前日譚/二つの心臓


 引いたままになっているやさしい青緑色のカーテンが、空調の風にあおられて、窓辺で控えめに揺れていた。ドアの向こうから、ヒールを床に打ち付けるように、勢いよく駆けてくる足音が聞こえてくる。
 足音の主は、顔を見るまでもなくはっきりしていた。
 ほどなく、思った通りの人物がドアを思い切り開く。安全のためゆっくりとしか動かないドアが、もどかしげに、力任せに抉じ開けられる。
 勢いあまって、転がり込むように病室に飛び込んできた、その人物──ミオリネさんは、病衣姿で医療用ベッドに背を預ける私を見るなり、その清らかなかんばせを、くしゃりと悲しげに歪めた。
 おそらく、事情を知って大急ぎで駆けつけてくれたのだろう。いつもはきれいに整えられている銀髪が、ところどころ乱れていた。
「ごめんなさい」
 それはひどく苦しげな、絞り出すような声音だった。
「あなたに、こんなことを強いるはずじゃなかった」
 入室してきたときの勢いはすっかり萎んでしまっていた。よろめくようにベッドサイドに近寄ると、彼女はその場にしゃがみこむ。ミオリネさんの視線が、私よりも少しだけ低い位置にあった。
 布団の上に投げ出した、点滴のくだがつながる私の手を、ミオリネさんはそっと弱弱しくとって、きゅっと握りこむ。
「こんな、こんなこと……間違ってる……」
 うわ言のように呟いて、彼女は握った私の手を、そっと静かに持ち上げた。私の身体を気遣っているのか、ゆっくりとした動作。そうして私の冷たい指先を、ミオリネさんは自分の額に押し付けた。
 そのポーズはまるで、祈るべき神の前でひざまずき、懺悔しているようにも見える。しかしミオリネさんには、懺悔すべき罪などひとつもない。少なくとも、私に対しては。だからそんなポーズは、ミオリネさんにはまったく似合わない。
 地球で生まれた孤児だから、私は神がいないと知っている。ひとを救うのは神ではなく、経済的な支援と血反吐を吐く努力、あるいはただ、運。それだけだ。
 それでももし、今の私にとって地上の神と呼べる存在がいるのなら、それにもっとも近いのは、他の誰でもないミオリネさんその人だった。
 ミオリネさんは私に、人生を賭けて進みたい道を示してくれた。同士であり、神様みたいなひと。
 シャディク坊ちゃまとはまた違う、特別な運命と才覚を持ったひと。
 神は、人間の前で膝をつくべきではない。
「顔を上げてください、ミオリネさん」
 うつむくミオリネさんの肩が震えた。つむじしか見えない彼女が、一体今どんな表情を浮かべているのか、それでも私には何となく分かるような気がする。
 シャディクの流刑に随行するため、必要な手術を受けたのが昨日。もはや私の肉体は、取り返しがつかない変化を経験していた。
 調子がいいとは、冗談でも言えないような状態だ。腕には点滴針が刺さっているし、経皮モニターと心電図は常に私の状態を監視している。痛み止めがきいているから、かろうじて今は話ができる。昨晩はろくに眠れもしなかった。
 そんな有様ではあったけれど、不思議と気分は悪くない。自分のすべきことをした。そう考えれば、後悔も不安も感じずに済んだ。
 先走った選択をした私を、ミオリネさんは叱るだろうか。想像してみると、それは少しだけ、いやかもしれない。
 けれど今のところ、ミオリネさんは叱るよりも、悲しむことに忙しいように見えた。怒られたくはないと思ったものの、私がそれでいいと思っていることに対し、ひたすら嘆き悲しまれるというのは、それはそれで堪えるものがある。
「ええと……ミオリネさんが、落ち込まれる気持ちも、分からないではないというか……逆の立場だったら、私もたぶん、落ち込むと思うん、ですが」
 言葉を紡ぎながら、ミオリネさんの様子をうかがった。顔を伏せた彼女は、身じろぎひとつせず、私の話を聞いているのかも分からない。
「あの、でも……全部、私が決めたことですから。怒ったり悲しんだりするのをやめてほしいとは言わないのですが、私のためのものでしたら、なんというか……大丈夫です」
 痛み止めが回っているのか、頭がうまく働かなかった。言葉はいちじるしくまとまりを欠いている。
 のろのろと、ミオリネさんが顔を上げた。曇った目でこちらを見た彼女の、まなじりと、それから鼻のあたまが、ほんのりと赤く染まっていた。
「だけど、これじゃあ、」
「あのひとのために生きられるのなら、大丈夫ですから」
 みなまで聞かず、返事をした。
 ミオリネさんの指示をあおがず、勝手な選択をした。そのことは、叱られても仕方ないと思う。けれど、その結果として我が身に起こったことに関しては、私はまったく、反省も後悔もしていなかった。
「本当に、憐れまれるようなことは、ひとつもないんですよ。ミオリネさん」
 はたしてこれが、ミオリネさんの言葉への返事として正しいのか、それは自分でも分からない。けれど、かりに時間が巻き戻ったとしても、シャディク坊ちゃまのためにそうするしかないと言われれば、私は何度でも、迷うことなく指示に従うだろう。
 その選択が一般的に考えて間違っているというのなら、別に間違ったままでかまわなかった。どのみち私は、シャディク坊ちゃまにとって正しい道しか選べない。
「あのひとのために生きて死にたいと、ずっとずっと、そう思って生きてきたんです。一度はもう無理かもしれないと、諦めかけたその願いに、ミオリネさんが叶えるチャンスをくださった」
 ミオリネさんから株式会社ガンダム本社に呼び出された日から、すでに半年近くが経過していた。フロント内の季節はうつろって、私はもうゼネリ邸で働いてもいない。
 あと半年でシャディク坊ちゃまに会える。
 あと半年で私の願いが叶うところまで来た。
 すべてを投げうって、苦手な勉強もして。
「だから、これでいいんです。シャディク様のそばにいられるなら。そのためなら、何を失っても、何を奪われても、何を捨ててもかまわないと、私が自分の意志で、そう決めましたから」
「……いいわけないでしょ」
「いいんですよ。これでやっと、シャディク様のお役に立てるのですから、よかったです。だからミオリネさん、ありがとうございます」
 ベッドの上に腰かけたまま、私は浅く頭を下げた。腰ごと曲げると、手術で切った部分がひどく痛む。だから浅く、首を傾ける程度の礼しかできなかった。
「顔、上げてよ」
 短い沈黙ののち、ミオリネさんが溜息を吐く。言われたとおりに顔を上げると、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな表情をするミオリネさんと目が合った。
 きれいだな、と思う。そこにいたのは、私が失ったものを思い、嘆いていた彼女ではなかった。
 私とミオリネさんは、契約をかわした瞬間から、表裏一体の運命共同体だ。だから私が何かを失えば、そのぶんだけミオリネさんにも痛みが生じる。身体の痛みではなくて、それは目に見えない、心の痛みとなって彼女の心を苛むこととなる。
 けれど、ミオリネさんは私なんかより、ずっと強い人なのだ。だからもう、失ったものを思いながらも、この短時間で腹をくくって進むことに決めている。
 決意が瞳に浮かんだミオリネさんは、同性の私が見惚れてしまうほどに、決然としていて凛々しかった。
 ミオリネさんはゆっくりと、私の手を握っていた手のひらをほどく。体温でぬくもったシルバーリングが、天井の照明の光を受け、ちらりとささやかな瞬きを発した。
「ばかよ。何なのよ、あんたたち、二人とも」
「ばかですか。たしかに、ミオリネさんから見たら私なんて、とんでもないばかかもしれないですね」
「そうよ。ばか、大ばか」
 そうして彼女は腰を上げると、そのままゆるく私の肩を両腕で抱きしめた。抱擁と呼ぶにはよそよそしく、励ましというには親密だ。まるで私とミオリネさんの距離を、そっくりそのまま写し取っているような、ごく短い動作だった。
 ミオリネさんはすぐに、私から身体を離す。首をひねって見上げれば、彼女はすでに表情を引き締め、私を見下ろしていた。そこにはもう、痛ましげに表情を歪めていた彼女はいない。
 ふう、とミオリネさんが息を吐く。それが彼女なりの仕切り直し、頭の切り替えであることは、この半年の付き合いで私も覚えていた。
 指先をこすり合わせていないのは、すでに彼女が迷いの段階を通り過ぎたから。ここまで来てしまえば、ミオリネさんはただただ頼もしい。
 ナマエさん、と私を呼んだ彼女は、すでに立派なビジネスパーソンの顔をしていた。
「まずは、謝罪をさせてください。いえ、不要だなんて言わないで。これは契約になかったことだもの、謝罪するのが筋ってものです。私を通さずこんなことになってしまった、この事態への補償は必ずさせてもらう。どこからあなたの情報が漏れたのかも、出発までにははっきりさせる。だからナマエさんは安心して療養して。これから出発までの生活のサポートも、万全を期す。そして万難を排して、あなたをあいつのもとに送り出す」
「たいへん頼もしいです」
「当たり前」
 不敵なほほえみ、とはとうてい言えない、眉の下がった笑顔。それでも彼女の決意はじゅうぶんに伝わった。もとより私は自分にできること、自分にしかできないことを粛々とこなしていくのみだ。この手術と入院生活も、その一環だととらえているから、そこまで気落ちはしていない。
「ただ、気になることがあるとすれば、私ではなくあの方に、危険が及ばないかということだけです」
 私が言うと、ミオリネさんは難しい顔でうなずいた。
「そうね。禁錮のうちはいいけれど、出発にさいして警備が甘くならないよう、じゅうぶん注意しておかないと」
 こたえる声も、深刻さを帯びている。
 世間にはまだ、シャディク坊ちゃまの今後の処遇に対し、明確に関与しようとしている人物、あるいは組織、勢力が存在する。嫌な言い方ではあるけれど、坊ちゃまにはまだ『使い出』があるということなのだろう。
 今回ミオリネさんの目を盗み私に接触してきた人物は、それらの勢力を牽制する目的で私に近づいた。立場としては、ミオリネさんや旦那様──サリウス・ゼネリの『味方』になるのだろう。
 ミオリネさんに事前の連絡がなかったのは、この手術計画を知られれば、ほぼ確実にミオリネさんからの反対をくらうから。シャディクをめぐる諸勢力図を見るかぎり、ミオリネさんの側もけして一枚岩とは言いがたい。
 そもそも、牽制が必要になっているという時点で、不穏分子を無視できない状況に陥っているともいえる。
 今はまだ坊ちゃまは厳重な監視下に置かれているから、誰であろうと、どうあれ易々と接触することは不可能だろう。坊ちゃまを担ぎあげるにしても、害そうとするにしても、接触してくるなら禁錮が解かれたそのあとだ。
「気になることはあるけど、でも、ここまできたらもう後戻りはできない。私が提示して、ナマエさんが選んだ道よ。最後までお互い、自分の担うべき責任を果たしていきましょう」
 その言葉に、私はまた浅く頷いた。
 残すはあと半年。その半年を、できる限り有効に使わなければならない。半年後にシャディクの前に出たとき、心残りがひとつもないように。少しでもシャディクのこれからの人生に、有用な支えとなれるように。

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