことだろう。俺の将来に影を落としかねない分子として、父はナマエを昔からずっと警戒している。記録のうえでは俺とナマエのつながりを抹消できても、他人の記憶を操作することはできない。父はまだ、俺がナマエの手を引いていた頃のことを、はっきりと覚えている。
 ナマエの手を握って、周囲の大人を威嚇していた当時のことを。
 それもこれも、かつての俺の幼さが引き起こした過ちの結果だ。後先を考えない、いたいけな愚かさの代償。
 父はまだ、俺がナマエをひとりの女として愛しているのではないかと、疑っている節がある。そういうわけではないのだと何度伝えたところで、きっと父に伝わることはないのだろう。いや、言えば言うほど、かえってどつぼに嵌るだけか。
「この気持ちは恋ではないのに」
 この際、事実は関係ないのかもしれない。俺にできることはせいぜい、父に無用な猜疑心を植え付けてしまったような失態は繰り返さないよう、注意深く気を付けておくくらいだ。
 もう二度と同じあやまちは犯すまい。さしあたっては、ナマエと顔を合わせることを、とうぶんの間は控える。少なくとも、大願が成就するまでは。しかしそう決心した直後から、それが本当に正しいことなのかと、自分で自分を疑い始める。
 ミオリネも手に入れられず、ナマエすらも失いそうになっている。目を覚ましたナマエは、一体俺をどんな目で見るのだろう。
 嫌悪か、あるいは憎悪か。それでもまたナマエの目に俺が映るのなら、それも悪くないと思ってしまう自分がいる。
「きみを誰かに奪われるくらいなら、いっそ殺してしまいたい。この感情は、一体どういうたぐいのものなんだろうね」
 自信なく呟いた言葉は、狭い部屋の濃厚な闇に溶け、消えた。

(2023.08.20)

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