方舟を降りたら


 シャディクが起こした一連の事件のさい、その余波をまったくかぶらずに済んだことから、私はシャディクがかつて私を遠ざけたことの、真の意図を知った。遠ざけられたのは、嫌われ疎まれていたからではなかった。そのことを、今の私はちゃんと分かっている。
 それでもときどきはやはり、シャディクが私に愛想をつかしたから距離をとったのではないかと、愚にもつかないことを考えてしまう。まるで染みついた強迫観念だ。恩を感じこそすれ、疑念を抱くことなどあってはならない。それなのに、私は考えることをやめられない。
 距離を置いたのは、疎ましかったから。完全には見捨てることができなかったのは、長年の縁というものがシャディクの心のなかに一応多少はあったから。
 邸に留め置いたのは、自分の弱味を守るため。そのあと顧みなかったのは、単に興味を失ったから──そんな悪夢のような想像で心を冷やしたのは、これまで一度や二度のことではない。
 それを思えば、遠ざけられていた期間もシャディクが私のことを考えていてくれたなんて、夢のように幸福なことではないか。麻薬のようなその感覚をどうにか胸のうちに押し込めて、私は尋ねる。
「シャディク様の想像のなかでは、アスティカシアでの私は、どのように過ごしていたのですか?」
「うーん、そうだな。さすがにナマエにパイロット科は無理だろうなとは思った。だがメカニック科という感じでもないな。経営戦略科でそこそこの成績で、そこそこに頑張ってるというくらいが妥当かな」
「そこそこに……」
「ははは。だってナマエ、勉強嫌いではないだろ?」
「……苦手ではありますが」
「正直者だな」
 嫌いではないが、得意でもない。メイドの仕事のように生活に直結する知識には面白みを感じるが、そうではない機械理論や経済の話、政治の話には、あまり面白みを感じない。そう答えると、シャディクに「視座が低いんだな」とまた笑われた。
「そのぶん、俺がおろそかにしがちな『個人』みたいなものを、きっとナマエは大切にしているということなんだろう」
 そう言うと、シャディクはそばの地面に置いてあった、種子の入った袋の最後のひとつを拾い上げた。
「さてと、種はこれで終わりかな」
「はい、それで最後です」
 三袋あった種をすべて蒔き終える。最後にじょうろで汲んできた水をふりかけると、それで種蒔きは終わりだった。しばし言葉もなく、シャディクと私はじっと濡れた地面を見下ろしていた。
「無事に芽が出るといいね」
 昨日の私と同じことを、シャディクもやはり、ぼそりと呟く。その言葉に、ああ、と声をもらしそうになった。
 こうして種を蒔いても、育たなかったときのことばかり想像してしまう。それはもしかすると、私とシャディクの根っこにあるものが、同じ質を持つものだからだろうか。そんな思いが、ふと胸をよぎる。
 悲観的になりそうな空気を払うため、私はなかば空元気に答えた。
「もしもちゃんと育たなかったら、タヴァさんが上の人間に報告書を上げてくれるそうですよ」
「あの監視兵の彼が?」
「種を送りつけてくるくらいだから、ちゃんと育つようにそれなりに手は貸してくれるんじゃないか、って」
 シャディクがふうん、と、低く唸る。すぐそばに立つシャディクを見上げれば、そこには変わらずおだやかな笑顔がある。
「彼は善良な人間なんだな」
 そういえば、前にもシャディクはそんなことを言っていた。善良、と。シャディクはタヴァをそう評する。
 たしかにタヴァは善良な人間なのだろう。私もそこに異論はないし、タヴァのことをひとことで表現しろと言われたら、私もやはり『善良』の二文字を選ぶと思う。
 しかし人間の一面だけを切り出して、ひとことで簡単に表現し続けることは、なんだかシャディクらしからぬことのようにも感じた。善良以外にも、タヴァをあらわす言葉はいろいろあるはずだ。けれどシャディクのこだわりようは、あたかもタヴァを『善良』の枠のなかに押し込めているように思える。
 もちろん、すべては私の考えすぎということもあり得る。そもそもタヴァのことを多く語れるほど、シャディクはタヴァとの接点を持たない。シャディクは私ほど、タヴァのことを知らない──言ってみれば、それだけのことかもしれない。
 訝しく思っていた私に、シャディクは困ったように眉を下げる。そして、
「ナマエも俺とばかりいても退屈だろう。ときどきは、彼と一緒に食事をしたり、出掛けてきてもいいんだよ」
 脈絡なく、そう言った。
「ですが、シャディク様はタヴァさんと接触するのをお控えになっていたのでは……?」
「俺はそうだけど、きみひとりなら少しくらい親しくしても問題ないさ」
「私がひとりで? どうしてです?」
「彼なら頼り甲斐もある。俺と違って、きみを守ることができるだけの力もあるだろう」
 わざとなのか、問いと答えがずれていた。そのせいで、告げられた言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。理解しても、納得することを頭が拒んだ。
 なぜならそれは、私がもっとも忌避すべき行為を、シャディクみずから示唆するものだったから。
「それは……私に、タヴァさんと……」
「無理にとは言わない。だが今後そういう機会があったら、俺のことは気にしなくていいということだよ」
「そんなことは、この先もずっとありえません」
 反射的に、強く断定した物言いをしてしまった。感情にかっと火をかけられたように、胸のなかで炎が弾けたのが分かる。けれどそれを御するよりさきに、感情的な言葉が口をついて出た。
「タヴァさんはたしかにいい人ですが、でも、……馴れ合うような相手ではありません」
「それは俺については、の話だ。きみは違う。ナマエは監視対象には入っていないはずだ」
「私はシャディク様のお世話係です。ですから、いつでもシャディク様の側の人間に違いありません」
「そんなところで意固地になる必要はないよ」
 まるで物わかりの悪い子どもを諭すような物言い。けれどその静かな言葉たちは、少しも私の心を冷ます役に立たなかった。
 堂々巡りの言葉を掛けられれば掛けられるほど、胸中をあぶる熱はしだいに高まっていく。どきどきと、心臓が嫌な高鳴り方をする。こんなふうに、自分でうまく手綱を握れなくなるくらい感情が大きく揺れ動くのは、本当に久し振りのことだった。
 シャディクの笑みは、静かでおだやかだ。静謐さを塗り込めたような表情からは、何の感情も汲み取ることはできない。
 それはあたかも、私からの理解も干渉も、すべてを拒もうとするかのようだった。
「過去は過去、未来は未来だ」
 こうして話すシャディクの声に、彼特有の深みはない。だからこれが、今シャディクが語っている言葉が、たとえどれほど雄弁であったとしても、けして本心でないことを、私はどこかで察している。
 けれど身に染みついた使用人としてのさがなのか、シャディクが声に出した言葉はすべて、するりと私のなかに入り込んでしまう。シャディクの言葉を無下にすることを、使用人としての私がよしとしない。
 シャディクの言葉は続く。
「俺はたしかにきみを昔から知っている。それこそ、嫌というほど。しかし、だからといってそれがきみの未来の可能性を摘む理由にはならない。同じあやまちを、俺はもう繰り返さないと決めたんだ」
 あやまち、とシャディクが発した瞬間、私の喉がひゅっと音を立てて鳴った。知らず握ったこぶしが震える。シャディクの瞳と視線が絡み、その瞳に感情の揺れひとつ浮かんでいないことを目の当たりにする。
「いや、そもそもあの頃だって、俺にそんな権利はなかった」
「何を、おっしゃっているのですか」
 そんなこと、本当は問うまでもなく分かっていた。シャディクも私も、互いにこれまであの晩起きたことを話題にしたことはない。何も知らないふりをしていたし、何も覚えていないふりをしていた。
 逆に言えば、あの晩のことをほんのわずかでも引き合いに出せば、すべて引き摺りださなければならなくなる。そのことを、シャディクも私も分かっていた。
 何もかもを話すより、何もかもなかったことにした方が都合がいい。そうやって、私たちはここまでやってきたのではなかったか。
 今になって、その話を蒸し返すのか。
 燃え盛っていた胸のなかの熱は、事ここに至って、急速に冷え固まりはじめていた。私は大きく息を吸い、そして吐く。そうしないと、またぞろ落ち着きかけた熱がぶり返し、女中としてあるまじき言葉を口にしてしまいそうだった。
「……シャディク様が何をおっしゃりたいのか、理解しかねます」
「それは分からないふりをしているだけだ」
「違います。本当に何ひとつ心当たりがないので、分かりかねると申しております」
 根気強く、私は言う。
「ナマエ、俺はこれ以上、きみの人生を縛る気はない」
 シャディクもまた、繰り返す。
「なにを今更こんなことをと、きみはきっと思うだろうね。だが、これが今の俺の本心だ。このまま俺のそばにいたところで、ナマエ、きみが幸せになる日は永遠に来ない。この数か月一緒に過ごしてみて、俺はよく分かった」
 いやだ、と咄嗟に思う。けれど耳は塞げない。
 ナマエ、と、シャディクがやさしく、私の名を呼ぶ。シャディクが名付けたこの名前を、まるでその手からゆっくりと、広い世界に向け手放そうとするように。
「だからナマエ」
 いやだ。
「きみはあの善良な監視兵の彼と、」
「──やめてください」
 考えるより、思うより先に、言葉が口からこぼれていた。
 一瞬、涙がまなじりからこぼれたのかと思ったが、涙は少しも出ていなかった。こぼれたのは、ただ、言葉。そして、心だけだ。
「シャディク様にだけは、そんなこと言われたくありません」
「……そうだろうね、すまない。俺がいろいろと性急すぎたようだ」
 無礼だと私を咎めることもせず、シャディクは困ったように微笑むだけだった。その笑みが、私をきびしく突き放す。
 シャディクは手で服についた土を払い、その場で大きく伸びをした。地面に振りかけた水は今はもうすっかり土に吸収されてしまい、ぱっと見には水をかけたことも分からない。
「風が出てきたな。戻ろう、もう蒔く種はない」
 そう言って歩き始めたシャディクの後を、数歩遅れて私はのろのろ追いかけた。

 *

 屋敷に入り、それぞれの私室に戻った。ドアを閉め、しばらくそのまま立ち尽くす。
 しばし経ってからようやく、私はタヴァに結婚を考えている恋人がいることを説明し忘れたことに気が付いた。タヴァに思い人がいることを知れば、シャディクもあんな馬鹿げたことを言い出しはしなかったのではないか。
 けれど同時に、それだけで片付けられる話ではなくなってしまったことも、私はちゃんと察している。タヴァのことは、きっとただの切っ掛けに過ぎなかった。というより、相手がタヴァじゃなくたって、きっとシャディクにとっては同じことだった。
 シャディクは、私を人生から消し去りたがっている。私に別の道を歩ませて、シャディクの人生から追い出そうとしている。私のため、というのは、あくまでも自分を騙すための方便なのだろう。かりにシャディクの言うとおりにしたところで、それが私の幸せにはつながらないことを、きっとシャディクは知っている。
 私が好きなのは、シャディクだけ。私が生きているのは、ただシャディクのため。それ以外の人生など存在しないし、そんなものを私は一度も求めたことがない。
 けれど、シャディクにとってはそうではない。シャディクにとっての私は、永遠に過去を思い出させる象徴であり、失敗した計画の残り滓であり、あやまちを思いださせ罪悪感をあおる幼馴染であり──そして、手に入らなかった人間を彷彿とさせる性でしかない。
 覚悟はしていた。そういうこともあるかもしれない、そう思われていることも受け入れないといけないかもしれない。私の気持ちは、しょせんひとりよがりなものだ。だからずっと、覚悟だけは一人前にしてきたつもりだった。
 けれどこれは、
「思っていた以上に、堪える……」
 息を吐き出し、私は閉じたドアに背と頭をもたれかけた。
 そばにいられなくても、シャディクに思っていてもらえたのかもしれない──そんな幸福を、あわい幻想を噛み締めたあとだったからこそ、余計に堪えた。そばにいること、たったそれだけのことを拒まれることがこんなに苦しいことだなんて、私はこれまで知りもしなかった。

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