前日譚/不退転神話 T


 私の持つ最初の記憶に、寒さと不潔さ、そして飢えは纏わりついていない。それは私がこれまでの人生で得たふたつの奇跡のうちの、間違いなくそのひとつに数えられる奇跡であり幸運だ──そう言って笑ったのは、記憶のなかでまだ幼い顔だちをしている、シャディクだった。
 私たちが生まれ育った場所は、救貧院と呼ぶにもおそまつな、掃き溜めのような場所だったらしい。地球のような戦禍にのまれた場所では、弱者がいたるところに存在する。そんななかで私たちが救貧院に収容されていたのは、そこがたまたま、世論の支持を求めて形だけの被災者支援をおこなっていた、ベネリットグループの介入地域だったからだ。
 救貧院は弱者を救うという名目で、求められるべき健全な社会から彼らを隔離する。強者の理論で動くほとんどのスペーシアンにとって、そこで暮らす人類は、ましてアーシアンなど、ゴミくずでしかない。
 通常、いちど掃き溜めに放り込まれた人間は、掃き溜め以外を知ることもなく生涯を終える。まれに外の世界に出たとして、まっとうに生きられるものはほとんど皆無だ。だから掃き溜めで育った私とシャディクが、グラスレーの孤児院に拾われ移ることができたのが、私の、私たちの人生における、ふたつめの奇跡だった。
 シャディクは孤児院に移る前のことも、かなりはっきりと覚えているらしい。しかし生憎と、私は当時の記憶をぼんやりとしか持たない。シャディクだけが、冷たくひもじい幼少の記憶を有している。
 シャディクはまた、私がどれほどせがみ、昔のことを知りたがろうとも、救貧院時代の話はけしてしなかった。時に微笑み、時に嫌がり、彼は私の追求を躱し続けた。長じるにつれ私も過去のことはどうでもよくなって、シャディクに昔話をせがむことはなくなった。シャディクは多分、安堵していたことだろう。
 救貧院はその後、度重なる行政や企業のテコ入れを受けたと聞く。現在では、疫病や犯罪の温床になりかねないという表向きの理由と、アーシアンの孤児にかけるコストなどというスペーシアンにとっては無駄遣いきわまる出費の削減から、院そのものが解体されている。私たちの生まれた場所がこの世から廃絶されて久しい。

 *

 磨いた窓には曇りひとつなく、我ながら完璧な仕事ぶりだと誇らしい気分になった。
 屋敷の主は滅多に戻らない。一人息子はすでに家を出て、通っている学園の寮で生活をしている。そのため使用人のなかにはいくらか気がゆるんでいる者もいるようだ。私はそんな気にもなれず、今日ももくもくと割り振られた仕事をこなしている。
「そう深刻な顔をして窓を磨いていると、まわりが気を遣うからほどほどにするように」
 ふいに背後から声をかけられ、振り返った。女中頭がにこにこと、見慣れた人の良さそうな笑顔を私に向けていた。
「深刻な顔をしているつもりはなかったんですが……」
「そうなの? あんな思い詰めた、人ひとりくらい殺しそうな顔をしていたのに?」
「そんな、物騒な」
「きれいな顔の女の子が深刻な顔してると、なんだか犯罪のにおいがするのはどうしてかしらねぇ」
 笑顔で冗談に興じる女中頭は、そこでふと、笑顔をひそめて真面目な顔をつくる。そして、
「ナマエ、あなたまだ引き摺ってるの?」
 揶揄するでも非難するでもない、あたたかな声で、彼女は言った。
 その問いかけに言葉少なに答えて、私は小さく首を振る。それを女中頭が信じたかは分からない。が、それ以上の追及を受けることはなく、私はほっと胸をなでおろした。
 女中頭が、ゆるりと視線を窓の向こうに向ける。つられて私も視線を上げた。窓の外の空は、気持ちのよい水色で染まっている。
「ま、こんなことを言ったら悪いけど、あなたがお嫁に行ってしまわなくて、こちらとしてはよかったわよ。今はもう、この屋敷の使用人の数もずいぶん減ったからね。勝手をよく分かってる昔からの人間がこれ以上抜けると、さすがに私がどれだけ頑張っても、あちこち手が足りなくなりそうだもの」
 主家の人間がこの家にあまり寄り付かないことを理由に、使用人の数は年々少なくなっていた。雇い主の意向というわけではなく、単にもっと働きがいや良い待遇を求めて、皆勤め先を移ってしまうのだ。
 私には、そういった願望はない。しかし向上心がないと思われても困るので、ひとまずは曖昧に笑ってみせた。
「私はまだ、このお屋敷に御恩を返しきれていませんので」
「御恩があるかはともかく、あなたはまだまだ年若いしね。急いでお嫁に行く必要なんかないんだから」
 励ましなのか叱咤なのかよく分からないセリフとともに、女中頭は私の腰をばしんと強くたたいた。
「さて。窓をきれいにしてくれるのは結構だけどね。さっきも言ったとおり、あちこち手が足りていないんだよ。掃除はほどほどのいいところで切り上げて、ほかを手伝ってくれる?」
「はい」
「うんうん、いい返事」
 特に快活というわけでもない私の返事になぜか満足げに頷いて、女中頭は足早にこの場を立ち去っていく。その後ろ姿を数秒見送って、私は掃除を再開した。

 つい先日まで、私は嫁入りを控えた身だった。求婚者はグラスレー社の関連企業の役員のご子息で、孤児として育ち女中などしている私からしてみれば、まさしく殿上人とでもいうような相手だ。
 先方は、グラスレー社主催のパーティーで裏方として立ち働く私に目をとめ、見初めてくださったそうだ。役員の息子といっても三男の彼は、結婚相手の家柄や出自にこだわる必要はないのだと、熱っぽい口調で私に語った。
 会社のためとなる婚姻ならば、すでに上の兄ふたりが結んでいる。だから自分は気ままなものなのだ──
 そう言って、彼ははにかみ笑った。屈託ない笑顔も、熱心に私を口説こうとする瞳も、無邪気な物言いも、それでいて筋を通そうと、旦那様──サリウス様を通して結婚を申し込んできたところも、いずれも私にとっては好印象だった。
 とはいえ誰の目から見ても、私などには過ぎた提案だ。身分差もあるし、何より私が望まれような花嫁になれる自信もなかった。そのことを理由に、はじめこそ丁重に固辞した。しかし旦那様の強い勧めもあり、最終的にはその縁談を受けることになった。同僚はみな、我がことのように祝福してくれた。
 その縁談話が、唐突に御破算になった。理由は明かされず、ただ、申し訳ないがこの話はなかったことにしてほしいと、それだけがサリウス様を通して私に伝えられた先方の言葉だった。
 サリウス様とは、この縁談が持ち上がるまで直接口をきいたこともなかった。私ごとき一介の女中が、世界的企業の代表と直接言葉を交わすなど有り得ない。
 しかし破談になったあと、そのサリウス様から「いずれは望めば結婚の世話くらいしよう」とのお心遣いまでいただいてしまった。降ってわいた縁談と同じく、これもまた私には過分なご配慮だ。身に余る幸運に、私はただ恐縮するよりほかなかった。
 そして現在、まるで嫁入りの話など最初からどこにもなかったかのように、私は変わらずゼネリ邸での女中仕事に従事している。気心知れた同僚たちは私を気遣って、破談になった嫁入りの話をしてこない。その距離間は、私にとっては何よりありがたいものだった。

 午後の早い時間、厨房のすみで昼食のまかないをいただいていた私に、女中頭が忙しげに声をかけた。口の中のパンを呑み込むや、「坊ちゃまの部屋の寝具をととのえておくように」と指示される。
「坊ちゃまのお部屋ですか? シーツなら先日新しいものと取り替えたばかりですし、休暇まではまだ日がありますが……」
「それが、急にお戻りになられることになったそうよ。さっき坊ちゃまから直接連絡があったわ」
「それでは旦那様もお戻りですか?」
「いえ、そういうわけではないの。坊ちゃまだけが戻られるそうよ。理由は分からないけれど、学園で何かあったのかもね。ともかく、そういうわけだから寝具を新しいものに取り替えておきましょう」
 繰り返し指示され、私は「はい」と頷いた。私や坊ちゃまの母親といっても通る齢の女中頭は、帰省時の坊ちゃまの過ごしやすさに、何より心を砕いている。今使われている寝具も十分に清潔なものだが、折角だから先日洗濯したばかりのものを使用したいのだろう。
 昼食を終えて身支度を整えなおしてから、私はリネン室へと向かった。急ぎの仕事は午前のうちに片付けている。そもそも、この家のひとり息子が帰省するというのだから、坊ちゃまを迎える支度より優先されるべき仕事などありはしない。
 リネン室から清潔な寝具一式を取り出し、今度はシャディク坊ちゃまの私室に足を向けた。形式としてノックをしたあと、部屋のドアを開く。
 主不在であっても、常にこの部屋は清潔に整えられている。プライベートな私物がしまいこまれた引き出し以外は、使用人がふれることを前提に整頓された部屋だ。私も使用人のひとりとして、この部屋には幾度となく足を運んだことがある。だが、この部屋から私が知る『シャディク』の気配を感じたことは、一度もない。
 ベッドメイキングは掃除や雑用のような下働きを卒業して、真っ先に叩き込まれる基本技能だ。手順は身体が覚えてしまっているから、手を動かしているあいだも、頭はついつい他事に思いを馳せてしまう。
 使用人のベッドとは比べようもない、寝心地のよさそうなベッドと手触りのいい寝具。かつて孤児院で暮らしていた私は、このような高級な品々をいつかは自分のものとするかもしれない、なんて身の程知らずなことは、想像すらしたことがない。
 しかし、それはシャディクにしても同じだったのではないだろうか。それともシャディクは、いつかはこのような生活をすることが可能なはずだという思いを、あの頃からすでに胸に秘めていたのだろうか。

 *

『ごめん、きみのことは連れていけないんだ』
 サリウス・ゼネリとの数度の面会を経て、シャディクが正式にグラスレー社CEOの養子になることが決定した、その晩のことだった。
 グラスレー社が運営母体となった孤児院では、子どもたちの寝室は年齢を問わず男女別になっている。それでも私とシャディクはそれまでにも頻繁に、就寝後に寝室を抜け出してはふたりで夜を過ごしていた。
 その日もまた示し合わせように抜け出して、待ち合わせ場所である洗濯室で落ち合った。約束などする必要はなかった。あの頃、私たちは目くばせひとつですべてを分かち合うことができた。
 深夜の洗濯室には、日中に出た洗濯ものがかごに入れて山積みになっている。子どもふたりがかごのあいだに隠れておしゃべりをするのに、これ以上ないほどうってつけの場所はない。
 大きな出窓から、月の光が皓皓と降り注いでいた。シャディクの淡い色の髪は、時に蜂蜜を溶かしたように、時に月の光を吸い込んだように、その時々に合わせて眩しさの濃度を自在に変える。その晩は冴え冴えとした月明りを宿した色をしていて、私はその色を幼心に好ましく思ったことを、今でもはっきりと覚えている。
『引き取ることができるのは、ひとりだけだと言われたよ』
『うん、分かってる。選ばれたのはシャディクだけ、だもんね』
 囁きかえす私の小声に、シャディクが表情を固くした。
 彼がサリウス・ゼネリとの面会のなかで、一度ならず私のことも引き取ってほしいと伝えていたことは、私も人伝に聞き知っていた。その願いは結局叶うことはなく、シャディクの養子縁組だけが整ってしまったのだということも。
 残念だとは思わなかった。私は孤児院のこともアカデミーのことも嫌いではなかったし、成人するまでここにいることにも、抵抗を感じていなかった。
 それに、私には選ばれ、引き上げられるだけの才がない。それだけの資質を私は持たない。そのことは、自分がいちばん分かっていた。
 孤児院にいれば少なくとも、飢えとも寒さとも無縁だ。家庭みにはいささか欠けるのかもしれないが、そもそも私は家庭みなど知らずに生まれ育っている。知らないものを欲しがれるほど、当時も今も、私は想像力を持っていなかった。
 ふいに、私の手をあたたかな手が包んだ。暗闇のなか、向かい合ってしゃがんだシャディクが、私の手を強く握りしめていた。
『待っていて、ナマエ。いつか必ず、俺がナマエのことを迎えに来るよ。俺がナマエを選んで、ここから救い出すから。それまでどうか、ここで俺を待っていて』
 救い出す、という言葉が、果たして私の心情に沿ったものであったかは分からない。それでも、シャディクが切実に、真剣にそう思ってくれているのだということだけは、幼い私の目から見てもはっきりしていた。
 どのみちアカデミーではシャディクと会うことができる。むろんアカデミーでは今のように親しくしているわけではなかったが、これが今生の別れというわけではない。
 シャディクに手を握られたまま、私はこくりとひとつ頷いた。
『分かった。シャディクがそう言うのなら、私はここで、シャディクを待ってる』
『ありがとう。いい子だね』
 さして年の違わない私を子ども扱いして、シャディクは笑った。その笑顔が安堵に満ちた安らかなものだったから、これでよかったのだと、返事を間違えなかったのだと、何故だか私までつられてほっとした。

prev  index  next

- ナノ -