前日譚/灰白色の個体番号 V


 ミオリネさんの視線が、私のうつむきがちな顔に、じっと注がれていた。やがて彼女は何を思ったのか、短い沈黙ののち額に手をやり、苛立たしげにうめいた。
「ごめんなさい、別にあなたをいじめたいわけじゃなくて」
 ナマエさん、と。きっぱりとして、凛とした響きをともなって、ミオリネさんが私の名前を呼ぶ。
 シャディクのつけてくれた、私の名前を。
「単刀直入に聞くけど、あなた、この先シャディクに一生尽くすつもりはある?」
「……え?」
 思いがけず掛けられた言葉に、私ははっと顔を上げた。そのまま、ミオリネさんから視線をそらせなくなる。
 今、彼女は何と言ったか。今しがたミオリネさんから掛けられた言葉を、私は頭の中で一言一句たがわず繰り返した。
 ──あなた、この先シャディクに一生尽くすつもりはある?
「そ、そんなの……」
 答えた言葉は、はたして声になっていただろうか。呆然としていた私には、そんなことすら、はきとは分からなかった。それに、たとえ声になっていたとしても、おそらく無様に震えていたことだろう。
 私は今日はじめて、しっかりとミオリネさんを見つめた。私の瞳にうつるミオリネさんは、一切の躊躇なく私の視線を受け止めて、堂々と真っ向から私を見つめ返す。
 視線がきつく、絡みあう。けれどそこに、火花が散るような熱はない。反対に、この手が届かぬものを眺めるような無機質な冷ややかさも、そこにはない。
「勘違いしないで。私はあなたに、何かを強要するつもりはない」
 ミオリネさんの言葉が、静かに私の中に沁み込んでくる。
「これから言うことは、すべて私の社会的な立場から発するものであって、もしも話を受けてもらえるというのなら、その場合正式に会社として契約を交わすことになる」
 だけど、とミオリネさんは続けた。
「ナマエさんにそのつもりがないなら、これまでもこの先も、シャディクとは無関係だというのなら、この話はこれで終わり。あなたはこの先一生あいつに会うことはないし、これ以上心乱されることなく生きていけるかもしれない。だけど、もし、あなたにその気があるのなら、」
「あ、あの」
 話の途中だったにもかかわらず、堪らず私は口を開いていた。目上の人間の言葉を遮るなど、とうてい許されることではない。けれど、これ以上はもう、黙って聞いてはいられなかった。
「ひとつだけ……、ひとつだけ、確認させていただいてよろしいでしょうか」
 うなずきひとつで先を促され、ごくりと私の喉が鳴る。身に染みついた躊躇いが、声を発する邪魔をした。
「ミオリネさんが、この後口になさるかもしれない話を、……シャディク坊、いえシャディク様、は……お望みなのですか?」
 聞きたいのは、それだけだった。
 彼が直々に、私を求めてくれているのか。
 ミオリネさんは、その仲介をしているのか。
 もしもそうなのだとしたら、私にとってこれは、思考する必要すらない提案だ。シャディク坊ちゃまに求められれば、私に否やがあるはずない。彼の役に立つことより大切なことなど、あるはずがない。シャディクより優先される生き方などあるはずもない。
 私の思考も意志も、まるで必要とされない。
 けれど彼女は、
「いいえ」
 きっぱりと、私の言葉を否定した。
「シャディクは何も知らない。シャディクだけじゃない。このことはまだ、私以外にはほとんど誰も知らないはず。もちろん、あなたに声を掛けるにあたって、ある程度の情報収集はしているし、その過程で察しているやつはいるかもしれないけれど。でも、まだ極秘の話であるのは本当。シャディクすら知らないというのも本当。だから、この先はあなたが決めるのよ。シャディクじゃなく、ナマエさん。あなたが、自分の意志で」
 私の内面を見透かすような明るいグレーの瞳が、私の答えをじっと待っている。
 胸の奥が、かすかにざわめいた。
 シャディク坊ちゃまに強いられるのではなく、私の意志ですべてを決める。そんなことが、私にできるだろうか。記憶にあるかぎり、私はいつでも彼の掌に導かれ続けてきたのに。
 胸のなかには、たしかに昏い落胆がある。シャディク坊ちゃまに必要とされたわけではなかったのだという、身勝手な落胆。その落胆が私に言う。シャディクの意思をあおがず勝手なことをして、シャディクに嫌がられたらどうするのだと。
 シャディクに嫌われ、拒まれる。想像するだけで、足もとの地面がなくなってしまうことのように、とてつもなく恐ろしい。身体の芯から震えがおこる。
 けれど──迷いはすぐに、振り切れた。
「シャディク様のためにできることがあるのなら……その役目を、私に任せていただけるというのなら、私は地獄に戻ってもかまいません」
 はきと言い切った私に、ミオリネさんが眉根を寄せる。
「……いちいち怖いんだって。あんたたちの決意表明」
 その物言いに、張りつめていた気持ちがゆるんだ。「なんだ、普通に笑えるんじゃない」とミオリネさんに微笑まれる。ああ、たしかにと、そう思った。そうして、笑ってしまった自分を思い、泣きたいような気分になった。
 誰かの前でこんなふうに笑ったのも、あの晩を過ごしてからはじめてのことだった。シャディクによって損なわれたものが、別の誰かの手で埋められてしまう。そのことが、切なくて悲しい。
 ミオリネさんは、ふうと息を吐き出した。ここまでの遣り取りは、すべて私がミオリネさんの申し出を受けるまでの、前段階に過ぎない。紅茶で口を湿らせると、彼女はいよいよ本題を切り出した。
「シャディクの公判が近々すべて片付くのは知っている?」
 私はひとつ、うなずく。女中といえどもニュースのチェックくらいはする。
「そう、知っているのなら話は早いわ。まだオフレコの話だけど、この後シャディクは一年の禁錮ののち、ベネリットグループ所有の無人フロントに移送され、そこで生涯幽閉されることになる。古めかしい言い方をすれば、島流し。流刑ね」
 薄々察していたことだったので、驚きはしなかった。ミオリネさんの言葉によれば、シャディク坊ちゃまは本来、極刑になってもおかしくないだけの罪科を背負っている。だが、この宇宙から死刑制度が廃止され、すでに久しい。
 となれば、終身刑、あるいはそれに準ずるだけの刑罰を与えられるだろうことは、容易に想像がついた。幸か不幸か、宇宙には罪人を送るのに相応しい場所がいくつもある。
 過酷な重労働を課されるのか、あるいは文字通り島流しなのか。シャディク坊ちゃまならばおそらく、どのような土地であろうと、それがたとえ地獄であったとしても、きっと受け容れるだろうのだろうが。
「無人というのは、本当にまったく、人が暮らしていないということですか」
「かつてはリゾート地として使われていたらしいけど、今はまったく、文字通りの無人フロント。もちろんシャディクを送り込む前に、最低限の住環境の整備はする予定だけど、その後も監視と最低限の身の回りの面倒を見る人間以外は、誰もつけない」
「私に、その面倒を見る役を任せていただけるということですね」
「そういうこと」
 なるほど、そういうことならばと得心がいった。
 無力で丸腰のシャディク坊ちゃまをひとり無人フロントに送り込んだところで、それは婉曲的な死刑にしかならない。流刑というのであれば、最低限その地で生きていくだけの準備は必要だ。
 本来ならば、シャディク坊ちゃまの側近の誰かが選ばれるところなのだろう。だが、彼女たちは刑期が明けても、坊ちゃまと接触することを許されていない。反対に、シャディク坊ちゃまと無関係の人間から世話係を選ぶのも、それはそれで何かとリスクが大きい。
「いい? あなたにはこれから、シャディクの禁錮がとけるまでの約一年みっちりかけて、徹底的に僻地生活の準備をしてもらう」
「シャディク様のお世話をつつがなくできるように、ということですね」
「は? そんなわけないでしょ」
 私の返事に、ミオリネさんが呆れた顔をした。戸惑う私に向け、ミオリネさんはびしっと人差し指を突き付ける。礼儀もへったくれもあったものではない。
「分かってる? シャディクが無人の土地に流されるということは、あなたも同じように無人の土地で、誰を頼りにもできずに生活するってことだよ。あなたが現地で困ることがないよう、家事や簡単な大工仕事はもちろん、災害時の対応や応急処置、非常救難要請の出し方まで、必要な知識と技術はすべて、隅から隅まで修得してもらうから。もちろん講師はこちらで用意するわ。あなたは、とにかく準備と技術習得に励んで。シャディクだけじゃない、ほかの誰でもないナマエさん自身が、ちゃんと生活できるように」
 ミオリネさんは、真に私の身を案じている。そのことが、言葉の端々から伝わってくるようだった。それと同時に、考える。もしかして彼女は、本当なら自分自身でこそ、シャディク坊ちゃまに寄り添い続けていたかったのではないだろうか。
 ミオリネさんの薬指の、シルバーリングに視線が落ちる。
 彼女には背負うものがたくさんあって、手を握り合う人間もそばにいる。望むものがどれだけたくさんあったとしても、全部を手に入れ、叶え続けることは不可能だ。天秤のどちらか片方しか、いつだって人は選べない。ミオリネさんほどの人ですら。
 シャディク・ゼネリというひとりの男を挟んで、私とミオリネさんはきっと向かい合ってきた。いや、私が一方的に、シャディク坊ちゃまを通してミオリネさんを見つめてきた。
 けれど今、私の胸のなかには優越感も、敗北感すらも存在しなかった。きっとミオリネさんも同じ気持ちでいるのだろうと、不思議と心の底からそう思える。だからこそ、彼女は私を選んだし、ここに呼び出し、道を提示してくれた。
「シャディクのそばで、きちんと自分も生きること。それが私からあなたに託す、最初で最後の、たったひとつの仕事の依頼」
 分かった? と問いかけられ、私は深くうなずいた。
「つつしんで、お受けいたします」
 その返事をもって、今日の会合の本題はすべて終了となった。
 ミオリネさんが、深く長く息を吐き出す。私は目の前のテーブルに置かれたカップを手に取り、残っていた中身をすべて飲み干した。紅茶はすっかり冷めていたけれど、風味はかすかに残っていた。
 ミオリネさんが姿勢を正し、手元のタブレットを操作した。それから視線を私に戻すと、さくさくと事務連絡に取り掛かる。
「じゃ、今日のところは以上よ。詳細と電子契約書は追って送るからそのつもりで。ああ、あなた用のタブレットも手配しておく。次回からは連絡はそれを使って」
「ありがとうございます」
「あと、この件にかんしては、今はまだ周囲には話さないようにお願いね。準備期間と仕事の両立が難しければ、退職を早めてもらわないといけないかも……。どうしようか。出発までの住居や生活の手立ても、必要であればこちらで用意するけど」
「お気遣いありがとうございます。仕事は……少し、様子を見て考えても大丈夫でしょうか」
「そうね。こちらからもできる限りのフォローはするから」
 一度こうと決まってしまえば、話はどんどん進んでいく。あっという間にこまごまとした話まで詰められていくのを他人事のように受け止めながら、私は確信した。
 ミオリネさんはおそらく、私がこの依頼を受けると分かっていたのだ。承諾後の話がスムーズに進むのは、すでに入念な準備が始まっていることの証左だ。
 ミオリネさんも、シャディク坊ちゃまのためにできることを模索しているのだろう。世話人の人選から、これからの一年に掛けるコストの負担、さらにはその先に起こりうるあらゆる問題への対策を考えること。坊ちゃまをそばで支える役目を私に託したミオリネさんは、見送る立場として委ねられた役目に対し、最善を尽くしている。
 だいたいの話が済んだところで、私は「最後に、ひとつだけ」とミオリネさんに質問を投げかけた。聞きたいことも頼み事も、何でも言っていいことになっていたはずだ。
 ミオリネさんは「なに?」と首を傾げた。
「僭越ながら、ただシャディク様の生活をお支えするというだけの役目なら、私より適任がいくらでもいたはずです。たしかに私はシャディク様と縁がありますし、邸の中の細々とした家事にも慣れています。ですが、縁の深さには悪い面もあるでしょうし、女中としては特別抜きんでているわけではありません。それなのに、ミオリネさんはどうして、私をお選びになったのですか」
 私はあえて、言葉を選ばなかった。どのように取り繕ったとしても、結局は人選を担当したミオリネさんに、難癖をつけていることには変わりない。
 それならば下手に遠回しな物言いをするより、率直に聞きたいことを聞いた方がいいと思った。その方が、的確な答えが返ってくるはずだ。
 ミオリネさんは焦るでも怒るでもなく、淡々と私の問いに答えた。
「もちろん、候補はあなた以外にも何人かいた。というか、本来私がリストアップしたなかに、ナマエさんはいなかった。ま、そう簡単に目につく場所にナマエさんはいなかったわけだからね。これに関しては、さすがシャディクと言わざるを得ない」
「でも、」
「うん。だから本当のことを言うと、あなたを見つけたのは私じゃない。シャディクに随行してもらう世話人を探していた私に、あなたを紹介してくれた人がいたのよ」
 そう言ったミオリネさんは、何故だか少しだけ悔しそうな表情で微笑んだ。
「その人は、女中をつけるのであれば、ぜひナマエ・ミョウジに、とあなたを強く推薦した。それで、まあ鶴の一声というわけでもないけど、そのあと個人的にあなたの経歴を確認して、私もあなたがいいと思ったから」
 ミオリネさんの声に耳を傾けながら、私の胸にはあたたかな感情が満ちていく。もう何年ものあいだ、ただ闇雲に遠いだけの存在だと思っていた人物の顔が、今はっきりと脳裏に浮かんでいた。
 私の仕事ぶりを知っていて、私がシャディク坊ちゃまと深い知り合いだということも知っている。さらには、こんなにも重大な秘匿人事を任されたミオリネさんに、すべてを知る立場として、強く進言できる人間。
 ミオリネさんが、優しい声音で続ける。その声はまろくて、あたたかで、けれどどこかさっぱりとしたものだった。
「私にはまだ親心なんて全然分からないけど。でも、あなたとシャディクに関しては、いろいろと思うところがあったんでしょう。あなたを強く推したのは、サリウス代表だから」

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