楽園の裏表紙


 目を覚ます。部屋のなかはまだ薄暗い。布団をかぶったまま、私はゆっくりと首だけ動かした。カーテンから差しこむ朝日の淡さから、夜が明けてまだ間もない時刻だろうと考える。
 昔から寝起きはいい方だ。長年規則正しい生活に身を置いていたので、早起きも苦にならない。私はベッドからそっと抜け出すと、ベッドサイドのスリッパに素足をそのままつっこんだ。
 足にぴたりと合ったスリッパは、足音を極限まで吸収してくれる。物音を立てないようにそっと立ち上がり、それから私は、ベッドのかたわらに置いたボストンバッグのファスナーに指をかけた。
 私の部屋とシャディクの部屋は、屋敷が広いこともあってそれなりに離れている。たとえ私が普通に動作をしたとしても、物音がシャディクの耳まで届くことはないはずだ。そもそもこの時間、シャディクはまだ眠っている。多少の物音くらいで、彼が私の行動を不審に思うことはないだろう。
 それでも私は息をひそめ、細心の注意を払ってボストンバッグを開いた。この作業だけは、何度くりかえしても慣れることがない。指先が震え、全身が緊張する。それだけ、私にとってシャディクに隠し事をするというのは、負荷のかかる行為だった。
 このフロントにやってきた日、私が持ち込んだ私物はボストンバッグひとつだけだ。昼間はもともと用意されていたお仕着せを着ているし、下着のたぐいは日用品として支給されている。
 そうした細々としたものの調達は、おそらくミオリネさんが直々に携わっているか、もしくは信頼できる誰かに依頼しているのだろう。皮肉にも、ここに流されてからというもの、下着や部屋着のたぐいは以前よりずっといいものを使用するようになった。
 ボストンバッグに詰め込んできたのは、私服を数着と本が三冊、ゼネリ邸で書き記してきた仕事やマナーの覚書、そのほか、ほんのわずかな私物。そして、バッグの一番底に隠すように仕舞い込んできた、支給品のタブレット。
 回線が引かれていないので、この屋敷のなかで通信をすることは本来不可能だ。だが、このタブレットだけは違う。ミオリネさんとの雇用契約時に渡されたもので、彼女との連絡はすべてこのタブレットで行っている。どういう技術を用いているのか、この屋敷の中でも外部と同じように使用できる。
 タブレット内に保存された連絡先は、ひとつだけだ。メッセージアプリを起動して、唯一の連絡先である、ミオリネ・レンブランのプライベートアドレスを呼び出した。むろん私と直接連絡をとっていることが洩れるとまずいので、偽名で取得されたアドレスだ。
 画面に、空白の入力フォームが表示される。私は画面を操作していた指を止め、しばしその空白を眺めた。
 昔から、文章を考えるのは得意ではない。自分の考えていることを分かりやすくまとめることも、それを伝えることも、どちらかといえば不得手としていた。手紙を書く習慣もない。だが、これも仕事のうちだ。そう思い、筆不精な己をどうにか励ます。
 ミオリネさんからは、季節の挨拶も、まどろっこしい定型文もいらないと、最初に厳命されている。私は時間をかけながら、ほとんど箇条書きのような文章で、訥々と入力フォームを埋めていった。
 生活しながら屋敷内の修繕をすすめていること。大がかりなことはできないが、さいわいにして、ここでの生活では時間だけはたくさんある。仕事は探せばいろいろあるから、退屈するということもない。
 先月送ってもらった編み物の道具一式のおかげで、冬が来る前に防寒具を自作できそうなこと。
 と、そこまで打ち込んでから、防寒具のくだりをまるっと消去した。この文面だときっと、次の輸送便で上等な防寒具がこれでもかというほど送られてくる。注意深く文面を吟味し、結局、編み物の道具を送ってもらえたことへのお礼に止める。
「あとは……」
 ひととおり報告すべきことは入力した。文字を打っていた指を止め、私は視線を窓の外へと向ける。
 カーテンの隙間から差す、人工の光。地球やほかの主要フロントと同じ重力と、しっかりと固められた地面。そこに建てられた堅牢な古屋敷と、監視者の詰所。この人数が生活するだけなので、土地は明らかに余っている。
 このフロントでの生活を始めて二か月あまり。拍子抜けするくらい、日常は滞りなく流れている。
 生活のなかの些細な不便さは、もちろんある。だが、それらをミオリネさんに報告するつもりはなかった。ミオリネさんからの助けを求めているわけではないし、最初からこの僻地フロントで快適な生活を送れるとも思っていない。何より、シャディクが何も言わないのだ。主の沈黙をさしおいて、使用人の身分で物申そうとは思わない。
 一方で、生活が落ち着いたからには、もう少し心地いい生活を目指してもいいのかもしれないとも思う。ここでいう生活とは、なにも私の暮らしぶりを言っているのではない。女中として、我が主人であるシャディクの暮らしを、もう少し整えたいということだ。
 しばらく考えてから、私はフォームにささやかな依頼を書き入れた。文末には彼女と私にしか通じない、崩した文字でのイニシャルだけの署名を入れる。
 最後に内容をもう一読してから、メッセージを送信した。送信履歴から今しがた送ったばかりのメッセージを選び、消去する。タブレットの電源を切り、それをふたたびボストンバッグの奥底へと注意深く戻す。それらすべてを終えてから、私は長く息を吐き出した。

 *

 ある日の朝食後、
「ナマエ、ちょっとこっちへ」
 後片付けを終えたところ、居間のソファーに腰かけていたシャディクが、ちょいちょいと私を手招きした。呼ばれるままにシャディクのもとへ近寄ると、ここに座るようにと、シャディクが腰かけていたソファーを示される。
 三人掛けのソファーなので、ふたりで座ったところでぴたりと密着してしまうことはない。だが、そこはやはり主従関係があることもあって、隣同士に座ることにはうっすらと、それでいて抗いがたい抵抗感があった。
「立ったままで失礼いたします」
「座らないのか? どうして?」
「どうしてと言われましても」
「女中としての適切なふるまいというのは、俺の頼みを聞くことに勝る、という意思表明と受け取ればいいのかな」
「……主人が誤っている場合には、正道に戻られるよう尽力するのも、仕えるものの役目かと」
「きみが以前の職場で素晴らしい教育を受けてきたことはよく分かった」
 呆れたように笑うシャディクに、私は苦虫をかみつぶした顔をしてしまわないよう、努めて顔を引き締めた。
 このフロントで生活を始めてから二か月経つが、シャディクはゼネリ邸──彼にとっての実家のことを、あくまで「きみの職場」と表現することが多い。
 アスティカシアでの生活が三年と、その後ここに移るまでに四年。ゼネリ邸を出てからそれだけの歳月が過ぎたことで、もはやシャディクにとっては、ゼネリ邸は実家と呼ぶには遠い場所になってしまったのかもしれない。
 あるいは、単に重大犯罪を犯した罪人として、ゼネリ邸を実家と呼ぶことを躊躇っているのか。いずれにせよ、聞いている私としては、なんとも切ないような、胸が塞ぐ話だ。
 そんなことを考えていると、
「まあ、きみが俺の頼みを聞いてくれなくなったのは、今に始まったことじゃない」
 シャディクが聞き捨てならないことを言う。
「シャディク様のためになることでしたら、私は出来うる範囲で従っているつもりですが」
「だから、その『出来うる範囲で』っていうのが……」
 と、そこまで言いさして、シャディクは「やめよう。今はそんな話をしたかったんじゃなかった」と話題を引き戻した。
 シャディクはわずかに顔を上げ、横に立ったままの私を見上げる。うなじの後ろでゆるく結わえた髪が、シャディクに頭の動きに合わせ、彼の背で小さく揺れた。
「ナマエ、突然だが、今日はきみの休暇ということにしないか?」
 朗らかな声で唐突に差しだされた提案に、私は思わず眉根を寄せた。
「……すみません、ちょっと意味が」
 戸惑う私に一切かまわず、シャディクは穏やかで含むところのない──つまり、四年前にはあまり見なくなっていたたぐいの、素直な笑顔を浮かべている。
「意味もなにも、言葉のとおりだよ。俺たちがここに来て、もう二か月くらいは経つだろ? それなのに、きみはまだ一度も休みをとってない。これは由々しき問題だ」
「そもそも私の仕事は、生活と仕事の区別があいまいな仕事ですから」
「それでも、あの家で働いていたときには、労働の時間も決まっていたし、休日だってあっただろ?」
「それは……はい、そのようになっておりましたが」
「遅ればせながら、きみの生活に休日を設けようと思う」
 何を言い出すかと思えば。私はシャディクにばれないよう、胸のうちでこっそり嘆息した。
 私の仕事は住みこみで、基本的に衣食住は保障されている。とはいえ職業は職業だ。当然日々の働きに対し賃金は発生するし、規定に沿って休みをとりもする。ゼネリ邸で働いていたときには週に一度、決まった曜日に休みをもらっていた。
 休みの日はたいてい邸内の自分の部屋にこもり、のんびり読書をしたりぼんやりしたりと、休息をとることにあてていた。趣味というほどの趣味もなく、人付き合いも最低限に済ませていたから、休日に用事があることなどほとんどなかった。
 外出といえば日用品の買い出しか散歩くらいのものだったが、同僚のなかには、週に一度の休みを心待ちにしていた者もいる。前もって届けさえ出せば、外出はもちろん外泊も、それなりに自由で融通がきいた。
 また、ゼネリ邸は求められるスキルが高いぶん、給料も相場よりかなり高く設定されていた。今思い返してみても、ゼネリ邸は学のないアーシアンがつける職業・職場としては、破格の条件だったのだろう。
 今の生活でも、一応賃金は発生している。シャディクには話していないが、実のところミオリネさんとのあいだで交わされている契約書には、休日についてもきちんと規定されていた。週休一日。それが私の本来の勤務体制なので、シャディクのこの思い付きは、実際には正しい指摘といえる。
 だが、契約書には付記がある。
 フロント内でシャディクに付き添うのは、監視員をのぞけば私ひとり。すなわちシャディクの生活全般は、私にかかっているということになる。環境が環境だけに、どうしたって突発的なアクシデントもあるだろう。勤務時間だって柔軟に対応しなければならない。
 ゆえに契約書には、週休一日制はあくまで原則であって、実働日数や時間については現地で担当者──すなわち私が、裁量を持って判断することと付記されている。
 これまでの二か月は、その付記された内容に沿って働いていた。その結果、休日はなかったが、別になくていいとも思っていた。ここでの労働はあくまで生活の延長であるから、休日がなかったところで、まったく何の苦でもなかったのだ。
 当然ながら、この事実はミオリネさんへの報告では伏せている。今後明かすつもりもない。ミオリネさんはここでの生活ぶりを私からの個人的な報告書と、監視兵から上がってくる日報でしか知らない。だから私の勤務体制が契約書の抜け道を使っていることなど、絶対にばれようがないのだ。
 しかし、さて。問題は遠くのミオリネさんではなく、目のまえのシャディクだ。一体どのようにしてシャディクに納得してもらうべきか。私は内心で頭を抱えた。
 シャディクはそれこそ、私などよりずっと柔軟でしなやかな物の考え方をする人だ。だが反面、こうと決めたことには頑固なところがある。ついでにいえば、シャディクはその出自ゆえに、労働者の権利が守られていない現状に対してかなり強硬に、環境改善を主張してくるだろう。
 短い沈思ののち、
「お言葉ですが」
 私はゆっくり、はっきりと口を開いた。
「うん?」
「私は一日中働いているというわけではありませんし、適当に、ほどほどに、休んだりのんびりしたり、ゆっくりしたりしています」
「時々ソファーで寝落ちていたりね」
 即座にシャディクが混ぜ返す。いや、混ぜ返すというよりは、私の主張の補強をしているというべきか。援護射撃といえなくもない。その結果、恥ずかしい思いをしているのも私だが。
「ごほん、……あれは目を瞑って休息をとっているだけで、寝落ちていたわけではないですから」
「本当? 俺が何を言っても起きなかったのに?」
「何をおっしゃったんですか?」
「起きていたなら知ってるだろ?」
 意地悪なほほえみを浮かべるシャディクに、私は無言で視線を送った。かつて図鑑で見たことのある、地球で採れたパライバトルマリンという宝石と同じ色のシャディクの瞳が、にこやかに私を見つめ返している。私がむすりとしているのを面白がっているような、趣味の悪さとはうらはらな、爽やかそのものの笑顔だった。
「ははは、冗談だ。そんなに怒るなよ」
「……怒っておりませんが」
「じゃあ、拗ねてる」
「拗ねてもいません」
「それは嘘だな。拗ねてはいる。顔を見れば分かるよ」
 あまりに楽しそうにいうものだから、反論する気もなくしてしまう。口をつぐんだ私を見て、シャディクは満足そうにうなずいた。
「それに、今はナマエに休息をとってほしいという話をしているわけだから、きみが寝落ちているのを咎めたりしないよ」
「本来なら、そもそも女中の身で主人と同じソファーを使用しているのが、おかしいのですけれども」
「そうしてほしいと俺が言ったのを、また蒸し返すのか」
「いえ、けしてそのようなことは」
 今度は自分でも、声が拗ねているのが分かった。ごほんと咳払いをして誤魔化すが、シャディクのことだ。誤魔化されてくれてはいないだろう。
 ここで暮らし始めた最初のころに、私とシャディクは生活するうえで守るべきルールのようなものを、話し合っていくつか決めた。互いに相手の私室に入らないことや、家事の分担について、その他おおまかな一日のスケジュールなどがそのルールにあたる。
 それほど細かい取り決めではない。絶対に守るべきプライバシーに配慮したルール以外は、生活するうえで決めていた方が便利だからという程度の、いたってゆるいものだった。
 そのとき決めたなかに、屋敷内の家具や設備、物品は私もシャディクも同じように使用していいというルールも含まれていた。
 言い出したのは、もちろんシャディクだ。あくまで女中としての振る舞いに徹しようとしていた私に、できるだけ対等に暮らしてほしいとシャディクは言った。そうしてくれなければ、自分もいたずらに気を遣ってしまうから、と。
 そうはいっても、長年の女中生活で、使用人としての立ち居振る舞いが身に染みついている。そのルールに従うのは難しい、と何度もくりかえし伝えたが、最終的にはシャディクの意見が通った。あくまでシャディクが使用していないときに限り、という私の出した条件だけは、どうにか無理やり呑んでもらったが。
「まったく、隙あらば文句を言ってくるんだから困ったもんだ。俺はただ、俺とナマエとのあいだにある、主従関係の緩和を目指しているだけなのに」
「主従関係を緩和されては、私がここにいる意味がなくなってしまうじゃないですか……」
「俺はそうは思わない。別に俺は、世話をしてほしいからきみにいてもらいたいとか、そういうつもりはないよ。それに、そもそも今ナマエがここにいるのは、俺の意志と関係ないじゃないか」
 返答しにくい話をまさかここで蒸し返されると思わず、私は返答に窮し黙りこんだ。それを好機と見て取ったのか、シャディクは機嫌良さそうな調子でぬけぬけと言う。
「それにしても、あの時は驚いたなぁ。まさか宇宙港のプラットフォームで、きみが待っているとは思わなかった」
 シャディクが言っているのは、彼がこのフロントに移送されるため、宇宙港で連絡艇に乗り込む直前のことだった。

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