ただ一つ、ただの一つ、たった一つ


 一体どうして、私がシャディクを憎んでいるなどと、そんな誤解が生まれるのだろう。惑乱のなか、私は必死で頭を巡らせる。
 生まれてこの方、ずっとシャディクに守られ、支えられ生きてきた。掛け値なしに、今の私があるのはシャディクのおかげだと、そう断言することができる。
 そんな私がもしもシャディクを憎むことがあったとすれば──私に憎まれてもおかしくないと、シャディクが思い込むような出来事をあげるとすれば。
「それは、あの晩のことがあったから、ですか……?」
 知らず、問う声をひそめていた。シャディクはゆっくりと息を吐き、答える。
「あの晩のことは、……いや、そうだな。それもそうだ。だが、どちらかといえば俺は、もっときみの人生全般の話をしていたつもりだった」
 私はまたしても、シャディクの言葉の意味をはかりかねた。無言のままシャディクを見つめる。シャディクはほんの短い沈思をはさみ、ふたたび口を開いた。
「グラスレーに拾われたときに、きみを連れて行ったこと。アカデミーでのこと、それに、女中として働くよう道をつけたことも……。思い出してごらん、今までの人生、きみは俺にいろいろな無茶を強いられてきたんじゃないか? きみも気が付いているだろう。きみの人生は、俺がレールを敷いたものだってことに。俺はきみを、俺のおもうままに動かし、利用してきた」
 返す言葉がない。なぜならことの是非はともかくとして、シャディクの言葉に偽りは、なにひとつなかったからだ。
 私はシャディクに導かれてここまで生きてきたが、裏を返せばそれは、シャディクにすべてを決められて生きてきたということでもある。
 そのことには、もちろん私も気付いている。というより、シャディクの庇護のもとにあったという過去が、私の人格の根本を形成しているようなものなのだ。ミオリネさんから、これからの人生のことを自分で決断しろと迫られたときにも自覚したとおり、それはとっくに分かり切っていた事実だった。
 ただ、シャディクは私が思う以上に、その事実を悪くとらえている。私の受け止め方と、シャディクの露悪的な物言いは、同じ事象をさしているにもかかわらず、大きく印象が乖離していた。
 たしかに私は、シャディクが手を引いてくれるままに生きてきた。けれどそのことを、シャディクが言うように「おもうままに動かされ」「利用された」とは思っていない。シャディクの口からはっきり告げられた今でも、そんなふうには思えない。
 テーブルの下、膝の上に置いたこぶしを、私はぎゅっと握りこむ。シャディク様、と呼びかけると、シャディクは表情を動かさないまま、ゆるりと視線で言葉をうながした。
 小さく息を吸い込む。悩んで言葉を選びながら、私は探るように口を開いた。
「シャディク様が、私とのことをどのように思われているのかは、……分かりました。私の認識とは食い違いがあることも。……事実は事実としても、その解釈が、私とシャディク様では、ずいぶんずれているなというのが、今のお言葉を聞いた、私の正直な感想です」
 シャディクが何か言おうと口を開くのが視界に映る。けれど、今ここで口を挟まれるわけにはいかない。私は慌てて言葉を続けた。
「グラスレーに拾ってもらえたのは、それまでずっとシャディク様が私を守っていてくださったからです。アカデミーに通えたことも、私にとっては間違いなく僥倖でした。今でも私は、そう信じています。それに、女中として働くことができたのも」
 今も地球での紛争はなくなっていない。住民の多くは荒廃した土地で暮らしているし、孤児ともなればなおさらだ。劣悪な環境で、人間として最低限レベルの生活の保障もされていない。私とシャディクがグラスレーに拾われる前は、今よりもっとひどい状態だったのだろうことは、想像に難くない。
「シャディク様がいなければ、私は今も掃き溜めのような場所にいたか、とっくにどこかで野垂れ死んでいたはずです」
 だから私にとってのシャディクは、文字通り命の恩人、救世主だった。
 しかしシャディクは、私の言葉を頑として拒む。
「違う、それはまやかしだよ、ナマエ。俺がきみに、そう思うよう信じ込ませてきただけだ。アカデミーでやっていることと同じだよ。すべては洗脳と教育のたまものだ。現にほら、今だってきみはこうして、俺に付き合わされている。俺のせいで、こんな何もない最果てのような場所で、死んだように生きることを強いられている」
「いいえ、いいえシャディク様。付き合わされてなどおりません。これはちゃんと、私が自分で選んだ道です。私がシャディク様のおそばにいたいと思ったから、こうしてついてきたのです。それともシャディク様にとっては、私が一緒に参ったことは迷惑なことでしかありませんでしたか」
「そんなことはないさ。俺はもちろん、きみがいて助かっている。だが、同時に同じくらい、意味が分からないとも思っているし、恐ろしくも感じている」
 はからずも、シャディクは先ほど私がシャディクに抱いた感情と、まったく同じ言葉でおもいの丈を表現した。
 意味が分からず、おそろしい。
 シャディクが、私を?
 シャディクは瞳を私にまっすぐ向け、視線で私をそこに射止める。
 私は身じろぎひとつかなわず、シャディクの言葉を、視線を受け止め続ける。
「俺にとって、分からないことは、恐ろしいことだよ。ナマエには、そうじゃないか?」
 シャディクの言葉が、ひたひたと耳朶から沁みこんだ。
 問いのかたちをとってはいる。だが、答えを求めていないことは明白だった。
「なあ、ナマエ。どれだけ考えても、俺には分からないんだ。きみは俺のことを殺したいと思わないのか? 思わないのなら、どうしてだ? きみは、俺を憎んでいなければおかしい。俺はそれだけのことを、きみにしてきたじゃないか」
 ごくり、と身体の内側から音がする。私の喉が鳴った音だった。
 シャディクの言葉を反芻し、戦慄した音だ。
 シャディクは私が彼を憎んで、あまつさえ殺そうとしていると思っていたのか。殺したいと、そう思っていなければおかしいと、シャディクはずっと、そう思っていたのか。
「憎まれていると思っていて……、それでも、私を伴ったのですか」
「ああ。そうしないと、フェアじゃないだろう」
 口許をゆるめ、シャディクは優美にほほえんだ。
「ナマエにだって、俺を殺す権利はある」
 その言葉に私は、かつてシャディクが語った言葉を思い出す。「いつ誰に殺されても仕方がない。それだけのことをしてきた」シャディクはたしかに、そう言った。
 シャディクの言う「誰」には、私も含まれていたということだ。シャディクの言う「それだけのこと」とは、私の肌を暴いたあの夜のことも指していた。そしてシャディクが流刑に処されれば、私はシャディクを殺す機会を、永遠に失うことになる。
 今更のように突き付けられた事実に、胸が割れそうなほど激しく痛む。しかし私の覚えた痛苦など知らない顔をして、シャディクは滔々と言葉を紡ぐ。
「俺は覚悟していたよ。きみになら殺されてもいい。きみに殺されるなら、納得して殺されようと。きみがあのプラットフォームに、鞄ひとつ携えて現れたときから」
 あのときのシャディクの、何かを察し、悟ったような笑みが思い起こされた。あれは、そういうことだったのだ。
 あの日ふらりとプラットフォームに現れた私の姿を見て、シャディクはそこに死神を見たのかもしれない。
「だから、もう一度聞こう」
 ナマエ、と。シャディクの声は、どこまでもやわらかかった。やわらかくて、ほどけて、とけて消えてしまいそうなほど、やさしい声だった。
 自分を殺すかもしれない、殺しに来たのかもしれない相手に掛けるには、やさしすぎる声だった。
「きみは俺を憎まないのか? 俺を殺したいと思わないのか? そう思うべきじゃないのか? 俺を、憎いと、殺したいと、──そう思っていなければ、いけないだろう?」
「シャディク、」
「俺は、きみの身体をもてあそんだ男だよ」
 やさしい声で、おだやかなほほえみで、シャディクは私を傷つける。同時に、その言葉はシャディク自身をも傷つける刃になる。
 また刃は繰り返し、シャディクの心を裂き続ける。執拗に、繰り返し。
「許されることじゃなかった。謝って許されるとも思わない。俺はきみの尊厳を、踏み躙るような行為に手を染めたんだ。許してくれとは言わない。だから俺は、きみと一緒にここへ来た。俺のしたことは恥ずべき、憎まれるべき所業だ。きみが俺を殺したいと思うなら、──俺は黙って殺されよう」
「シャディク様は、死にたいのですか……?」
「違うよ」
 ゆるりと、シャディクが首を横に振った。けれどもゆるやかなその動作は、ともすればうなずいているようにも見えた。
「違う。ただ、きみに殺されるのなら納得できるという話だ。それに、ひとつわがままを言うのなら……どうせ殺されるなら、きみに殺してほしい。そう思っているだけさ」
 シャディクはそれきり、口をつぐんだ。私はじっと、その顔を見つめていた。
 わずかに俯けたシャディクの顔には、静謐さが滲んでいる。おそらくは、言いたいことをすべて言いきって満足したのだろう。これ以上語る言葉を持たず、シャディクは言葉を切った。
 あとは、私が応じるだけだ。シャディクが語った言葉に、言葉と態度でもって返事をする。
 私はテーブルの上の、からの皿に視線を落とす。口が半開きになっていたことに気付いて、すっとくちびるを引き結ぶ。そのままゆっくりと、瞼を閉じた。
 絶望的な気分だった。これまで長く信じてきたものが、音を立てて瓦解していくような、そんな気分だった。さながらその瓦解に巻き込まれるがごとく、胸中をさまざまな思いが渦巻いていく。身体の中の隅から隅まで、くまなく突風が吹き荒れる。
 けれど、そこに思考は存在しなかった。
 シャディクの問いに心が動くことはあっても、思考を巡らせ、言葉を選ぶ必要はどこにもなかった。
 答えが決まっている問いには、思考するだけの余地はない。
「いやです」
 短く答えた私の声に、シャディクがぴくりと身じろぎした。しかしまだ、俯けた顔を上げさせるにはいたらない。顎を引いたシャディクの顔を、私はじっくり、とくと見据えた。
 思いを語るのに、思考を要しはしなかった。ただ、心に浮かんだことを告げるだけでよかった。
「私は、あなたを殺さない。絶対に、望まれても、絶対に絶対に、私はあなたを殺しません。憎まないし、恨まない。嫌わない。疎まない、絶対に」
 そこでようやく、シャディクが顔を上げた。そこに浮かんだ訝しげな、途方に暮れたような表情が、私の胸をぎゅうと締め付けた。
 シャディクのこの顔を、私は遠い記憶のなか、おぼろげながらに知っていた。それはまだグラスレーに拾われるより前、寄る辺なく、生きる手段も限られていた子どもの頃に、ときおりシャディクが浮かべていたのと、同じ表情だった。
「どうして?」
 シャディクが問う。私は、ひと呼吸入れてから、静かに答えた。
「あなたのことが、世界でいちばん大切だから」
 あなたを赦さない私なんて、そんなものの存在を、けして赦せないほどに。
 シャディクのことが、何より、誰より、世界でいちばん大切だった。
「赦します。シャディク様がご自身を責めていたとしても、赦せないとしても。私は、あなたを赦します。何度でも」

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