今も昔もまぼろし


 *
 *
 *

 無機質な箱のような建物の二階から、私は窓の外を見下ろしていた。こどもが何人も生活しているとは思えないほど、施設内はどこもかしこも静まり返っている。存在感を示すことは重要でも、悪目立ちしてはいけないということは、ここでは誰もが当然のように知っている。
 これは夢だ。過ぎ去った日を追想する夢。窓の外、眼下に見える光景は、過去の私がたしかに見つめたもの。
 肩の高さより少しだけ伸ばした髪をおろしたシャディクが、取り巻き何人かを引きつれて、どこかへ歩いていくのが見えた。夢の中ですら、胸がほんのりと感情を帯びる。シャディクをひと目見られた幸せと、声を掛けられない切なさと、それでもシャディクと私のあいだには、けして切れない絆がある。そんな、薄暗い優越感。
 しばらくシャディクを視線で追っていると、シャディクがほんのかすかに顔の向きを変えた。一瞬、こちらを向くのではないかと胸がざわめく。
 しかしシャディクは、こちらを見上げることなく、すぐに顔の向きをもとに戻した。遅れて私は、シャディクが視線を向けた先を見る。上階からでは、シャディクが何に目を留めたのか、正確なことまではっきりとは分からない。
 シャディクが、多分視線を向けた先──そこには細く頼りなさげな花が、あるかなきかという風に、ゆらゆら大袈裟に揺られていた。

 *

 午前の仕事を終えてソファーに腰をおろすと、どっと眠気におそわれた。うたた寝してしまうほどではなかったが、眠気に誘われるまままぶたを閉じると、すぐに意識がふわふわと輪郭をぼやけさせ始める。
 窓の外は気持ちがいいくらいの晴天。このフロントの気候の基準となっている暦に照らせば、なんともみごとな秋晴れだ。窓辺にロッキングチェアでも出せば、気持ちよくまどろめること請け合いだが、ここにはそんな上等なものはない。もしかすると探せばあるのだろうか。さすがに自作するのは難しそうだが。
 目を瞑ったまま、そんなことをつらつら取り留めもなく考える。そうしてぼんやりしていたものだから、廊下の床板を軋ませる足音が近づいてきたことに、私はなかなか気付かなかった。
「ナマエ?」
 おだやかな声とともに、シャディクが部屋に入ってくる気配がする。そのとき私はどうしてか──本当にまったくどうしてか、ソファーに身をあずけたままの格好で、寝ているふりを続行してしまった。
 いや、どうして。内心で自分の行動の不可解さに困惑する。ここで休憩していたからといって、シャディクが私を咎めることはありえないはずだ。ただ普通に、ここにいたのかと言われるだけだろう。それなのにどうして、私は不必要な寝たふりなどしているのだろう。
 自分で自分の行動の意味が分からず、混乱しきりの私の胸中などしるよしもなく、シャディクは「あれ、寝てる」と気持ち声をひそめて呟いた。しかし、それでそっとしておいてくれるというわけでもなく、シャディクはゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 目をつむっているので、すべて気配で察するしかない。シャディクはのんびりとした歩調で近寄ってくると、そのまま私の隣に静かに腰かけた。
「……」
「……」
 顔をのぞきこまれている気配がする。こうなると、いよいよ目を開きにくく、私はじっと息を殺した。
 一緒に暮らし始めてしばらく経つし、それ以前からシャディクとの付き合いは長い。けれどこうしてじっくりと顔を眺められては、困惑を通りこして狼狽してしまう。そもそも相手がシャディクでなくたって、こんなふうにじろじろ寝顔を眺められるのは困る。私の顔など、見ていて楽しいものでもなかろうに。
 それとも、私の顔に何かついているだろうか。洗顔も身づくろいの化粧も、いつもどおりきちんとしているはずなのだが……。
 あいかわらず寝たふりをしたまま、見えない冷や汗をだらだらかく。すると、
「ナマエ、そんなところで寝たふりしていると風邪を引くよ」
 ふと隣から、くすくすと笑いを含んだ声を掛けられた。ゆっくりと瞼を開くと、シャディクが背もたれに肩肘をついた格好で、半身の構えで座ったまま、私の顔を楽しそうに覗きこんでいた。
 まるでいたずらを面白がる子どものような瞳だ。私は顔が赤らむのを感じながら、ばつの悪さに目をそらす。
「……気付いていらっしゃいましたか」
「俺は昔から、きみが狸寝入りしているときには分かるんだ」
 気付いていながら黙っていたというのであれば、シャディクもなかなか趣味が悪い。だがそれを言えば「狸寝入りを決め込んでいたきみが言う?」と返されるのは分かり切っていた。反論せず、私はそっと嘆息した。
 冷静になって見てみると、隣同士に座っている距離が必要以上に近く感じられる。だからといって急に距離をとろうとするのも、それはそれで礼を欠いたふるまいだ。
 シャディクがソファーを使用しているとき、私は隣同士並んでしまわないよう気を付けている。しかし今、こうして後から来たシャディクに気を遣って場所を移動するというのは、さすがに何だか感じが悪いような気がする。少し迷ったすえ、私はシャディクの隣に座ったまま話を続けることにした。
 身体の正面がシャディクに向かないよう、微妙に視線をそらしたままで私は問う。
「体調のお加減はいかがですか?」
「ああ、うん。もうすっかり良くなったよ。気をつかわせてすまなかった」
 昨日は頭痛がするといって早くに休んだシャディクだが、見たところ今日は調子がよさそうだった。朝食もいつもどおり食べていたから、やせ我慢というわけではないのだろう。
「私はシャディク様のお世話をするため、ここにいるのですから。シャディク様の方こそ、私相手にお気遣いは無用です」
「そう言われてもな」
 この手のやりとりも、もはや何度目かというほど繰り返している。シャディクはもの言いたげにしたものの、それ以上は平行線だと思ったのか、ゆるい微笑みだけで遣り取りを打ち切った。
 壁掛け時計が、ぼぉんと低く正午を告げる。食事の時間を厳密に決めているわけではなかったが、どちらからともなく腰を上げた。
「ナマエ、昼食を摂ったら種を蒔きにいこうか」
 動作のなかで、ちらとシャディクの表情を盗み見る。昨日とは打って変わって穏やかなシャディクを前に、私は何を言っていいのか分からなくなる。
 昨日のシャディクは少し体調が悪かった、本当に、ただそれだけなのだろうか。それならば、あのときシャディクの瞳に滲んでいた感情の正体は、一体なんだったのだろう。
 シャディクの考えにまで私が思いをはせる必要はない。私はシャディクの言うことに諾諾と従っていればいい──そう思っていたはずだ。それなのに今、私はシャディクの真意を知りたくて、こんなにも落ち着かない気分になっている。
 シャディクは変わった。けれど、昔と違うのは私も同じだ。
 胸に感じたざわつきの正体を突き止められないまま、私はもどかしい気分を抱え、シャディクの後を追って厨房へと向かった。

 *

 昼食の片付けを終えたあと、私とシャディクは中庭の花壇へと向かった。秋の気候とはいえ、動き回ればしっとりと汗ばむ程度の気温はある。
「昨日はもう少し涼しかったんですが……今日は少し、暑いですね」
「ささっと済ませてなかに戻ろう。あんまり暑いところにずっといて、ナマエが寝込んでも困る」
「私はそこまでひ弱ではないですよ」
「そうかな」
 私は少しだけむっとして、シャディクを見上げた。立場上、主人を睨むわけにはいかないので、せいぜいもの言いたげな視線を向けておく。
 そのシャディクはといえば、楽しそうに笑う表情に不調の色を微塵も見せず、どこからどう見ても健康そのものだ。
 ここにやってきたばかりの頃は、すっかり体力が落ちていたシャディクだが、数か月も経てば落ちた体力も戻っている。運動をしている姿を見ることはないが、細くなっていた身体の線もゆっくりと元の厚みを取り戻した。しかし、だからといって弛んでいるふうではない。私が知らないだけで、何か鍛えるための運動をしているのかもしれない。
 頭のてっぺんが、じりじりと光源に照らされているのを感じる。昨日タヴァに手伝ってもらって改良した土の前にしゃがみこみ、私は持参した袋から手のひらに、種をぱらぱらと取り出した。
「ええと、種は適度に間隔をあけて蒔くこと、上から土はかぶせなくていいそうです」
「気を付けることはそれだけ?」
「みたいですね」
 シャディクに手を差し出すと、彼はそこから半分ほど、種を持っていった。持参した種の袋は三種類あるから、なんとなくで場所を区切って、ぱらぱらと土に蒔いていく。
 シャディクの指からはなれた粒は、土に落ちてすぐによく見えなくなった。無造作な仕草にも見えるが、シャディクの指先の動きは繊細で、まるで測ったような等間隔で種を土に落としていく。
「そういえば」
 ふとシャディクが口を開く。
「切り花をひとに贈ることはあっても、地面に咲いた花に気を配るのは、久し振りのことかもしれない」
「久し振りというと」
「学生をやっていた頃も、あまりそういうことはなかったな」
 収監されていた期間のことを話しているのかと思ったが、そういうわけではないようだった。私は頭のなかに、画像のイメージでのみ知っているアスティカシアの景色を思い浮かべる。
「アスティカシアは、緑あふれるフロントというイメージでしたが」
「ああ。でも、ごく自然にあったからこそ、取り立てて気にしなかったというのもある。あそこの植生も、あれはあれでデザインされたすえのものだったのだろうから、基本的には人間がそれほど手を掛ける必要もなかったし」
 手間をかけずに見栄えがいいよう、植物の遺伝子操作をするという話は、どこでもわりと聞く話だ。学園の景観を保つための自然であれば、そういったデザインになるのもまた自然なことだろう。
「というかナマエ、アスティカシアの内部のイメージを見たことがあったんだね」
 シャディクに言われ、気が付いた。アカデミーでも推薦進学とは無縁の成績だった私が、どうしてアスティカシアの内部についておぼろげながら知っているのかと、シャディクは疑問に思っているのかもしれない。
「あ、ええと……」
 するりと白状すればいいのに、何故だか妙にどもってしまった。シャディクが不思議そうな顔で、私の顔を覗き込む。
「ナマエ?」
「……お邸に、学園のパンフレットがございましたので」
「なるほど、その画像を見たのか」
 それで、とシャディクは納得したようにうなずいた。
 今時珍しい紙製のパンフレットだったから、今でもはっきりと記憶に残っている。通常、使用人である私たちは、主人の所用物をしげしげ眺めたりはしない。タブレットが開きっぱなしになっていても見て見ぬふりするし、さわらないことを原則としている。
 しかしそのパンフレットはどういうわけか、使用人たちが休憩するのに使う、厨房の奥のちょっとした休憩スペースに、無造作に放置されていたのだった。誰がそこに持ち込んだものかは分からない。ゼネリ邸にはベネリットグループにゆかりある親族がいる使用人もいたから、そのうちの誰かが置いていったものかもしれない。
 いずれにせよ、そこは主人一家が滅多に立ち寄る場所ではなかったから、それが主人の持ち物だとは誰も考えなかった。「来年から坊ちゃんはここに通うらしい」と、休憩のときにほかの使用人とぱらぱら眺めては、その制服に身を包むシャディクの姿を想像したものだ。
「通ってみたかった?」
「え?」
 投げかけられた質問は思ってもみなかったもので、私はわずかに面食らう。シャディクは静かに微笑み、私を見つめてる。
「ナマエもアスティカシアに通ってみたかったのかなと思って」
「い、いえ、そんなことは……」
 咄嗟に否定して、けれどそれが口だけの返事ではないことに、自分で少し驚いた。
 たしかに、アスティカシアでの学園生活に対しては、憧れのような感情を持っている。シャディクにせよミオリネさんにせよ、優秀な生徒ばかりが集められて最新鋭の技術を学べる学園生活。さぞかし学び甲斐があることだろう。
 しかし考えてみれば、自分がそこに通いたいかと言われると、そういうわけでもない。そもそも私は、それほど向学心に満ちた人間ではないのだ。
「私は推薦を受けられるほど、優秀な生徒ではありませんでしたから」
 教育はアカデミーで受けた水準のもので十分だった。そのアカデミーのプログラムすら、私は最後まで修了していない。
 シャディクだって私の劣等生ぶりは知っているだろう。しかし彼は、なおも穏やかにこう続ける。
「そうか。だが、俺はときどき考えたよ。ナマエがもしアスティカシアに通っていたら、どうなっていただろう、って」
 今度こそ、私は咄嗟に返す言葉をなくした。
 もしも私がアスティカシアに──シャディクと一緒に、アスティカシア学園に通っていたら。それは無意味で取り留めもなく、そして夢のように甘美な想像であるように、私には思えた。
 私がシャディクの学生生活を想像していたのと同じように、シャディクもまた、私がアスティカシアに通っていたらと、考えてくれていたのだ。そう思うと嬉しいよりも先に、切なく胸が痺れるような感覚に襲われた。
 そして、少し遅れて気が付いた。シャディクが私を遠ざけていた期間にも、シャディクのなかに『私』はいたのかもしれない──そのことに。

prev  index  next

- ナノ -