前日譚/不退転神話 U


 日が暮れた頃、坊ちゃまが屋敷に戻られた。そのとき私は厨房の助っ人として駆り出されていて、坊ちゃまの出迎えにあがることは叶わなかったが、ほどなく女中頭を従えた坊ちゃまが食堂を通り、厨房にまで顔を出した。
 つい先月も帰省していたから、坊ちゃまのお顔を見るのはそう久し振りのことでもない。それでも、にこやかな坊ちゃまにあてられたように、厨房の料理人たちの顔は一様にほころんだ。
「おかえりなさいませ、坊ちゃま」
「ただいま。皆変わりないかな」
「ええ、ええ。皆元気でやっておりますよ」
「それはよかった」
 と、厨房を見回していた坊ちゃまの視線が、私に突き刺さる。私は手元の皿から一度顔を上げてから、ふたたび深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
 短い応答にも、最低限の親しみが込められている。おかげで周囲が、私と坊ちゃまの間に横たわるぎこちなさに気をとめることはない。
 もともと私と坊ちゃまが旧知であることは、古くから勤める使用人ならば誰でも知っていることだ。しかし誰もその点について言及しないのは、坊ちゃまの出自に触れないことがいつの間にか暗黙の了解になっていたからだった。坊ちゃまの出自に触れぬよう、私との関係についても迂闊に触れない。この屋敷で徹底されているルールのひとつだ。
 坊ちゃまは厨房に長居せず、挨拶だけするとさっさと引き上げていった。
 主人が使用人のスペースに無用に踏み入るべきではない。ゼネリは貴族の家柄ではないが、上流階級に属するものとして、その辺りの線引きはきっちりしている。私は坊ちゃまの身の回りの直接のお世話を任されてはいないので、基本的に坊ちゃまと口を利くこと自体がまれだ。それは坊ちゃまがアスティカシア高等専門学園へ入学する前から続く、当然の主従関係でもある。
 この家に引き取られたばかりの頃は、そうした上流階級のルールが分からず、何度も困惑した。かつて私とシャディクの間に、身分の差などは存在しなかった。私とシャディクは常に対等で、シャディクが私を庇護することはあったとしても、それはごく自然に受け容れられる範疇のことだった。
 今は違う。私は使用人で、シャディクは坊ちゃまだ。私たちの間には主従関係があり、明確な身分差がある。まして、シャディクは大企業グラスレー社の正当な後継者候補。出自に傷をもつ彼がのし上がっていくためには、より利のある婚姻が求められる。以前私に求婚してきた相手のように、社会的な階級差を気にせず自由に恋愛の相手を選べるわけではない。
 そうした様々な事情やしがらみの結果、シャディクは今や、私に気安く声を掛けることもかなわなくなった。階級差がある以上、上の人間だからといって気ままに振る舞えるわけではない。

 その日の晩のこと。寝支度を整えた私は、与えられた女中部屋に引っ込むと、ベッドのふちに腰かけて、ぼんやりと室内の暗闇を眺めていた。
 屋敷全体がすでに寝静まっているかのようだ。耳が痛くなるほどの静寂が辺りに満ちている。鳥の声ひとつしない、静かな夜だった。
 結局、坊ちゃまの突然の帰省の理由を、私は知らされていない。もしかしたら女中頭すら聞かされていないのかもしれない。使用人の私たちは、坊ちゃまが明日には学園に戻る予定でいるとだけ聞いている。
 坊ちゃまは、この屋敷にまで評判が届くほどのプレイボーイだが、反面学業はきっちりこなす優等生でもある。休暇でもない時期、それも旦那様の呼び出しとは無関係の帰省は珍しい。
 と、そんなことを考えていた私の思考を止めたのは、廊下をゆっくりと歩いてくる静かな足音が聞こえたからだった。足音は私の部屋の前で歩みを止める。そこから一歩も動こうとしない。
 使用人の部屋には、いちいち名札をかけたりしない。しかしここで暮らす使用人ならば誰しも、この部屋を私が使っていることは知っている。誰か、私を訪ねてきたのだろうか。だが、そういうことはこれまで一度もなかったはずだ。
 暗闇のなか目を凝らし、ノックされないドアを見つめる。ここはグラスレー社CEOサリウス・ゼネリの私邸だ。侵入者の可能性は当然ある。私たち使用人にも有事の防犯行動は徹底されている。
 だが仮に、最高レベルの防犯システムをかいくぐった侵入者がいたとして、どう見ても使用人の部屋でしかないこの部屋の前で足を止める理由があるだろうか。
 ドアの向こうの訪問者に、気付かなかったふりはできなかった。私はゆっくりとドアに近寄る。部屋の中から施錠はできるが、普段から私は就寝時に鍵をかけない。ドアノブに手をかけ、細く開いたドアの隙間に向け、私はそっと誰何(すいか)した。
「……どなたですか?」
 ドアの向こうで、訪問者が身じろぎした気配があった。ほどなく、「俺だ」と応えがある。聞き覚えのあるその声に、私の胸がざわりと嫌な騒ぎ方をした。
「……坊ちゃま、ですか」
「ああ。ここを開けてくれるかな」
 主家の人間に求められれば、一使用人の私に拒む権利はない。ゆっくりとドアを開く。そこには暗闇を背負い、寛いだ寝衣に身をつつんだ坊ちゃまが、立ち塞がるように立っていた。
「どうなさったんです、こんな夜更けに。何か御用がおありだったとしても、坊ちゃまがこんなところまで足を運ばれなくたって」
「話はあとだ。とりあえず、入れてもらおうか」
 言い募ろうとする私を制して、坊ちゃまが短く発した。その気迫にたじろぎながらも、私は躊躇する。未婚の女の部屋に男性を連れ込むなど、ただでさえあまりにも外聞が悪い行為だ。しかも相手は坊ちゃま──シャディクである。
「いえ、それは……」
 言い淀む私を、坊ちゃまは蒼の双眸でひたと睥睨した。
「俺の頼みが聞けない?」
 有無を言わさぬ強い語調。頼みというよりいっそ、命令といった方が正しい。静かな威圧に、私の背にぞくりと震えが走る。
 逡巡のすえ、私は半身を引いて、坊ちゃまを迎えた。
「……どうぞ、散らかっておりますが」
 実際には私物などほとんどない。礼儀としてそう伝えると、坊ちゃまは堂々とした足取りで室内に踏み入った。
 ベッドサイドテーブルに置いたランプを点灯する。照明をつけてもよかったが、使用人の夜更かしは奨励されない。万が一部屋の外に灯りが洩れているのを、廊下を通りかかった誰かに見られるよりは、ランプで間に合わせる方がいいように思えた。
 心許ない灯りに照らされた坊ちゃまは、闇の中で猫のように瞳を輝かせる。然程広くもない室内をぐるりと一通り眺めまわし、
「ふうん。使用人はこういう部屋をあてがわれているのか」
 と、感慨も何もない調子で呟いた。私は恭しく頭を下げ、坊ちゃまから視線をそらす。
「昨年から一人部屋をいただいております。以前より使用人が減りましたので、こちらでの年季の長いものから順に一人部屋を使ってもよいとのお許しを、旦那さまからいただきました」
「そうか。それまでは誰かと同じ部屋だった?」
「同年代の女中と二人部屋でございました」
 その女中も、私の縁談話が流れる少し前に、別の屋敷に移っていった。お互い新しい場所で幸せになりましょう、と力強く手を握られたというのに、私は未だここに留まったままだ。破談になったことが彼女の耳に入っていなければいいと思う。私の心情はともかく、彼女が心を痛めるだろうことはまず間違いない。
 そこまで考え、はっとした。坊ちゃまを部屋に招き入れておきながら、無関係の些事に思考を割くなど使用人としてあるまじきことだ。幸い、坊ちゃまはぼんやりと部屋のなかの様子を眺めており、私の考え事には興味もないようだった。
 ともかく、まずは坊ちゃまの訪いの理由を聞かねばなるまい。坊ちゃまに部屋に一脚だけの椅子をすすめ、自分は立ったままで私は尋ねた。
「こんな時間ではありますが、お話をなさるのであれば何か飲まれますか? 私の淹れたものでよろしければ、厨房まで行ってまいりますが」
「その必要はない。──それより、もう少しこちらへ」
 手招きして呼ばれ、私は乞われるまま坊ちゃまの方へと歩み寄る。歩むたび、足元で床が軋んだ。なにぶん古い屋敷だ。主人の家族が住まうスペースと違い、使用人たちの部屋は昔ながらの木造の部分がかなり多い。
 一歩、また一歩、坊っちゃまとの距離を詰める。と、腕を伸ばせば坊ちゃまに触れるのではないかという距離まで近づいたそのとき、ふいに坊ちゃまが私の手をとり、引き寄せた。
「なっ、」
 力強さに抵抗する間もなく、気付けば坊ちゃまの胸に抱きとめられている。だが、それもほんの束の間のことだった。
 背に回された腕できつく抱きしめられたかと思えば、そのままぞんぞいに抱きかかえられ、足が床を離れる。声を上げる暇すら私に与えず、坊ちゃまは私をベッドの上に押し倒した。
 直後、ぎし、と頭の下で何かが軋む音がする。坊ちゃまが私の頭の横に手をついて、覆いかぶさるような体勢で私を見下ろしていた。
「あ、あの、」
 組み敷かれている──ようやくその事実に思い至り、さっと血の気が引いていく。慌てて身体を起こそうとしたが、坊ちゃまが覆いかぶさっているせいで、身をよじって逃げることすらかなわない。
「あの、坊ちゃ──」
「聞きたいことがあって、今夜はここに来たんだ」
 囁きほどに抑えた声は、低くかすれ、異様なまでの色気をほとばしらせていた。身体を触れられたわけでもないのにぞくりと肌がふるえ、喉に声がはりつく。私を見つめた一対の蒼は、昔からよく知るものであったはず。それなのに、その目は、はじめて見る色の感情をはっきり湛えている。
「ナマエ」
 久し振りに、名前を呼ばれたような気がした。思わず「シャディク」と呼び返しそうになり、慌ててそれを押しとどめる。今の私の身分では、そんなふうに坊ちゃまを呼ぶことは到底かなわない。
 ほかでもない坊ちゃまが定めたはずの境界線。だが、どういうわけか今の彼は、自らの決めた境界線をあえて曖昧にし、犯そうとしているように見えた。
 今こうしてここにいるのは、私のお仕えする坊ちゃまなのか、それともかつて手を握り合った幼馴染のシャディクなのか。
 それとも、私がまったく知らない、ふれたこともない男なのか。
 そこまで考えたところで、ふいに胸のうちで恐怖がせり上がった。見たことのない表情、見たことのない瞳の色。見れば見るほど、目のまえにいる坊ちゃまが見ず知らずの男にしか見えなくなってくる。
「俺に縁談について話さなかった理由は」
 私を冷たく見下ろして、彼は言った。一瞬、何を言われているのか分からず、私は混乱し戸惑った。
「え……」
「覚えがないとは言わせない。縁談の話があっただろう。グループ会社の重役の、三男の」
「あ、……は、い」
 かろうじて頷けば、彼は苛立たしげに髪を掻き上げる。さらりと流れる金の糸は、こんな夜でも美しい。
「なぜすぐに俺に報告しなかった? そばにいなくたって、連絡くらいできたはずだ。連絡係になる生徒の連絡先もきみには伝えてあっただろう。それにこの間俺がこの屋敷に戻ったときにだって、話そうと思えば話す機会くらいあった」
「それは、」
「俺には話す必要なんかないと思っていた? なるほど、ずいぶんと馬鹿にされたものだな」
 口調に露骨な嘲りが滲んだ。澄んだ色の目を眇め、彼はまるでいたぶるかのごとく、辱めるような視線で見つめ、私をなじる。
 呼吸が、胸が、苦しかった。こんなときなのに、彼に見つめられたところが、発火しているように熱い。
 無意識に私が動かした手を、彼は目ざとく見つける。ぎゅっと両の手首を握られて、さらにはベッドに押し付けられた。抵抗をけして許さない苛烈さが、瞳の蒼を怖いくらいに研ぎ澄ませている。
 どうして、そんな目をするの。
 どうしてあなたは怒っているの。
 こんなふうに感情をぶつけてくる。
 そんな、ひどく傷つけられたような顔で。
 ぐちゃぐちゃになった疑問と感情が、もつれた糸のようになって、私の胸のなかでのたくっていた。冷たい目で見下ろされても、その理由が分からない。私の方が泣きたい気持ちだった。
 縁談の話は、はっきり言えば彼には無関係のはずだ。彼のいない場所で見初められ、彼を通さず持ち込まれた話。
 今の私は彼の同胞ではないし、雇用関係というのなら、私の雇い主は旦那様だ。私と坊っちゃま、私とシャディクには今や、ほとんど何の関係もない。そういうふうに、シャディクが仕組んだ。
 それなのに一体どうして、今になってこんな風になじられ、責められなければならないのだろう。彼には関係のないことなのに。彼に話さなければならない理由など、私にはたったひとつもありはしないのに。
 無意識のうちに、私はくちびるを噛んでいた。
 そもそも先に私の手を放したのはシャディクだったのに。シャディクが銀髪の彼女を選んだから、私も求婚者のプロポーズを受けたのに。シャディクが、そう望んでいると思ったから。
 私の心中で渦巻く疑問に構わず、彼は口の端をゆがめて笑う。
「縁談については、父さんも俺の耳に入らないように手回ししていたようだが……。口封じされていたわけではないんだろ?」
「それは……、はい」
「そうか。それならばきみは、自分の意思で俺に口をつぐんだ。俺をたばかろうとした」
「たばかる、など」
「それ以外に言いようがあるとでも?」
 手首を握る手に、力がこめられた。痛い、と思わず声をもらせば、たちまち彼の眉間に皺が寄る。
「俺がこの話を知ることができたのは偶然だ。もしも知らなかったらと思うと、ぞっとする」
 喉の奥から溢れさせるような話し方は、私を執拗に追い詰めるためだけに作られた声音のように思えた。私は悪くない──たとえ私がそう言ったところで、きっと彼は聞く耳を持たないだろう。蔑ろにしたつもりはなくても、彼がそう認識したという事実だけがすべてだ。
「俺が強引に縁談話をなかったことにしなければ、きみはほかの男のものになってたんだ。俺じゃない、ほかの……」
 え、という声は、言葉にならずに喉の奥に落ちた。

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