息をするように眠るように


 *

 その日の晩、私ははじめてシャディクの私室に招かれた。
 あれから、シャディクと私はいろいろな話をした。そのほとんどは、シャディクのこれまでを振り返ったものだ。
 アスティカシアでのこと、サリウス・ゼネリに背を向け、叛逆の徒となってからのこと。アカデミーでの思い出。そして私の知らない、シャディクがこれまでずっと固く口を閉ざし続けてきた、無力な孤児であった時代のこと。
 シャディクだけが抱えてきた、たくさんの葛藤や軋轢、義務、期待と重圧。私にはふれることすら許されなかった思いの数々。そうした事柄のひとつひとつを、シャディクは耳を傾ける私のために、私たったひとりに伝えるために、どれも丁寧に紐解いてくれた。
 シャディクはまた、私の話も聞きたがった。けれどシャディクと違い、私はそもそも語るべき物語など、ほとんど何も持っていなかった。淡々と日々を生き、生活をこなしてきた。それだけだ。私の人生には、大義も大願も存在しない。
 私が語った唯一の物語は、ミオリネさんと二人三脚で過ごした、最後の一年間のこと。ただそれだけだ。あの一年間だけは、私の人生でただ一度きりの、シャディクが知らない私の物語を紡ぐ時間だった。
 私の話を聞き終えたシャディクは瞑目し、独り言のようにぽつりと「礼を伝える機会は、もうないのだろうな」とつぶやき、ほほえんだ。私の部屋に、彼女に通じる秘密の通信機器があることを、私はきっとこの先も、シャディクに伝えはしないだろう。

 そして、夜。
 私はシャディクと隣り合わせになって、シャディクのベッドに横になっていた。昼のうちにあれだけ話をしたのに、まだまだ話し足りないような気がして、私はもぞもぞとシャディクの方に寝返りを打つ。大きな窓から差し込む人工の月光が、シャディクの彫像のように美しい姿を青白く浮かび上がらせていた。
 主寝室であるにもかかわらず、シャディクの部屋の内装は、いたって質素なものだった。私の部屋と比べても、広さが違うという以外にはそれほど大きな違いはない。
 私たちが持っているものは、ふたり合わせてもきわめて少ない。けれど、それでもよかった。多くのものを持っているより、もっと大切なことがある。
「こうしていると、昔を思い出すよ」
 室内を満たす青い闇に溶かすように、やわらかな声でシャディクが呟いた。
「うそ。昔だってこんなふうに一緒に眠ったことはなかったでしょ」
 笑いをまじえて、私は応じる。
 呼び方も話し方も、すでに昔と同じように戻していた。呼び方はともかく、話し方についてはシャディクに求められたわけでもなければ、努めてそうしようと決めたわけでもない。ただ、話しているうちに自然と、こういうふうに戻っていったのだ。
 まるで、私のなかで古い思い出をせき止めていた杭が、いつのまにか抜けていたかのようだった。シャディクは取り立てて何も言わず、私の変化をするりと自然に受け容れてくれた。
 シャディクが寝転がったまま、私の顔を覗き込む。腕を伸ばしたかと思えば、その手が私の頭を撫でた。兄が妹にするように、大人がこどもをあやすように、教師が生徒を褒めるように。シャディクの前では、私は彼の求めるすべてになる。私にとってのすべてが、シャディクひとりで足りるように。
「ナマエ、昔のことを覚えてるのか?」
「はっきりとは覚えてないけど、少しくらいは」
「はは、どうかな」
 ナマエの記憶力は頼りないから。呆れたようにそう言いながらも、シャディクが私を撫でる手を休めることはない。私もじっと、されるがままになっていた。
 身じろぎの音が大きく聞こえるほど、静かな静かな夜だった。もともとこの部屋に時計はない。いまや屋敷の主であるシャディクは、ここでは時間にとらわれた生活をする必要がないからだ。
 秒針の音すら存在しない、その静寂に耳を澄ませながら、私は尋ねた。
「シャディク、ひとつ聞いてもいい?」
「何なりと。俺が答えられる質問なら」
「シャディクは、セックスのできない身体になったの?」
 ぴたり、私の頭を撫でる手が止まる。さすがに不躾すぎただろうか。そう思いながらシャディクをうかがう。
 シャディクはぽかんと虚を突かれたような顔をして、それからようやく、ふっと笑いを噴き出した。深海のような静けさのなかに、シャディクの軽やかな笑い声が広がる。
「ははは、ナマエ、直球すぎないか? もう少し恥じらいとか、あってもいいと思うけど?」
「だって、恥じらったところで聞きたいことが変わるわけでも、答えが変わるわけでもないのだし」
「それもそうだ」
 それに、私とシャディクはすでに一度肌を重ねてしまっている。今更うぶなふりをして恥じらう方が、かえって恥ずかしいのではないだろうか。
 しかし、たしかになんというか、我ながら情緒が足りなかったかもしれないとは思った。相手がシャディクとはいえ、いや相手がシャディクだからこそ、開けっぴろげな物言いが過ぎたのもたしかだ。
 今更ながらに羞恥心がわきあがり、顔がかっと熱くなる。今が夜深い時間でよかった。表情は見透かせても、顔に集まった熱までは、この闇の中では伝わらないはずだ。それとも気付いていて、なお気付かないふりをしてくれているのだろうか。
 私がひとりあたふたしていると、
「できないわけではないよ」
 シャディクが笑い声で言った。一拍遅れで、それが最前の私の問いに対するシャディクの答えなのだと気付く。
「性欲も、ほとんどないとはいえ、まったく無いわけではないし。ただ、したところで万に一つも子どもを残すことはない、というだけ」
「そうなんだ。……それがいいのか悪いのかは、私には判断しかねるけど」
「よかったとも悪かったとも思わないな」
 くすりと笑みをもらすシャディク。その笑みが、困惑と、それから少しの諦観を孕んでいることは、この至近距離にいては隠しようがない。
 だからといって慰めを口にすることもできなかった。これはシャディクが犯した罪への、相応の罰なのだから。
「ナマエは?」
 今度はシャディクが問う。妊孕性を失っているという意味では、私もシャディクと同じ状態にあった。
「私も同じかな。いちおう器官としては残ってるけど、妊娠の機能はない……ということみたい」
「そうか」
 先ほどまで私の頭を撫でていたシャディクの手が、今度はゆるりと下りてきて、そっと私の下腹にふれる。いやらしいふれ方ではない。だから私も拒まなかった。
 シャディクはまるで、そこにあったものを惜しみ、偲ぶような、いとおしむような、そんなふれ方をした。荒々しさはない。凪いだ親密さだけが、手つきにあらわれている。
 かつて一度だけ、男を受け容れたことがある私の女としての器官。それは今も、変わらず同じ場所にある。シャディクが手のひらをあてがう肌の下の、それよりさらに下った場所に。
 けれどもう、その器官が本来持っているはずのはたらきをすることはない。受け容れることはできても、それだけだ。
「シャディクは、性欲がない、わけではないんだよね」
「ああ」
「今この瞬間は? したいと思ってる?」
「思わない」
 答えはすぐに返ってきた。迷う暇も、悩む暇もなかった。その返答を、私は意外には思わない。そうだろうなと、ぼんやりとした実感でそう思うだけだ。私の知るシャディクは、そういう人間だ。
「ナマエはしてほしかった?」
 シャディクが問う。私は少しだけ考えて、それから正直な答えを口にした。
「……分からない。シャディクがしたくないならしなくていいとも思うし、シャディクがしたいならしたいような気もする」
「こら。またきみは、そんな主体性のないことを」
「でも、本当に分かんないのだから仕方がないでしょう。私の経験って、シャディクとしたあの一回きりだし」
 だから私にとって、セックスはけして快いもの、自分から望んでしたいと思うものではなかった。流されて、与えられる嵐のような行為だった。それをもう一度したいのかと問われれば、けしてそんなことはない。
 それでもまだ、私はシャディクにふれてほしいと思う。セックスがしたいわけではない。ただ、ふれてほしい。そして同時に、私がシャディクにふれることを許してほしかった。
 そんな思いが、胸のなかで泉のように湧きだした。欲ともよべる感情は、そうしてしとどに、身体をくまなく濡らしていく。
 思いのままに、私はシャディクの瞳を見つめた。夜の色をうつした蒼の双眸は、思慮深い賢者のそれのようだ。涼やかな瞳の間をはしる、すっと筋の通った鼻梁。少しだけ開いた、薄いくちびる。青い闇に沈んだシャディクは、どこまでも人智の及ばぬ美しさを湛えている。
 この期に及んでまだ、私は新鮮な気持ちでシャディクに見惚れた。呆けたように、何時間でも眺めていられる。
 私からの視線に、シャディクが何を思ったのかは分からない。だが、かすかに開いていたくちびるをきゅっと引き結び、シャディクはおもむろに上体を起こした。次いで、寝転がったままの私の前で、唐突に居住まいを正す。
「今更だが、あのときはひどいことをしてすまなかった。詫びてどうにかなることではないが、謝らせてほしい」
 それは突然の謝罪だった。対する私は、
「いいよ」
 つられて身体を起こしながら、即答する。するとシャディクは眉間に皺を刻み、たちまち不機嫌そうな表情をした。私の返答が不満らしい。
「……俺が言うのもなんだけど、ナマエはもう少しいろいろ、考えて返事をした方がいいんじゃないかな」
「でも、もうじゅうぶんすぎるほど考えたよ。あれからどれだけ経ったと思ってるの」
 答えながら、私は向き合って座ったシャディクの頬に向け、ゆっくりと手を伸ばした。シャディクの肌にふれるその直前、ほんの一瞬だけ、シャディクに拒まれないかと怖くなる。
 けれどシャディクは、私の手を拒んだりしなかった。腰を浮かせ、私はシャディクの両頬を、左右それぞれの自分の手で包みこむように、ふれる。自然と両者の顔の距離が近づいて、私はシャディクの顔を、至近距離でじっと覗き込んだ。
 シャディクの瞳に、うっすらと私の顔が映りこんでいる。見慣れた、ぱっとしない自分の顔。けれどシャディクの瞳に映った顔は、いつもよりずっと美しいものに見えた。
「シャディクになら、私の全部を壊されても赦すよ。全部シャディクのものだから」
 だから、シャディクの好きにすればいい。
 そう告げた瞬間、シャディクが私の腰に背を回した。そのままぐいと抱き寄せられ、私はシャディクの胸に倒れこむ。
 間髪容れず、シャディクが私に口づけた。くちびるを押しつけるだけの、子どもじみて、不格好なくちづけ。けれどそれは、私がずっとほしかったものだった。
「俺のものになんか、ならなくていい」
 繰り返される口づけの合間に、シャディクが呟く。聞き捨てならない言葉に、私はむっと反論した。
「……ならなくていいんじゃなくて、私が、シャディクのものになりたいんだけど」
「それでも、だ」
 はあ、と溜息に似た息を吐き出して、シャディクが私を解放した。私はまだシャディクの膝のうえに身体ごと乗り上げたままで、少しだけ顎を上げ、見上げるようにシャディクを見つめている。
 シャディクは私を支えるのと反対の腕で、顔にひと房かかった金糸をかきあげる。彼の蒼瞳は私を見てはいたが、それは私の存在を見つめているというよりも、私を通してどこか遠い、手の届かなくなった過去を見つめているようにも見えた。
「あの頃の俺は多分、その辺りのことが分かっていなかったんだろうな。本当のところ、俺はナマエを、俺だけのものにしておきたかったわけじゃない。ただ、俺以外の誰かのものになってほしくなかったんだ」
「そんなの、身勝手だよ」
 シャディクだって、ミオリネさんに惹かれていたくせに、とまではさすがに言えない。そこまで明け透けにはなれない。それでも私が言い返すと、シャディクは口の端を上げた。
「俺が身勝手なのは知ってるだろ?」
「知ってる。それに、私も身勝手だから分かる」
「似たもの同士だな」
「でも、今の私はもう、シャディクが何と言おうと、シャディクのものだよ。もう、自分でそう決めたもの」
 今朝から何度も、繰り返し伝え続けていることだ。シャディクもいい加減、聞き飽きてきた頃だろう。「そうか」と短い相槌だけで、それ以上の反論はシャディクから返ってこない。
 なんとなく、先ほどまでとは空気が変わった気がした。ゆるやかな親密さに揺蕩うような、ある種のけだるさは掻き消えて、今はどこかよそよそしが漂っている。
 別にそれは悪いことではない。少なくとも、気まずさのようなものではなく、互いに相手に押し付けすぎない、過干渉を避けようとする無意識ゆえのよそよそしさに思える。
 今夜はここまでだろうか。切りがいいと、いえなくもない。眠気はないが、眠れないことはない。
 意見を求め、私はシャディクに視線を戻す。と、シャディクがふいに相好を崩した。そして、
「ナマエが俺のものだというのなら、その逆があったっておかしくはない。俺の残りの人生も、ナマエのものということにしよう」
 どうやら先ほどからの沈黙は、この結論を導き出すための思考をしていたようだった。まるで子どものような口ぶりに、私はたまらず苦笑する。
 私の反応にかまわず、シャディクは得意げに続ける。
「それとも、俺の人生ではナマエの人生に釣り合わない?」
 そう問いかけられ、私はしばし考えた。これまでの人生でシャディクに与えてもらったもの。これまでの人生で、シャディクに捧げたもの。
 これからの人生で、シャディクと分かち合っていくもの。それらすべて。
 おのずと、私の答えも決まっていた。
「……うん、きっと釣り合うんじゃないかな」
「そうだな。俺も、そんな気がする」
 満足そうなシャディクの声に、私の心も満たされる。
 音のない夜のなかで、私とシャディクが囁きをかわす声だけが生まれては零れ落ち、そして誰の耳にも届かぬまま、闇に溶けて消えていった。

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