藍に温くとける


 書庫へと向かうシャディクの足取りは軽い。対して、彼の後ろをついていく私の足は、鉛でも流しこまれたように重かった。雨のせいで身体が重い、ということにしておく。実際には体調はすこぶる健康そのものなのだが、いかんせん身体が心に引き摺られる。
「ナマエ、最近読んだ本の題名を、何冊か挙げてみて」
「え、い……嫌ですが……」
 ついつい素のリアクションで返答すれば、前を歩くシャディクが肩越しにこちらを見た。不興を買ったかと一瞬ひやりとしたものの、シャディクは特に腹を立てている様子もない。ただ、視線がどことなくもの言いたげに眇められていたような気がしたのは、おそらく私の思い過ごしではないはずだ。
「なぜ?」
 なおもシャディクは問いを重ねてくる。歩む足を止めはしないが、この話を場繋ぎの雑談として済ませるつもりもなさそうな口調。シャディクの追及の手はゆるまない。
「別にナマエがどんな本を読んでいようが、俺がけちをつけるはずないことは分かっていると思うんだけど。それとも、俺はそこまで信用がない?」
「……信用と来ましたか」
 こんな雑談くらいで大袈裟な、と言いたいところだが、茶化すことはシャディクの雰囲気が許してくれそうにない。
「信用だよ。誤用ではないだろ?」
「それはそうですが」
 そういえば先日も、会話のなかで信用の話をした。そのときは私がシャディクからの信用を得ているかいなかというような話だったが──そしてまさか私がシャディクに信用されているはずがないのに、言葉の綾で確固たる信用を勝ち得ていると確信している、というようにとらえられてしまっている気がするのだが──今回は立場が逆転していた。
 私がシャディクを信用しているか。私にとって、シャディクは信用・信頼に足る人物であるのか。そういう話を、シャディクの方から持ち出している。
 正直に言って、意外だ。シャディクはこういう、ある種繊細で微妙な話題については、極力ふれないようにしている印象があった。そもそもシャディクともあろうひとが、口に出せる「信用している」なんて安い言葉を、一体どこまで本気で求めているのか。
 歩きながら、逡巡する。シャディクは問いを投げるだけ投げて、あとは私の返答を待つかのように沈黙をつらぬいている。
 書庫まではもうあと少し。私は気が急くのを感じつつも、答えるのが難しい問いについて頭を悩ませるのを億劫にも感じ、そうはいっても適当な返事でお茶を濁すなんてことができるはずもなく──と、しばし考え込んでいた。
 どれほどそうしていただろうか。
 ややあって、私は答えた。
「本は、あまり読まないのですが」
 シャディクが肩越しに振り返る。身振りで隣に並ぶよう促され、私はおとなしくシャディクの横に並んだ。前後に並んでいては、シャディクも会話しにくかろう。
 ひとまず、信用の話を深掘りするのは避けたい。それで私は、最近の自分の読書遍歴をつまびらかにすることを選んだ。といっても、話すほどの読書遍歴があるわけではない。
「最近読んだ本、というより、自分で好んで読んでいる本は、ほんの何冊かしかありません」
「そういう読書のしかたもあるだろう。気に入った本を何度も何度も読み返すのだって、悪いことじゃない」
「そうですね。そうかもしれません」
 シャディクの蒼の瞳が、さらに私に続きを求める。冴えるような蒼がいつもより少しだけ翳って見えるのは、廊下の窓から差しこむ光が、雨で沈んでいるからだろうか。
 これから交わす会話ののち、シャディクの瞳の色は、どう変化しているのだろう。そんなことを思いながら、私は口を開いた。
「私がいつも読んでいるのは、あかがね色の表紙の、子どもむけの本です」
 ほんのわずか、あるかなきかという程度に、シャディクが身じろぎする。もちろんそれは私の勘違いかもしれない。けれど、もしもシャディクが少しでも私と同じ思い出を今でも共有してくれているのなら、多少の反応があってもおかしなことではなかった。
「大きな本で、こどもの手で読むのは少し大変で……それに、話の内容も多分に示唆的といいましょうか。そのせいで、……いえ、そのおかげで、内容をきちんと理解できるようになるまでに、何年もかかってしまいました」
 それは遠い昔の地球の、欧州の作家が書いた児童書だ。ぐずでいじめられっこで、母親のいない少年が、ある日書店で、あかがね色の表紙の本を盗む。彼は盗んだ本の面白さに魅了され、ひとりじっと読みふける。そうしているうち、彼は本の世界に入りこみ、そこで世界をすくう英雄となる。
 英雄は何でも望みのかなう力を得る。が、やがてはその力に溺れていく。見た目の華々しさとはうらはらに、英雄は悪しき醜き者に成り果てて、ついには勇敢で高潔な親友すら、その手に持った剣で貫いてしまう。
 物語は、最後にはハッピーエンドをむかえる。けれど、何もかもを手にしたまま、幸福を得られるような話ではない。あぶくのように手にした栄光を脱ぎ去って、主人公は最後には現実の、ぐずだった自分に戻る。
 そういう物語だ。
 なにも物語に自分の境遇を重ねるわけではない。そこまでの想像力も、私にはない。けれど、いろいろと思うところがあるのはたしかだった。想像力のない私ですらそう感じるのだ。まぎれもなく名作といえる。
「ナマエは、その小説が好きなんだね」
「どうでしょうか。好きかといわれると……」
「好きでも何でもない本を、繰り返し何度も読み返しているのか」
「……難しいですね。言葉で伝えにくい、自分でもよく分かっていない、気持ちの問題ですから」
 実際、その本の内容が好きなのかと問われると、自分でも首をひねらざるをえなかった。名作であるということと、自分の好みはまったくの別問題だ。それに何より、私がこの本ばかり読み返しているのは、シャディクとの思い出に紐づいているからだ。それ以上でも以下でもない。
 シャディクが昔、教えてくれた物語。
 それ以上の価値を、私はその本に見出してはいない。
「本の内容を、おもしろいとは思います。何度読んでも心が揺さぶられるシーンも、あるにはあるのです。ですが、好きかと聞かれると……」
「それじゃあきみは、どうして何度もその物語を読み返すんだ?」
 ちくりと胸の端が痛んだ。それはまるで、思い出を刻みつけた心のすみっこを、無遠慮に引きちぎり、破られるような痛みだ。シャディクは何もかも分かっていて、そんなことを聞くのだろうか。
 どうしてなんて、聞くまでもない。本の魅力は十全には分からなくても、それだけははっきりしている。それなのに、一体なぜ。
 私にとっての大切な思い出が、シャディクにとっては取るに足らない、過去の一幕でしかないのかもしれない。そんなことは分かっている。
 それでも、彼がそういう瑣末な出来事をいつまでも忘れないたちだということも、私は長い付き合いで知っている。
 忘れているのでなければ、すっとぼけて、私を試しているのだろうか。何のためにか、私を試す問い。そうでなければ私を罰するための何か。
 きっと私には分からない理由が、シャディクにはあるのだろう。私はそう結論付けた。だが、その理由は私には分からない。分からないから、私は眉を下げて、分かりやすく困り笑顔をつくるしかない。
「シャディク様が、それをお尋ねになるのですか?」
 ともすれば無礼ともとれる問いかけだ。しかし、
「……いや、今の質問はなかったことにする」
 私の答えに満足したのか、それとも聞くだけ無駄だと思ったのか。シャディクはあっさりと、何のこだわりもなさそうに、自分の問いを引っ込めた。
 ふと、隣を歩く彼が足を止める。つられて私も足を止めた。話をしているうちに、私たちは書庫の扉の前に到着していた。
 書庫に施錠はされていない。こんな場所に物盗りが出るはずがないし、そもそもここの蔵書は、シャディクの私物というわけではない。かりに盗難が発生したとして、困るのは私たちではない。
 シャディクが扉を開き、私をなかへと招き入れる。蔵書管理用のハロが人感センサーで起動し、眼部パーツをぼうっと暗闇で光らせる。ほどなく、書庫のなかの照明が自動で灯った。
 入室してきた人間を圧迫するような書架の数々は、しんと静かに庫内に整列している。空調システムのおかげで、雨の気配はここまで這入りこんではこない。
「おいで。ナマエに何冊か、本を見繕ってあげるよ。きみがひとりでも読みやすい、楽しくておもしろそうな物語を」
 はたしてそんな物語が、この世界に存在するのだろうか。あったとして、そんなものを私は求めているのだろうか。
 雨の音の届かない書庫で、ただシャディクのおだやかな声音だけが、私の心を震わせていた。

 *

 夕刻になって、ようやく雨は降りやんだ。監視小屋に向かおうと思った矢先、荷車を押したタヴァが、勝手口にひょこりと顔を出した。
「雨で地面の状態が悪いので、今日は俺が荷物を運んでくることにしたんです」
 雨上がりの空のようにさっぱりとした声で、タヴァはそんなお人よしなことを言った。あいにく実際の天井パネルはすでに薄く暮れかけているが、タヴァの声には昼間の空を連想させる爽やかさがある。
 タヴァのいうとおり、たしかに地面は泥でぬかるんでいた。これでは台車を押すのも一苦労だっただろう。正直なところ、タヴァが来てくれたのは大変ありがたい。
「すみません、気を遣っていただいて」
「いえいえ、雨の日はどうしてもこもりがちになりますからね。これも気分転換みたいなもんですよ」
 押しつけがましさも、恩に着せる調子もない。私が彼のタブレットで受領証にサインをするあいだに、タヴァは荷物の入ったコンテナを室内に運び入れてくれた。
 ふと視線をやれば、タヴァの腕の盛り上がった筋肉が、服を下から押し上げているのが目に入る。何となく目のやり場に困り、私は慌ててタブレットに視線を戻した。ひょろりとしているが、彼も軍人のようなものだ。職業柄鍛え上げていることを、まざまざと見せつけられたような気分だった。
「そういえば」と、タヴァがいう。
「今回の荷物、珍しいものが入ってましたよ」
「珍しいもの、ですか?」
「珍しくないですか? というか、こんなもの、はじめて届きましたよね」
 タヴァが言いながら、コンテナの一番うえに乗っかっていた、小さな袋を指さす。彼ら監視兵は、輸送されてきた物品にひととおり目を通している。そこに目新しいものや不審なものがあれば、すぐに気が付く。
 タヴァの指の先を見て、私はああ、とうなずいた。おそらくは、先日のミオリネさんへのメッセージに付け加えた、ささやかなリクエストの品が届いたのだろう。すでにミオリネさんからは、次の便で届くよう手配したというメッセージも届いている。
 タヴァが不思議そうに首を傾げる。
「ナマエさん心当たりがあるんですか?」
「まあ、そうですね」
 私が独自にミオリネさんとの通信方法を持っていることは、シャディクだけでなく誰にもいえない秘密だ。私はほほえんではぐらかし、タヴァにタブレットを返した。
 タヴァは笑顔でそれを受け取る。疑問を持ってはいても深追いしないところも、タヴァの美点だ。
「もしも力仕事が必要になったら、そのときはまた声を掛けてください。たいていの時間は手を貸せると思いますから」
「ありがとうございます。またその時が来たら、お願いするかもしれません」
 それじゃあ、とタヴァは頭を下げ去っていく。あとにはただ、雨上がりのにおいだけが残っている。
 タヴァが去るのを待っていたのか、入れ違いに厨房をのぞいたシャディクが、
「彼はこんなところに閉じ込めておくにはもったいない、善良な人間だね」
 と苦笑交じりにつぶやいた。

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