あなたはひからない星みたいなもの


 シャディクはまるで、信じられないものでも見るような目で、私を見つめていた。こういう表情を浮かべるシャディクも珍しい。シャディクは常に、あらゆる方面への思考と思索をはしらせ続けている人だ。そのシャディクの想定から外れるというのは、私のような人間にしてみれば滅多にないことだった。
 愕然としているシャディクの表情に、また胸が軋む。
 シャディクの想定から外れたのは、よりにもよって、私にとってもっとも単純明快な事実だった。自明の理以外の何者でもないことが、シャディクにとってはそうではなかった。その事実が指し示すのは、ただひとつ。
 私とシャディクのあいだには圧倒的に、会話が足りていなかった。シャディクが浮かべる表情は、まぎれもなくその証左だ。
 けれど、傷ついたり、まして落ち込んだりしている場合ではなかった。少なくとも、それは今すべきことではない。
 事態がここに至って、私はシャディクとの会話や態度について、今一度考え直す必要があることを痛感していた。
 同じ背景を持ち、同じ地獄を生きた同胞。私がこの世界で唯一、心の底から家族だと思えるひと。ゆえに、その共通項に甘えて言葉にしなかった、言わなくても伝わると思っていた、数多の思いや思考。
 それらを今こそ丹念に、丁寧に、言葉にする必要があった。そうしないと、せっかくこうして話をしている意味がなくなる。
 この場所で、私たちが一緒にいる意味がない。
 くちびるを舐める。ゆっくりと、私は口を開いた。
「グラスレーに拾われたあの頃も、救貧院にいた頃も。シャディク様にとってはおつらい時期だったのかもしれませんが……でも、私はずっと、しあわせでした」
 言わなくても伝わっていると、ずっとそう思っていた。
 あの時間が幸福以外の何かであるなど、私は考えもしなかったからだ。
 だからシャディクが、私に苦痛を背負わせたと自責を抱いているだなんて、そんなことを考えも、思いもしなかった。
「今もそうです。今も、あのときと同じくらい、私は日々しあわせだと思っております」
 少なくとも、私にとってはそうだった。
 私の幸福のかたちは、ずっと昔からもう、決まっている。シャディクが一緒にいてくれること。もしもそばにいなくても、シャディクが幸福であってくれること。シャディクが無力感に襲われず、なすべきことをなせること。シャディクが、不自由なく生きていること。
 そしてそれを、私が知っていること。
 たとえシャディク本人から直接の言葉を聞かされなくても、たとえその姿を見られなくても、それでも私はよかったのだ。シャディクがグラスレーの御曹司として期待されていることは、アカデミーや邸にいればちゃんと分かった。それだけで十分に満ち足りていた。
 だからずっと、私は本当にずっと、幸福だった。
 掛け値なしにしあわせだった。
 たとえシャディクが、私ではないほかの女性を、その美しい蒼の双眸に映していたとしても。それでもまだ、幸せだった。あの夜までは。
「だが俺は、きみに乱暴なことをした」
 私の思考と呼応するように、シャディクがあの晩の話題にふれた。私は一瞬だけ瞳を伏せる。けれどすぐ、視線をシャディクに戻した。
「あれは、たしかに傷つきました。あんなふうに、ひどいことをされたくはなかった」
「ああ、分かってる」
「でも、……赦せないことではありません」
「……嘘だ。そんなのはおかしい」
 それはまるで、駄々をこねる子どものような物言いだった。会話のうえでのポジションが、いつのまにか私とシャディクで逆転している。
 どうして、なぜ。そんなのはおかしい。
 あのシャディクが、そんな言葉を吐いている。いつだって私にも周囲にも、答えを与える側だったシャディクが。
 その姿は、さながら夜道で光をなくした、迷子の子どものようだった。あるいははじめて知識にふれた、無知で無学な者。それらはかつて、シャディクが脱ぎ捨ててきたものの姿でもある。過去の彼の抜け殻が、今またシャディクのかんばせに、亡霊のように舞い戻っている。
「きみは……、ナマエは、あんな獣のような所業を許すのか?」
「赦しません。あれがシャディク様以外の誰かでしたら、私はけして赦しはしませんでした。憎み、恨み、殺したいと思ったことでしょう」
 最前からシャディクが言うように、そう思うことが当然だと、私だってそう思う。この世界の如何なる人間であろうと、あのように理不尽な仕打ちを受ける理由はないはずだ。
「でも、私を暴いたのはシャディク様だった。私にとっては、それがすべてなのです。それに……シャディク様以外の男に奪われるくらいなら、シャディク様に散らされた方がまだしも幸せだと、そんなふうに思わないでもありませんでしたから」
 シャディクが瞠目する。私は慌てて付け加えた。
「……とはいえ、せめて強引にするのではなく、手順を踏んで求めてくれればとは、今でも思っていますが」
 あの晩、最初はただただ困惑した。ついで、恐怖が全身を襲った。それはひとえに、夜半に始まったその行為の動機が、そのときの私にはまったく理解できなかったからだった。
 シャディクと私のあいだには、それまでそういう感情のやりとりが、まったくといっていいほどなかった。うっすらとした軌跡すら、一度も存在しなかった。あのような事態を招く理由が、私には何ひとつ思いつけなかった。
 おまけに、その行為によってシャディクに利するものは何もない。あるのは事が露呈したときに訪れる、取り返しのつかない破滅だけだ。そしてそれは、私の幸福が崩れ去ることをも意味する。私が恐れたのも無理からぬことだった。
 今でも、あれはシャディクが悪かったと思っている。いくら私がシャディクを大切だと思っていても、やっていいことと悪いことがある。あれは明確に、『悪いこと』だった、
 だが、そう判断したうえで、私はシャディクを赦すことに決めた。
 何もかも赦し、受け容れることに決めた。
「……きみは、」
 呟くシャディクが、くちびるを震わせていた。わずかに眇めた蒼の瞳が、細めたまぶたの間から、眩しいものを見るように、こちらを見つめる。
「きみは、……馬鹿だな」
「おそれながら、私の頭がよくないのは昔からです。こればかりは、今も昔も変わりませんね」
「本当に……、」
 それきり、シャディクは何も言わなかった。テーブルの上に投げ出した手指を組み、黙ってじっと俯いていた。
 テーブル上にはからになった皿と、すっかり冷めきった、ほんの少し中身の残ったカップだけがいつまでもぽつんと置かれている。窓からは人工の陽光が燦燦と降り注ぎ、すでに終了した朝食の風景を、その場に鮮やかに浮かび上がらせていた。
 驚いたことに、まだ午前中なのだ。アルコールの一滴も飲まず、あるいは夜闇が表情を覆い隠してくれるのを期待するでもなく、私たちは明るい真っ白な光のもとで、こんな話をしている。
 私は静かに席を立った。朝食の後片付けのため、テーブル上の皿に手を伸ばす。シャディクは何も言わなかった。身じろぎ一つせず、椅子に座ったまま項垂れていた。
 厨房のシンクに立ち、汚れた皿を手洗いする。水道から流れ出る流水が、火照った身体を手のひらから少しずつ冷やしていく。
 まだ午前中だというのに、肩のあたりにどっと疲労がたまっていた。シャディクとの対話が、知らず識らずのうちに身体を緊張させていたらしい。ゆっくりと息を吐き出す。身体を弛緩させていくと、無用な力が入っていたことを実感した。
 今まで受け身のコミュニケーションしかとってこなかった、これはそのツケなのかもしれない。そんなことを思いながら洗い物を終え、タオルで手を拭う。
 ちょうどそこへ、シャディクが顔を出した。
 ふたたび私の身体のすみずみまで、うっすらとした緊張が張りつめる。
 先ほどの遣り取りは、シャディクがいったん引き取って打ち止めになっている。私が席を外したあと、シャディクがひとりで一体何を思い、何を考えたのかは、私には知るよしもない─と、そう思ったが、
「ナマエ、」
 どこかおそるおそると呼びかけてくるシャディクの顔を見れば、彼が何の話をしようとしているのか、私にはおのずと見当がついた。
「シャディク様、タヴァさんのことを考えていますか?」
 苦笑を噛み殺し、先回りして尋ねれば、シャディクはかすかな狼狽をあらわした。
「驚いたよ。一体いつから、きみはそんなに鋭くなったんだ?」
「いえ、シャディク様がお考えになることで、今このタイミングで切り出そうとすることがあるとすれば、それはタヴァさんのことくらいかな、と。あとは勘です」
 途中で打ち切りになっていた先ほどの対話だったが、それでもいちばん根本的で、致命的なすれ違いについては、最低限の擦り合わせはできたはずだ。だから、そこからシャディクが思考を発展させるならば、遅かれ早かれタヴァの件に辿り着くだろうということは、私にも容易に想像がついた。そもそも今回の事の発端は、シャディクが私とタヴァに対し、おかしな勘違いをしていたところにある。
「シャディク様が何を勘ぐっておられるかは知りませんが……、タヴァさんには、結婚を考えている大切な恋人がいらっしゃるそうですよ」
「……そうなのか?」
「はい。このフロントでの仕事も、結婚資金を短期間で貯めるために受けたそうです」
 タヴァから聞いた話を、そっくりそのままシャディクに伝える。タヴァはここでの生活に、結婚資金を得るための職務以上の何ものも求めていない。私もシャディクとの生活をつつがなく過ごす以上のことは、何も望んでいない。私たちのどちらにも下心はなく、かりにあったとすれば、それは管理体制を揺るがす大問題になるだろう。
 シャディクは束の間、呆気にとられたような、虚を突かれたような顔で私を見つめていた。私は黙して、シャディクが勘違いを正すのを待つ。
 やがてその表情がゆるんだかと思うと、シャディクは脱力したように肩を落として笑った。
「はは、そうか……。なんだ、それじゃあ俺はひとりでずっと、的外れなことばかり考えていたんだな」
「こればかりは、その通りとしか言いようがございません」
 事もあろうに、私が職務を投げ出して男性にうつつを抜かすと思われていたなんて、まったくもって心外だ。そんな気持ちを込めて、少しだけ棘のある返事をすると、シャディクが肩を竦めて私を見た。
「珍しく辛辣だな」
「何でも黙って従うばかりがよいのではないと、身に染みて実感いたしましたので」
「たしかに」
 シャディクが微笑んでうなずいた。その笑みのなかに、私を咎める険は存在しない。そのことに、私はまた勇気づけられる。
「この際なので申しておきますが。もしもこの先、順当に行けば二年後、いえ、あと一年半後ですか。タヴァさんと入れ替わりに別の監視兵の方がいらしても……たとえその方がどれだけ素敵で、決まった恋人のいない方でも、私はシャディク様以外の誰かと添い遂げる気はありません」
「これはまた、熱烈な告白だね」
「茶化すのはご自由ですが、言葉を引っ込めるつもりは毛頭ありませんので」
 またぞろ誤解されても困る。はっきりとした口調で私は言い切った。
 制度としての結婚について言っているわけではない。どうせ望んだところで、そんなことはかなわない。けれど、このフロントでシャディクと生涯をともに過ごすのであれば、それを添い遂げると表現することに、なんらおかしな点はない。
 ふと、ミオリネさんの左手薬指にはまった、シルバーリングの輝きが思い起こされる。
 私は残りの人生すべてを、シャディクとともにあるために捧げた。ミオリネさんから託されてもいる。私たちには誓いのリングもないし、そもそもそんなものを贈り合う間柄でもない。けれど、シャディクが何と言おうとも──本気で疎まれ拒まれないかぎり、私がこの職務からおりることはない。
 だが、とこの期に及んでシャディクはまだ、ゆるやかな反駁の声をあげる。
「たとえ過去の俺にきみが赦しを与えたとしても、そして今の俺ときみが添い遂げてくれようとしていることを受け容れたとしても、だ。これから先の未来のことは、せめてもっとよく考えるべきだと思う」
 責めるようでも、咎めるようでも、非難するようでもなく、シャディクは飾らない言葉で、ぽつりぽつりと思いを語る。
「今の俺は、何も持っていない。もしかしたら、孤児だったころの俺ですら持っていたもの……、やがてはきみに与えられたかもしれないものまで、何もかも根こそぎ、……今の俺は失ってしまった。ナマエ、俺はきみに、何を与えてやることもできないよ」
 訥々とこぼされる言葉は、たしかな真摯さに裏付けされたものだ。だから私も、誠実だと自分で思える言葉でもって、思っていることを返していく。
「かまいません。シャディク様がここにいてくださって、そして、私がそばにいることを許してくださる。それだけで、私にはじゅうぶんすぎるほどですから」
 見栄を張っているわけでも、虚飾で糊塗しているわけでもなかった。
「本当にそれ以上のもの、それ以外のものなんて、私は何もいらないんです。……本当に、何も」
 そしてそれは、今も昔も変わらない、私の根っこにある姿勢だった。
 シャディクがいれば、それでいい。シャディクが生きていてくれれば、それでいい。地球のことも宇宙のこともどうでもよくて、孤児も、紛争も、革命も、シャディク以外の何もかもは、私にとってシャディクの背景にあるものでしかなかった。
 私の知っている世界はすべて、シャディクを通して観測した世界だった。
 今はもう、そこまでひどい偏り方はしていない。シャディクがいなくても世界はまわるし、シャディクひとりの力ではどうにもならないことの方が世界には多いことを知っている。孤児も、紛争も、革命も、地球も宇宙も、シャディクがいてもいなくても、変わらずずっとそこにある。そしてそれらはどれをとっても、常に私という人間に深くかかわる事象だ。
 分かっている。
 私はもう、シャディクを通さずに世界を見ることができる。そのうえで、シャディクを通さずに見た世界を、選ばないことを決めた。このフロントでシャディクとずっといる。シャディクのそばで生きて死ぬ──そのことを、心に決めた。
 シャディク以外の世界の全部は、今の私が訣別し、意図して置いてきたものだ。このフロントに発ったとき、それらはすべて、ミオリネさんに預けてきた。ミオリネさんに運用を依頼した私の貯金は、その意味では切り捨てた世界への手切れ金でもある。
 私は大きく息を吸う。そして言葉を、シャディクへ向ける。
「私は今までも、そしてこれから先も、シャディク様しかいりません。洗脳でも教育でもない。自分で考えて、そう決めました。たとえシャディク様であっても、それを否定してほしくはありません」
 その言葉を最後に、私たちの会話はまた、ふつりと途切れた。一時休戦か、あるいは完全な停戦か。しばし、私たちのあいだに沈黙が流れる。重たい沈黙ではない。ごく自然な静謐さが、私たちのまわりを満たしているようだった。
 どれほどそうしていただろうか。さしこむ白い陽光を受け、やがてシャディクは顔を俯けると、大きく息を吐き出した。
 次に顔を上げたとき、シャディクはさっぱりとした顔で、眉尻を下げて笑っていた。
「ああ、負けたよ。ナマエの勝ちだ」
 そう言って、シャディクが笑む。その言葉の意味を私が理解する前に、シャディクは笑ったまま続けた。
「昔みたいに俺の名前を呼んでくれないか」
「昔、というと」
「ただ、シャディク、と」
 それより以前の名前は、もうなくしてしまったから。囁くようなシャディクの言葉に、私は小さく息をのむ。
 けれど、怯みはしなかった。シャディクがそうしてほしいというのなら、私はただその願いにこたえようとだけ決めた。
「シャディク」
 私は彼の名前を呼ぶ。
 このフロントに移ってから、幾度もそう呼ぶようにと乞われてきた呼び名。けれどもこれまで私は一度も、その要望にこたえはしなかった。
 呼び名は主人と従者の一線を明確に引くもの。その線を曖昧にすることを、私はずっと避けてきた。あの晩に一度、境界線を踏み越えてしまったから。今度はもうたがえないようにと、自分をきつく戒めていた。
 その戒めを、シャディクが解いた。
「シャディク」
 心をこめて、もう一度呼んだ。呼ばれた彼の表情が、ゆるりと緩慢にほころんでいく。その表情を見て、もう止められなくなった。
「シャディク、シャディク……シャディク」
「なんだい、ナマエ」
 胸のうちから溢れるように、何度も何度もその名を呼び続ける。こたえるシャディクの、やさしくかすれた声がふってきた。
 シャディクが一歩踏み出して、私の背中に腕を回す。私は彼の腕のなかにいて、ひたすら強く抱きしめられていた。
 あの夜以来はじめて、シャディクが私にふれていた。どこもかしこも私より一回り以上大きな、硬質な身体。抱きしめる腕はきついのに、私の身体に沿わせたシャディクの手や指は、どこまでも深いいつくしみに満ちていた。
 愛おしいというのは、きっとこういう気持ちをいうのだろう。
「一番最初は、ふたりきりだったでしょう。だから、いいんです。これで私たち、いちばん最初に戻ってこられた。だからいいんです。何もなくても、シャディクがいてくれれば、私はそれでいい」
 たとえ明日死んだとしても。
 今この瞬間の記憶があれば、きっと私はそれでいい。

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