辿り着けば傷というほどではない


 朝から昼へと移り行く時間のなか、私とシャディクはしばらくそうして、その場でじっと抱きしめあっていた。薄いシャツごしに触れたところから、互いの温度が均一になっていく。
 遠い昔も、こうして温度を分かち合っていた。ときに固く手をつないで。ときに親愛をあらわす抱擁で。
 今はもう、この抱擁がただの親愛、家族愛だけでないことを知っている。一度肌を重ねてしまったからには、もう昔のようには戻れない。
 けれど肌を重ねたからといって、昔のあたたかな気持ちが、そっくりそのまま失われてしまったわけではなかった。親愛は親愛として、今もずっと、私とシャディクの肌がふれたところからじんわりと生みだされては、心まで沁みわたっていく。
 あの夜に感じたような恐怖は、あるいは快楽、強い歓喜は、けして湧きあがってはこなかった。ただただ穏やかで、たいらかな気持ちだけで、私はシャディクに身をゆだねていた。
 シャディクの胸に額をあずけ、大きく息を吸い込む。香るのは、シャディクの纏う空気のにおいだった。懐かしいにおいのような気もするし、まったく知らないにおいのような気もする。それでも、シャディクの温度とにおいだということだけは、何故だかはっきりと意識することができる。
 シャディクの手が私の背を撫でた。やさしさだけが、そこにあった。
 そのやさしさを感じながら、私はシャディクに語りかける。
「シャディク、前に言ったでしょう? 『今のナマエがいるのは、自分のおかげだ』と」
 私の言葉に、シャディクは頭上で静かにうなずいた。かすかに嘆息する気配を感じる。
「あれは俺が傲慢だったよ。だが、それだけ切羽詰まっていたんだ。きみが俺の知らない誰かの花嫁になったのかもしれないと思ったら」
 当時はちょうど、私に持ち込まれた縁談話が立ち消えになった──シャディクが横から握りつぶした、直後のことだった。思えばあそこから、私たちの関係はひどく捻じれ始めた。
「シャディクがあのときしたことの是非は、今は置いておくとして……でも、あのときのあの言葉、あれだけは正しかったと私は思います。今の私があるのは、すべてシャディクのおかげ。私の身体も心も、すべてはシャディクに返すためのもの。私の全部は、シャディクのためだけにある」
 私の言葉に、ふは、とシャディクが声もなく笑う。シャディクの吐く息で、つむじのあたりが温かくなった。
「気前がいいな、俺とは大違いだ」
 その声は、どこか揶揄するようでもあり、それでいて自嘲めいてもいた。響きに含まれた不穏さに、ほんの少し黒いもやのような不安が、さっと私の胸を過ぎる。
 こういうとき、私の不安はよく当たる。シャディクは私を抱きしめたまま、私の頭頂部に顔を埋め、
「ナマエ、聞いてくれ」
 そう言った。呻くような唸るような、低くひそめたシャディクの声が不穏さを増す。侵食するように、声がぞわりと耳朶に染み込む。
「さっき、俺は何も与えられないと言っただろう」
「でも、それは、」
 咄嗟に身体を離した私のくちびるを、シャディクの人差し指が、軽く押さえて塞いだ。
「しーっ。ナマエ、まずは聞いて。これはけして比喩じゃないんだ。分かっていることだとは思うが、俺は罪人の身で、当然子どもを持つことも許されていない。だからもしきみが子どもを……家族をつくることを望んでも、俺ではきみを母親にしてやることはできない」
 見上げたシャディクは、言葉とはうらはらに苦しみのない、穏やかな微笑を浮かべていた。その微笑みを見て、私は気付く。
 きっと私を追いかけて厨房までやってきた時点で、シャディクはこの話をすることを覚悟していた。せずに済めば、それでもいい。ただし話の流れによっては、この話をすることも已むなしと思っていたはずだ。
 シャディクは世界でたったひとり、私が家族のようだと思えるひとだった。シャディク自身は養父を得ることができたが、私にはそういう機会は与えられなかった。これまでもこれからも、私にとってもっとも家族に近い存在は、シャディクたったひとりだった。
 私には親も、血のつながったきょうだいもいない。だからもしも私が家族を──家族のよう、ではなく、本当に自分の家族を持とうと思ったら、自分で伴侶を選び、子を持つ必要がある。
 だが、シャディクにはもはや、その権利も、能力もない。シャディクでは、私に新しい家族をつくることはできない。
「俺たちには、血縁のルーツがない。だが、きみにだって家族を持つ権利はある。だから、いざとなればタヴァと結ばれ、そして一緒に連れて帰ってもらえばいい……、そう思ったんだ」
「今でも、そのように考えていらっしゃるのですか?」
 尋ねると、シャディクはゆっくりと首を横に振った。
「さすがに、さっきの話を聞いたあとではね」
「そうですか……」
「だけどもし聞いていなくても、本心では嫌だと思っていたのだろうな。知っての通り、俺は本音と建て前を切り分けるのがうまいから……。本当は、そんな想像をするだけで、身が引き裂かれそうな気がするよ」
 困ったようにほほえんで、シャディクはまた、私を強く抱き寄せる。彼の発言と行動はちぐはぐで、けれどシャディク自身、自分の感情に振り回されているように見えた。
 これだけいろいろな話をしたあとだ。尋常でなく精神力の強いシャディクであっても、動じることはあるのだろう。そう考え、私はシャディクに抱きしめられるまま、ふたたび彼の胸におさまった。
 どくんどくんと、シャディクの鼓動が聞こえてくる。その音に、私は耳を傾ける。シャディクは腕の力をゆるめると、私の背中に手をあてがい、何度もゆるゆると撫でさすった。
「ナマエの手にかかって死んでやること、それができないのであればせめて、きみを手放してやること……。それだけが、俺にしてやれる唯一のことだと思っていた。だから、俺は……」
「手放すのですか? シャディクが、私のことを」
「……それも仕方がないことかと、思ったんだよ」
 分かるだろ? と聞かれれば、不本意ながらもうなずくしかない。シャディクが大切なものと距離を置こうとすること、離れることで守ろうとする悪癖があることを、すでに私は経験して知っている。
 だが、たとえ大切だから、守りたかったから、幸福を願っていたからだと言われても、蚊帳の外に置かれることほど寂しいことはない。大切だから守りたいと思っているのは、シャディクだけではないのだ。
 私だって、シャディクのことを大切だと、守りたいと思っている。シャディクの幸福を何よりいちばんに考え続けている。シャディクをそばで守ることができるのなら、シャディクと苦しみを分かち合うことができるのなら、私は手を繋いだまま地獄にも行こう。
 シャディクの背に腕を回し、私はぎゅっと彼を抱きしめる。胸の下から聞こえるシャディクの鼓動に耳を傾けたまま、彼をまねて背骨をなぞる。そうしていると、本当に世界には私たちふたりきりしかいないような、そんな夢のような気分になった。
「シャディクの考えも、分からなくはありません。私だってシャディクの立場なら、同じことを考えるかもしれない。だけど、お願いですから、もうそんなことはしないでください。シャディク、私のことを手放したりしないで」
「ナマエ……」
「シャディクはいつも正しいけど、それだけは絶対に間違ってる。絶対、ぜったい間違ってる」
 シャディクを抱きしめた腕に、できる限りの力をこめた。
 愛おしいと思う。私のことを大切に思うあまり、シャディクは私を不幸のどん底に突き落としかねない。そんな危うさを持っている、シャディクの不器用さも愛おしい。
 もう何度目になるか分からない思考が、今また頭のなかを埋めつくそうとしていた。
 シャディクのことが大切だ。
 シャディクさえいればそれでいい。
 シャディクがいれば、ほかに何もいらない。
 シャディクと一緒にいるためなら、私はすべてを捨てられる。
 事実、捨てて、ここへきた。
「それに、もしもシャディクのもとを離れたとしても、私はもう母親にはなれませんから」
 抱き合ったまま、視線を合わせず小声で囁く。シャディクが「それは、どういう……」と尋ねかけ、そして唐突に、はっと身体を強張らせた。
 シャディクが勢いよく、私の身体を引きはがす。両腕を強くつかまれて、恋しい痛みが呼び起こされる。見上げたシャディクの顔は引き攣って、心なしか蒼褪めているように見えた。
「ナマエ」
「そんな顔、しないでください」
 困って首を傾けるが、シャディクの表情はますます凍り付くばかりだ。私の腕を握った指まで、まるで固まってしまったようにぎこちなく震えている。
 そのとき、私を見下ろすシャディクの顔に、ふいにミオリネさんの顔が重なった。脳裏によみがえるのは、病室に駆けこんできたミオリネさんの、強張り、苦しそうに喘いでいた表情だ。やはり、このふたりはよく似ている。鈍い痛みを腕に覚えながら、そんな場違いなことを考える。
「ナマエ、きみは、まさか」
 問いにならないシャディクの声に、私はただ、うなずきで応じた。
「そうすることが、シャディクと一緒にいるために必要なことだったから」
「誰がそんな、ばかなことを……? ミオリネは? 彼女もそれを許したのか?」
「ミオリネさんは、知りませんでした。彼女に内緒で、私が決めたんです。ミオリネさんはすべて終わったあと私に起きたことを知って、そして怒って、悲しんでくれた」
 あのときのミオリネさんの、苦しげな顔──ちょうど今シャディクが浮かべているのと、よく似たあのときの表情を、私はほろ苦いような懐かしさとともに思い出す。

 シャディクのことを今なお利用しようとする勢力はいくつもある。彼が稀代のテロリストであるのと同じだけ、いや、一部の人間にとってはそれ以上に、彼は救世主であり、革命の旗印なのだ。
 シャディクの身柄を利用したい勢力はまた、彼の血を継ぐ存在をも欲する。流刑にあたって、シャディクは永遠に子孫を残せないよう。医療的な処置をほどこされた。しかし、それでもまだ奇跡を信じる者はいる。
 奇跡を信じる眼は、不条理すら奇跡とみとめる。
 シャディクとともに流された唯一の女である私が子を孕めば、その子はシャディクの子ども──プリンスの裔として蔑まれ、祀り上げられ、永らく利用されることになりかねない。たとえその子の父親が、シャディクでなかったとしても。
 万が一は、けして起こってはならない。シャディクとともに生きたければ、『シャディクの子』を宿す可能性を、一切排除しなければならなかった。
 むろん、ミオリネさんほどの優秀な人ならば、シャディクとともに在ろうとする私の身に、何が起こるか考えなかったはずがない。どうにかしようと、解決策を模索していたのだろう。当時の彼女が忙しくしていたのは、もしかすると私のせいでもあったのかもしれない。
 けれど結局、間に合わなかった。忙しくしていたミオリネさんの目を盗み、私は同意書にサインをした。
 私が毎日服薬しているのは、避妊薬ではない。避妊薬としての効能もあるが、それはあくまで副次的なものに過ぎない。
 このフロントに来るため、私は必要な手術を受け、結果として生殖能力を完全に喪失した。薬はその後遺症をやわらげるためのものだ。調和を欠いた状態の不完全な肉体では、シャディクを支えることなどできるはずがない。

「シャディクと一緒にいられるのなら、ほかに何もいらないの。シャディクと一緒にいられるのなら、ほかのどんな幸福な未来でも、私は何度でも捨てられる」
 そこには一抹の後悔も、存在しなかった。シャディクのために捨てろと言われれば、何だって捨てる。シャディクに捧げろと言われれば、喜んで捧げる。そうすると決めたのは、ほかでもない私自身だった。
「は、はは……ははは……。ナマエ、きみってひとは」
 シャディクの瞳に、うっすらと光るものがあった。私はそれに気付かぬふりをして、シャディクの手をそっと握る。
 私の身に起きたことを知れば、シャディクはきっと傷つくだろう。そんなことは分かり切っていた。私だって、最初から覚悟していた。
 だからといって、傷ついた顔を見たいわけではない。シャディクに傷つけられることは赦せても、自分がシャディクを傷つけることには耐えられない。少なくとも今はまだ、直視することができない。
 だから私はただ、シャディクの胸に顔をうずめて、見て見ぬふりをする。いつかはきっと、受け容れられるのだろうか。そんなことを考えながら、私はぎゅっと、シャディクの手を握り続ける。
「シャディク、勝手なことをしてごめんなさい。でも、過去に戻ったとしても、私はきっと同じ選択をする。それはシャディクのせいではなくて、私が、私のために決めたことだから……。シャディクを愛すると決めたのは、私だから」
 いつまでも、いつまでも。私はシャディクの手を握り続けていた。今度はもう二度とほどけてしまわないように。シャディクと私が、離れ離れになってしまわないように。

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