うつくしくないかたちでもよかった


 シャディクとの付き合いは、もうずいぶん長い。そう思っていたけれど、よくよく思い返してみれば、実際に一緒に過ごした時間の長さは、これまでの人生の長さに対し、実はそれほど長くないことに気付く。
 グラスレーに引き取られるより前の記憶は、いまひとつはっきりしない部分が多い。引き取られて以降はアカデミーでの教育を受けるなかで、しだいに疎遠になっていった。アカデミーでの生活は、シャディクと「一緒にいた」とは到底表現できないものだ。
 主人と使用人という間柄でならば、いっとき同じ邸で暮らしていたこともあった。が、私はシャディクの世話係としてつとめていたわけではなく、あくまで邸づきの使用人だったから、私たちの生活はすれ違い、接点もほとんど持たなかった。
 シャディクがアスティカシアへと進学してからは、そのわずかな接点すらも、すべて絶えた。シャディクと私は、滅多に顔を合わせなくなった。
 あのときはそれでいいと思っていた。シャディクがそれを──離別を望んでいるのなら、私はそうすべきだ。私の人生は、シャディクのためにある。シャディクにいらないと言われれば、それは受け容れなければならない。
 シャディクがそう望むのなら、私はシャディクの人生から、そっと消え去るべきだ──あのころ、私はなかば本気でそう信じていた。
 それなのに、私のその思い込みを、あのたった一夜の出来事が捻じ曲げた。
 文字通り、すべてがひっくり返り、台無しになったのだ。私の形ばかりの覚悟も、思考を伴わない盲信も、何もかも。それらすべてが全部、きれいにひっくり返ってしまった。
 それきり、シャディクとは顔を合わせないまま日々は過ぎた。やがてシャディクはあの事件を起こし、収監された。
 四年の歳月を経て、今はこうして、私はまたシャディクとともに生活を送っている。少なくとも、昨日まではそうだった。
 これまでのすれ違いや諍いなど、すべて、何もなかったかのような顔をして。あたかも、ひっくり返り、台無しになる前に巻き戻しをしたように。そうして私たちは過ごしてきた。
 けれど、これからはもう、そういうわけにはいかないのだろう。見えないようにと蓋をしてきたものに、手を掛けたのはシャディクだ。薄氷のような平穏、かりそめの安寧にひびを入れたのはシャディク自身。
 それなのに。だというのに。
 どういうわけだか当の本人は、何でもないような顔をして、今朝もいつも通りに朝食の席に座っている。

「やあ、おはよう。ナマエ」
「…………」
 今朝、いつもと同じ時刻に起き出してきたシャディクは、開口一番いつもと変わらない挨拶を口にした。昨夜の夕食は一緒に摂らなかったので、顔を合わせるのは昨日、種蒔きのあとに不格好な口論をして以来だ。もっとも、思い返せば昨日のあれは、私が一方的に感情を昂らせていたにすぎない。口論とも呼べない、愚にもつかない行いだったと、遅まきながらに反省している。
「…………」
 しかし、いくら私が反省しているからといったって、シャディクの昨日の言動に対し、まったく思うところ、屈託がないということはないわけで。
「…………」
 思わず、私は押し黙った。
 というか、こちらが一方的に気まずくなっているのに、普通の顔をして接してくるのはどういうことなのだろう。昨日のことはすべて水に流すという、シャディクなりの無言の表明だろうか。それならそれで、むっとするのだが。
 むろん一使用人である私が、シャディクに腹を立ててどうするということはない。だからここは私もぐっと不平不満をのみこんで、あくまでビジネスライクに接するのが正しいのだろう──分かっている。そう、頭では分かっているのだ。
 だが、分かっていることと実践できることは違う。
「ナマエ、眉間にしわが寄っているよ」
「……寄っていません」
「いや、寄ってる。なんだったら鏡を持ってこようか?」
「結構です」
 さわやかな笑顔で朝食のパンを口に運びながら、シャディクは面白がるように絡んでくる。私はそれに取り合わず、もくもくとパンを口に運んだ。
 相手がシャディクでなければ無視するところだが、さすがに主人相手にそういうわけにはいかない。日頃、主従関係をきっちり敷いている自分の態度が、こんなところで裏目に出る。
 眉間にしわなど寄っていない。そう断言したものの、自分でも眉間がこわばっているという自覚があった。これ以上シャディクにからかわれないよう、意識して眉根を開く。そうして、パンをもう一口、大きめにかじる。
 すると、すかさずシャディクが言う。
「あ、次はあごに力が入ってる」
「だから、……入っておりません」
「入ってるよ、本当に」
 ほら、と指さされ、私はついついあごに手をやった。
 ……たしかにシャディクの言うとおり、あごに力が入り、しわが寄っていた。
「入って、いません」
「そう言ってるあいだに、また眉間に皺が戻ってる」
 もはや確認する気も起きず、私はむすりとシャディクから視線をそらした。味気ないパンをもそもそと咀嚼しながら、一体どうして私はこんなことで腹を立てているのだろうと、どこかで脱力したような気分になってくる。
 本当は、もっと深刻な話題が、朝食のテーブルの上を占めるのかと思っていた。こんなどうしようもないような話題ではなく。実際、今朝の私はその覚悟をしてから起床した。覚悟を決めて、朝食のテーブルについた。
 それなのに、私は一体どうして、シャディクに一方的にからかわれ続けているのか。それも仏頂面をからかわれるという、まったく不本意な理由で。
 シャディクは一体どういうつもりなのか。この期に及んですべてなかったことにを繰り返すのは、さすがにもう不可能なはずなのに、それでもなおシャディクは繰り返そうというのだろうか。
 シャディクが何を考えているのか、まったく理解できなかった。その不可解さに苛立ちを覚える。それと同時に、怒っているのがばからしくもなってくる。
 相反するふたつの感情が、胸のうちでせめぎあう。だが昨日のように突発的な怒りをあおられることはなく、そのことにだけは心底ほっとした。が、安堵したところで小さな苛立ちが消えるわけではない。何時の間にか落ちていた視線を持ち上げて、私はシャディクを見た。
 見て──唖然とした。私がこんなにも色々なことを考え、悶々としたり苛立ちをためているさなかだというのに、シャディクはなぜか、肩を揺らして笑っていた。
「……何を笑っていらっしゃるんですか、シャディク様」
「いや、すまない。だけど……ははは」
 一応、私にばれないよう声を殺していたらしい。私がむっつりと尋ねると、その努力も放棄して、シャディクは声をたてて笑い始めた。その笑顔に、私は思わず言葉をなくす。
 シャディクのここまで開けっぴろげな笑顔を見るのは、一体いつ以来だろうか。目の前に不意打ちであらわれた笑顔に、どうしていいのか一瞬分からなくなる。
 その困惑が顔に出ていただろう。シャディクは私と視線を合わせると、咳払いをしてどうにか笑いをおさえこんだ。指先についたパンくずを皿に落とし、それからシャディクは、はあ、と溜息にも似た息を吐きながらまなじりをそっと指先でぬぐう仕草をした。そして、
「ナマエの怒っているときのそんな顔、久し振りに見たものだから」
 楽しそうに、面白がるように──嬉しそうに、そう言った。
「怒っている顔だけじゃない。ナマエがそんなふうに感情をおもてに出しているところ自体、見るのはずいぶん久し振りのような気がするよ」
 こちらこそ、シャディクのそんな笑顔を見たのは久し振りのことだった。それなのに、シャディクは自分のことは棚に上げて、私の表情の話ばかりするのだ。そのことがやけに気恥ずかしく、私はふいと視線をそらした。
「……もう見せません。シャディク様に笑顔を提供できたことはさいわいですが、私だって別に、笑われたいわけではございませんので」
「ごめんごめん。そうむくれないで」
「むくれていません」
 まるで大人とこどもの遣り取りだ。そのことを苦々しく思いながら、けれどもやはり、この会話を喜ばしいものだと感じてしまう自分がいる。
 シャディクとここで生活をともにし始めてしばらく経つが、私とシャディクのあいだには常に、見えない線が、どちらからともなくきっちり引かれていた。
 昔のようには振る舞えない。けれど私たちのあいだに起きたすべての経験を、私たちの今の関係に反映するには、圧倒的に対話が足りていない。
 そんないびつさの結果が、これまでの数か月だった。その線引きの代償として、私たちは互いに相手の内側に深く踏み込むようなことはできなくなっていたし、昔のように感情を開けっぴろげにすることもかなわなくなっていた。ふたりともが無言のうちにそう望み、そう在った。
 それを今、シャディクが打ち崩した。
 昔のように笑って、昔のように私を見つめている。
 ふいに、胸が大きくざわつき始めた。どくどくと鼓動が騒ぎ、落ち着かない気分になる。
 開けっぴろげで、からりとしたシャディクの笑顔。ずっと見たいと思っていた、もしかするともう二度と見られることはないかもしれないと思っていた、シャディクの表情。単に毒気が抜けて柔和になったというだけではない、シャディク本来の強いまばゆさを少しも損なうことのない、完全な笑顔。
 喜ばしいことのはずだ。ずっと望んでいたものを、眼前に差しだされているのだから。
 それなのに、どう振り払おうとしても疑念がわきあがる。
 これははたして、今ここで見るべき表情なのだろうか?
 昨日、あんなことがあったのに?
 ざわついた胸が、大きくどくんと脈打った。先ほどまでの喜びが、嘘のようにしぼんでいった。まるで最悪の展開を引き当てる直前のような、そんな胸騒ぎが私を襲う。
 いやだ、こんな胸騒ぎは杞憂であってほしい。こんなものは、私のいつもの考えすぎであるべきだ。
 けれど、これまで積み重ねてきたいびつな日々が、そんな希望を容易くねじ伏せる。
 はたして、シャディクは言った。
「いいんだよ、俺はむしろ、ナマエにはもっと自然体でいてほしいくらいだ。今更俺の前で取り繕ったり、むりに感情をおさえる必要はない。ここには顔色をうかがわなくてはいけない、そんな相手なんていないんだから」
 悲しみも、苦しみも、何ひとつ感じていないような声で。さながら、明日の天気の話でもするように。
「俺のことが憎いなら、その憎しみだって隠す必要はないんだ」
 シャディクは、言った。
「きみは俺を憎んでいる。そうだろう?」
 締まったのどを、空気が無理に通るか細い音が、耳についた気がした。
 ──咄嗟に、言葉が出なかった。
 図星だったから、ではない。事実を言い当てられ、狼狽したからではなかった。まさか、そんなはずはない。
 私が絶句したのは、その反対の理由からだ。それは、それだけは、何があろうと絶対にありえないことだったから。だから、私は言葉をなくした。
 ありえないことだということを、シャディクも分かってくれていると、そう思っていた。それなのに、
「ど……、どうして」
 発した言葉の語尾が震えている。遅れて、全身にも震えがじわりと広がった。
 今はもう、困惑など感じていなかった。私の胸をしめていたもの、それは恐怖だ。
 怖かった。ただ、怖かった。
 意味が分からないことを急に言われた。シャディクの言葉の意味を理解できない。それなのに、シャディクは当たり前のことを口にするみたいに、やさしい声で説き伏せるように私に言う。そのことが、ただひたすらに怖かった。
「どうして、どうしてそんなことを仰るのですか」
 震える声を、必死に絞り出す。シャディクから視線を外すこともできない。私はただ茫然と、言葉をなくしてシャディクを見つめていた。
「どうしても何も。憎まない方がおかしいだろ?」
 俺はきみの人生をめちゃくちゃにしたじゃないか。
 そう続けるシャディクは、本当に心底不思議そうにしている。その顔を見て、ようやく私は悟った──諦めて、目の前の事実を受け容れるしかないことを。
 シャディクは、私がシャディクのことを憎んでいるのだと、本心から信じているのだ。それが一体いつからなのかも、私には分からない。そんなこと、私は思いもしなかった。けれどどうやら、これはたしかなことらしい。
 私がシャディクを憎んでいる。
 シャディクのなかでは、それはごく当たり前に受け容れられている『真実』のようだった。

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