雨の実験装置


 分厚い窓ガラスが、明け方から降り続ける雨に濡らされて、不思議な模様を描いている。
 小惑星を利用し運営されているフロント内では、空の色も天井パネルが映し出す人工のものであり、本来天候などというものは存在しない場合が多い。
 だが、そこは放棄されたといえどベネリットグループの保養施設だけあって、このフロントでは屋敷地下の中央管制室で天候を操作することができる。風雅なたのしみの一環なのだろう。自動と手動、どちらでの操作も可能となっている。
 もっとも私は機械操作系の教育をあまり受けておらず、難解な機械操作はできない。それでも、置き去りにされていたマニュアルを読み込めば、地球の指定地域の実際の気候データをもとに自動で天候を変化させるよう設定するくらいのことは、見様見真似でどうにかできた。
 もちろん自動であるぶん、予期せず夕立ちに見舞われたりもする。唐突な雷雨に驚かされることもある。しかし常に快晴、常に適温を保たれているよりは、ある程度天候の変化がある方が、やはり心地よいのではないだろうか。それとも、そんなふうに思うというのも、私のアーシアン的感性ゆえなのだろうか。
 ちなみに、天候を自動設定にするにあたって、シャディクは「いいんじゃないか? 多少の変化があった方が、きみも過ごしやすいだろ」とだけコメントした。私としては、少しでもシャディクの気分を変えることができればと思っての相談だったのだが、シャディク本人はそこまで拘りはないようだ。

 雨が降っているからといって、特に一日の過ごし方が変わるわけではない。ここでの生活では洗濯物を外に干すこともないし、リネン類も同様だ。ちょっとした掃除用具ならば天日にさらして乾かすが、そもそも雨の日にそこまで本腰を入れて掃除はしない。
 よって、降りしきる雨の音を遠くに聞きながら、私とシャディクはのんびりゆったりと、まったりした一日を過ごしていた。いつも通りといえば、そうなのかもしれない。シャディクはときおりここでの生活を「余生」と揶揄するが、たしかにこの時の流れのゆるやかさは、余生だとか老後だとか、そういう言葉がしっくりきてしまう。
 もくもくと編み針を動かしていた手元から視線を上げ、ふうと大きく一息吐く。今腰かけているひとりがけのソファは、私がこれまでの人生で座ったことのある唯一の来客用ソファーのふかふかさ加減と、なかなかいい勝負をする。唯一の来客用ソファーというのは、言うまでもなくミオリネさんの社長室のソファーだ。もはやあのソファーを勧められたのも、遠い過去のことのように思える。
 上げた視線の先には、やはり同じくソファーに腰掛け、悠然と本のページをめくっているシャディクがいた。テーブルに置かれたカップには、紅茶がまだ半分ほど残っている。残った紅茶は、すでに湯気をあげていない。
 私はシャディクの読書の邪魔にならないよう、そっとカップに手を伸ばした。あたたかい飲み物に取り替えてこようと思ったのだ。しかしシャディクは、ふと紙面から視線を上げると「そのままでいいよ」と言った。
「少しくらい冷めていても、飲めなくなったわけじゃない」
「シャディク様がそうおっしゃるのであれば。新しく淹れた方がよろしければ、またお申し付けください」
「別に自分でお茶くらい淹れられるんだけどね」
 呆れたように苦笑して、それからシャディクは本のページにしおりを挟むと、ぱたんと閉じてわきに置いた。ずいぶん集中して読んでいたから疲れたのだろう。眉間を二指でつまんで揉みほぐしてから、シャディクは首をぐるりと回す。
 私はシャディクが閉じたばかりの本に視線を遣った。深緑色のベルベットの表紙に、金箔で文字が記されている。一見して、高価そうな本だ。育ちが悪いためか、ついついそんな感想を持つ。
「何をお読みになっていらっしゃったんですか?」
 私が問うと、シャディクは傍らに置いた本に手のひらを重ねた。
「これかい? これは古い時代の地球で書かれた物語だよ」
「物語というと、恋愛とかSFとかミステリとか、そういう?」
「今読んでいるのは歴史小説。ナマエも興味があれば読んでみるといい。別にこの本でなくても、今きみが言ったような娯楽に寄せた小説も、ここの書庫にはかなりの冊数があったよ」
 シャディクのいう書庫とは、この屋敷にある図書室のことだ。蔵書の多くは宇宙進出前の地球で生み出された文学や図鑑で、哲学書や歴史書、そのほか学術書のたぐいもかなりの冊数がおさめられている。
 この時代、書籍の閲覧は各自の端末でデータ取得・閲覧するのが一般的だ。にもかかわらず、この屋敷に書庫がある理由としては、ひとつにはバカンス気分で端末から離れたいという利用者がいたのだろうという点、そしてもうひとつ、富裕層がポーズとして紙の書籍を好むという点があげられる。利用客には後者が多かったのか、放棄されて久しいフロントにしては、書庫は蔵書の状態、整備システムの稼働状況ともに良好だった。
 少しでも外部と通信をする機能を持つ端末は、この屋敷には存在しない──存在しないことになっている。監視システムのハロや屋敷の地下の管制室といった、ライフラインのための機器以外は、徹底的に外部との通信を遮断されている。
 だから建前のうえでは、この屋敷内において、通常の手段での読書──端末を使用したデータ閲覧での読書は、ほとんど不可能といえる。
 とはいえ抜け道めいたものもあるにはあって、たとえば蔵書管理システム搭載のハロの、データ閲覧機能をオフラインに限って利用すれば、データ閲覧できないこともない。が、そうまでするくらいならば普通に紙の本を手に取った方が手っ取り早い。
 なにぶん娯楽の少ない環境だ。ここにきてから、シャディクが読書している姿を目にする機会は多かった。シャディクの読書のスピードが如何ほどかは分からないが、私だったら一生かかっても読み切れない量の蔵書が、ここの書庫にはある。蔵書が撤去されていなかったことは、シャディクにとっては救いだったにちがいない。
 だが、蔵書の物理的な状態とは別の、本の内容にかかわる疑問はある。いかに本の状態が良好であろうと、中身がくずなら意味がない。
「このフロントが本来の用途で使われていたのは、もうずいぶんと昔のことですよね」
 ということは、とりもなおさず本の中身の情報も、すでに時代遅れである可能性が高い。そんな私の疑問をすぐに察して、シャディクは答えを教えてくれた。
「どうせ、もともとが古い時代の文学だ。多少の年月が経とうと、内容が古びて劣化することはないさ」
「いわゆる古典、ですか」
「そうともいう。最新の技術や政治情勢を学ぼうというわけでなければ、ここにあるのはいずれ劣らぬ名著ばかりだよ」
 珍しく、シャディクの声には多少の熱がこもっていた。そういえば、シャディクは昔から本をよく読む。地球にいた頃は、腹の足しにならない文字を読む余裕はなかったが、グラスレーに拾われてからは、暇さえあれば貪るように本を読みふけっていた。そんなことを、ふと思い出す。
 むろんアカデミー在籍中に読める書物は、限られている。アカデミーにも図書室はあったが、いずれも思想的に多少の偏りがあるものばかりだった。だがグラスレーの御曹司になってからは、もっと自由に、さまざまな本を読めたはずだ。教養としての読書から、趣味と実益を兼ねた読書まで、シャディクの読書は幅広い。
 ぼんやりと過去に思いを馳せていたところ、シャディクが小さく咳払いをする。我に返ると、シャディクは眉根にうっすら皺を寄せ、難しい顔で私を眺めていた。
「まさか、女中だから蔵書に手をつけない、なんてことは言わないね?」
「それは、まあ……そういうつもりはありませんが……」
 なぜか問い詰めるように聞かれ、私は知らず口ごもる。
 屋敷内はシャディクのプライベートルーム以外、たいていどこでも自由に出入りできることになっている。だから私だって本が読みたければ、自由に書庫に足を踏み入れればいい。
 だが、実のところ私はあまり書庫には行ったことがなかった。書庫だけは蔵書をいためないように独自の空調と清掃システムを導入しているため、仕事中に立ち寄る必要もない。
 シャディクの言うように、使用人云々というのも多少はある。だが、私が書庫に近寄らないもっとも大きな要因は、それとは別にあった。
 単純なはなしだ。私はあまり、読書に興味がない。だから、わざわざ書庫に用事がないのだ。
 このフロントに移住してきたとき、何冊かの愛読書を持ち込んだ。それらの本は、今もくりかえし読んでいる。だがそれ以外の本となると、とんと興味を引かれない。そしてその理由も、自分でちゃんと分かっていた。
 昔、私はシャディクが読んだ本の内容を、噛み砕いて教えてもらうのが好きだった。本の内容云々というよりは、シャディクの言葉で、シャディクの声で語られる物語を聞くのが好きだったのだと思う。
 そういう思い出のせいで、甘え癖がついていたのだろうか。シャディクと疎遠になってから、新しい本に手を伸ばすことも減った。今の私の愛読書は、かつてシャディクが私に内容を教えてくれたものばかりだ。文字どおり擦り切れるほど何度も読み、中身はほとんど暗記してしまっている。
「せっかく唸るほどの蔵書があるんだ。ナマエもどれでも好きなものを持っていて読めばいい」
「……シャディク様が、そうおっしゃるのなら」
 ようやっと返した言葉は、我ながら主体性に欠けたものだった。シャディクがまた、じっと私の表情を覗き込む。その視線に、私はいつになく羞恥心を覚えた。なんとなくだが、責められているように感じたからだ。
 これが自分の被害妄想であることも理解している。だが私はシャディクと違い、名門学校の授業どころか、アカデミーのプログラムさえ途中でやめてしまった人間だ。普段はほとんど気にならないが、ときどき、本当にときどき、自分の学のなさが恥ずかしくなる。シャディクの聡明な瞳に見つめられたときなどは、特に。
 私の内心の劣等感と葛藤を知ってか知らずか、シャディクは私を観察するように見つめたまま続ける。
「ナマエはどういう小説が好みかな。もちろん小説じゃなくてもいいんだけど」
「どういう……そうですね、あまり難しくないもの、とか……」
 今現在の私の愛読書は、おそらくはシャディクにとってみれば幼稚ですらあるような、児童書ばかりだ。そんなものがこの保養所の書庫にあるのかすら、私には分からない。偉いひとは児童書など読まないだろうか。それとも、保養所に同伴してきた家族のために、そういった書物も多少は取り揃えられているのだろうか。
「難しくないもの、ね」
 思案するように、シャディクの視線が宙を彷徨う。と、シャディクはおもむろにソファーから腰を上げると、「ひとまず書庫に行ってみよう」と私を誘った。咄嗟に断る理由も思いつかない。言われるがまま、私は立ち上がった。
 腰を上げて姿勢を正したところで、ふと気付く。シャディクのその声音の明るさからして、もしかすると彼は、雨のせいで退屈な気分を持て余していたのかもしれない。とすると、私に本を選ぶなんていうのは、完全な退屈しのぎだ。
 私は別に、退屈しているわけではない。編みかけのブランケットを今日こそ完成させようと思っていたし、今日は輸送されてきた物品の受け取りもある。雨なら雨で、それなりにやることはあるのだ。
 だが、もはや巻き込まれてしまったものはどうしようもない。シャディクの退屈しのぎに付き合うのも、ここでの私の役目だった。

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