冠の影が届くところ


 私の就業にかんして定められた休暇は、結局は一週間のうち二日は半日休みをとる、という形で落ち着いた。なにせ娯楽の少ない環境だ。まるっと一日休みをもらっても暇を持て余してしまうし、逆にあれこれ気になってしまってまったく心が休まらない。
 半日ならばのんびりしていれば時間をつぶせるし、あれこれ気になるほど仕事から遠ざかるわけでもない。仕事と実益をかねて屋敷のなかを点検して回っていれば、いつのまにか半休が終わっている。ワーカホリックというわけではないものの、生活のための動作が仕事になっていること、仕事くらいしかすることがないということから、やはり私は働いていた方が心が安らぐ性分のようだった。

 その日は、午前中に休みをもらっており、シャディクと一緒に朝食をとったのち、私はひとり、書庫へと足を運んだ。
 先日シャディクに選んでもらった本は、私室で毎晩、就寝前に少しずつ読み進めている。若い年代向け──ジュブナイルというのだと、シャディクが教えてくれた──の小説は読書慣れしていない私でも読みやすく、次々と発生するドラマティックな展開は、たしかに面白いと思えるものだった。
 しかし今日は、読書用の本を探しにきたのではない。入室するなり近寄ってきたハロを使って、書庫内の蔵書検索をする。結果はすぐに表示された。表示にしたがって、私は奥まったところの書架の一番下の段から、革ばりで大判の、いかにも富裕層が書架に並べたくなりそうな、目的の一冊を引っ張り出した。
 貴族の屋敷のサロンといっても通用しそうな、書庫内の読書スペースに移動し、テーブルのうえに今引き抜いてきたばかりの書籍を広げる。清掃と空調システムのおかげで埃をかぶってはいなかったが、さすがに紙の劣化を完全に止めることはできなかったのだろう。開いた書籍からは、かすかに古びた紙のにおいがした。
 下手にさわると破損してしまうかもしれない。いっそハロの閲覧機能を使った方がよいだろうか。利便性の問題ではなく、貴重な収蔵品を破壊しないために。
 そんなことを思い悩んでいたところで、書庫の扉がゆっくりと開く音がした。空気の動く気配。顔を上げれば、シャディクがちょうど書庫のなかに入ってくるところだった。
 手ぶらなのは、今から本を見繕うつもりだったからだろうか。それとも、単に屋敷内を歩き回っていただけか。シャディクは読書スペースの私に気付くと、そのまま歩みを進めて近寄ってきた。
「何を読んでいるんだい?」
 彼は私が開いている書籍に視線を落とすと、
「植物図鑑か。また珍しいものを読んでるな」
 言葉だけではなく、本心から意外そうに呟いた。テーブルを挟んで対面の椅子に腰かけて、彼はテーブルに肘をつき本をのぞきこむ。
 シャディクの言うとおり、私が開いているのはかなり大判の植物図鑑だった。専門的なことも書いてあるにはあるが、内容のほとんどは平易な文章と多彩な写真で構成されている。アド・ステラ以前に編まれたもので、豪奢な装丁とあわせてみれば、どう見てもそれは裕福なコレクターが愛蔵するために生産されたものだった。
 読まれるため、知識を与えるための本ではない。実際、ここでは書架の飾りとして、長らく死蔵されていたようだ。そもそも、かつての保養所時代ならばともかく、現在のフロント〈ユーダリル〉の状況を思えば、高価な植物図鑑など、無用の長物以外の何ものでもない。
 このフロントはきわめて小規模で、屋敷の敷地をのぞけば、輸送艇の離着陸に用いられる宇宙港と、それに付随する、これまた最低限の機能を有するだけの管制室くらいしか施設らしい施設がない。さすがにフロントの全域が視界におさまるというほど狭くもないが、大人の足で半日もあれば、外周をぐるりと一周することができる。施設のない空白地帯は、一か所の例外もなく、その地表を荒れ野に覆われている。
 そんな枯れた土地であるから、ここには植生というものがまったく存在しない。むろん保養所として利用されていた頃には、人々の目を楽しませる花々や、憩いを与える樹木も植わっていたのだろう。しかし、人の手が入らなくなって久しい現在、当時の植物はすべて絶えている。今現在、乾燥した地面の表面をおおっているのは、生命力あふれる名も知らぬ雑草の、節の目立つつるだけだ。
「先日輸送されてきた物品のなかに、花の種が同封されておりました。せっかくですので、栽培してみようかと思いまして」
「花の種?」
 怪訝そうにシャディクが繰り返した。
「どうしてそんなものを。野菜でも栽培させるつもりなのか」
「添付されていた説明書を読むかぎり、食用になる野菜の品種が二種と、あとは観賞用の花が一種のようでしたよ」
 正確には、ラディッシュと葉物野菜、キク科の植物の種だ。栽培の助けとするための、タブレット状の肥料も入っていた。それ以外には道具らしい道具は入っていなかったが、農作業用の道具ならば、屋敷裏手の倉庫に投げ入れられて忘れ去られたものがある。
「それでナマエは、送られてきたものを従順に育てようと思ったわけか」
「家庭菜園というには小規模ですから、ガーデニングという感じですね」
 さりげなく棘のある言葉に気付かないふりをして、私はシャディクをちらりと見た。座って図鑑を眺めるシャディクは、指先で音もなくページを捲る。今にも破損しそうに見えた図鑑だったが、シャディクは気負うこともなく、それでいて丁寧に図鑑を扱った。その指先を、視線で追う。
「ちなみに種子の付属の説明書には、いずれも初心者でも育てやすい、手のかからない品種ばかりとありました」
「手がかからないのは結構。だが、そもそもそういうのは、生態系保全の宇宙条約に引っかからないものなのかな」
「どうなんでしょう。そこまでは考えておりませんでしたが」
 その惑星固有の生態系を破壊しないため、フロント間、または惑星間での動植物の移動については、年々厳しい条件を設けられている。ミオリネさんともあろう人が、そのあたりの事情を見落とすとも思えないが、何事にもうっかりというのはあるものだ。
「おそらくですが、大丈夫なのではないですか? そもそもこのフロントには、保全されるべき生態系など、すでに残っておりませんし」
 我ながら言い訳じみている。というか屁理屈のような言葉だったのだが、シャディクは意外にも私の答えに満足したようだった。
「ははは、たしかにそれもそうかもしれないな」
 口を大きく開き、ほがらかに笑い声をたてる。
「きみの言うとおりだ。おおかた、もともとの保養所をつくるとき、一度ここの環境をすべて破壊して更地にしたんだろうし、今更ここで何を育てようが枯らそうが、誰も気にはしないということか」
「花壇だったと思しき場所が屋敷の中庭にありますので、そこに種を蒔いてみようかと。よろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん。そうか、あそこは花壇だったのか」
「多分」
 すでに花の一輪も咲いてはいないし、土の状態も、とてもではないがガーデニング向きとは言えない。靴で踏み荒らされたあとがあったから、私たちがここに来る前に乱暴な扱いをした者がいたのかもしれない。
 同じことをシャディクも考えていたのだろう。
「しかし、あの場所を花壇として使用するなら、土の入れ替えをした方がいいかもしれない。どう見たって、あそこはガーデニング向きの土じゃないよ」
「そうですね……」
 答えながら、私は送られてきた種に同封されていた説明書の内容を思い出した。
 最低限肥料の肥料と疑似日光――天井パネルの光と酸素、それに水さえあれば育ちます。説明書には、たしかにはっきりそう書かれていたはずだ。技術革新めざましい昨今、過酷な環境下でも育つよう、品種改良された植物は少なくない。
 しかし、そうはいってもシャディクの言うとおり、花壇跡地の土壌が枯れ果てていることは懸案事項だった。せっかく育てても、花も見ずに枯らしてしまってはあまりに悲しい。
 そういうあれこれを踏まえ、まずは植物図鑑をあたってみようと思い至り、私は書庫を訪れたのだ。この植物図鑑には、これから蒔く種の原種が載っている。栽培の仕方も書かれているので、何か参考になればと思ったのだった。
「さまざまな星や環境での栽培に耐えうるよう、送られてきた種はかなり品種改良がなされているようですね」
 何の気なしにそう呟けば、
「涙ぐましい努力だ。地球に自生しているものを破壊して踏み躙っていったスペーシアンが、今になって同じものを求め、品種改良にいそしむなんて。いっそ何かの寓話のようですらある」
 うっすらとした笑顔のまま、シャディクは思いのほか辛辣な言葉を返してくる。
「……シャディク様、ご気分がすぐれないのであれば、何か飲み物をお持ちいたしましょうか?」
「どうして? 俺は絶好調だよ。それに書庫は飲食厳禁」
「……大変失礼いたしました」
 ご気分のほどとは関係なく、舌鋒鋭く悪態はつけるらしい。ここなら私以外に聞いている人間はいないので、グラスレーの御曹司として品行方正に、あるいは大罪人として粛々と刑の執行を待つように、お行儀よく振る舞う必要はないということか。
 私としても、シャディクにはこのように気ままに振る舞っていてもらった方が、何かと気楽だ。なので、多少の悪態をついたくらいで悪いことは何もなかった。バレたらまずいような遣り取りは、バレさえしなければ何の問題もない。
「それにしても。土いじりか。──経験は?」
 シャディクの問いに、私は首を横に振る。
「いえ、そういったことはほとんど」
「だな。俺もだ」
 そもそも、送られてきたような初心者向けの品種は別として、その惑星固有の植物ではなく地球原産の植物を育てるということは、想像以上に容易いことではない。本格的に植物を栽培するとなれば、技師などの専門家の意見を定期的に求める必要がある。
 そういう背景があるから、フロントでの造園やガーデニングは、一定以上の富裕層の楽しみという印象があった。庶民でも家の前に鉢植えくらいは置くのかもしれないが、生花よりは模造花を飾る方が手軽でハードルが低い。
「俺も花を眺めるのは嫌いじゃないが、育てるとなると」
「アカデミーの花壇に咲く花も、よくご覧になっていましたものね」
 アカデミーでは情操教育の意味もあって、小規模ながらも学生が植物の栽培を手がけることがあった。全員必須の教育ではなく、あくまでも希望者がささやかに楽しむクラブ活動のようなものだ。各所に置かれた花壇やプランターは、無機質なアカデミーでの生活に、つつましやかな彩りを与えてくれていた。
 と、シャディクからの返事がないことに気が付いて、私は首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
 歯切れ悪く言葉を発し、シャディクはちょっと言い淀んでから答えた。
「きみからアカデミーの話が出るとは思わなかったから」
「ああ……」
 なるほど、そういうことかと、私は納得の息を吐く。シャディクは多少ばつが悪そうにしながらも、それに、と続けた。
「自分では花壇を眺めていたという意識はあまりなかったんだ。だから少し、驚いた」
「足を止めてしげしげと見る、ということはなくても、よく視線を向けていらっしゃるなとは思っておりました。だからてっきり、シャディク様は花がお好きなのだとばかり思っておりましたが」
「よくもまあ、そんなことを覚えているものだ」
 今度は苦笑が返ってきた。そのほほえみがあたたかいものだったから、私もほっと安堵する。
「ナマエが俺のことを花好きだと思っていたなら、実際、俺は自分でも気が付かなかっただけで、結構そういうものが好きなのかもしれない。種を蒔くときは声を掛けてくれ、俺も一緒に種から育ててみたい」
「もちろんです」
 他愛ない約束だが、嬉しかった。シャディクの目が、昔のようなあたたかさを宿しているような気がして、胸がよろこびと切なさでざわざわ落ち着かない。
 シャディクはそんな私に気付くこともなく、おだやかな表情のまま、ゆるりと優雅に図鑑をめくっていた。

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