よくある孤独


 夕食時、今日の監視兵の詰所でのやりとりについて、シャディクにも話をした。むろん、無精ひげの男からの無礼な態度については、いっさいふれないことにする。シャディクにはただ、タヴァという青年が明日の午後、天井裏からの家具の運搬を手伝ってくれることになった、とだけ説明した。
 大きめに切った野菜がごろごろと入ったシチュ―は、豪勢な食事とはいいがたいが、昔なつかしい風味に仕上がっている。シャディクにしてみれば、昔なつかしい味の料理など食べたくもないのだろうが、あいにく私の献立レパートリーは、孤児院で提供されていたような料理と同レベルだ。ゼネリ邸には料理人がいたため、女中であった私が料理をあらためて覚える機会はなかった。
 このフロントに来る前の一年は、新生活のためにと与えられた、いわば準備期間のようなものだった。その期間のあいだに、私はこれまで学んでこなかった料理や、そのほか必要な技術の習得に励んだが、それも万全というわけではない。一年という期間はぞんがい短く、さらにはその期間のすべてを、フロントでの生活の準備にあてられたわけでもなかった。
 私の料理の腕はけして熟達しているとは言い難い。しかしシャディクは今のところ、つくったものは何でも美味しいと言って食べてくれる。私よりも舌が肥えているはずのシャディクだが、それでも根っこにある感覚は私と変わらないのかと思えて、私としては少しだけほっとする。
「それにしても、本当に監視兵に協力の約束を取り付けてくるとは」
「シャディク様のご指示に従わず、勝手な判断で動いてしまい申し訳ございません」
「謝る必要はない。というか、もう何度も言っていることだけど、いい加減その主従関係もやめていいくらいだよ」
「……これはもう、身に馴染んでしまったものですので」
 ああ、とシャディクが溜息に似た声を漏らす。
 実際、シャディクが「坊ちゃま」になってから、すでに十年以上が経過している。迂闊に親しげな態度をとらないよう、女中として働き始めて最初のうちに、主家の者にとるべき態度は徹底して仕込まれた。
 だが、私がこうしていつまでも女中としての態度を崩さないのは、それ以外の接し方をもう忘れてしまったからでもある。今更、女中以外にどんな顔をしてシャディクに相対すればいいのか、私には想像もつかない。
 この生活が今後長く続いていけば、もしかしたらシャディクと私の新しい関係も、あるいは私が彼に対してとるべき態度も、自然に定まっていくのだろうか。
「ナマエ、シチュ―が冷めてしまうよ」
 いつのまにか物思いにふけっていた私に、シャディクがやさしく声を掛ける。はっとして、私は慌てて食事を再開した。
 ちなみに、形ばかりの主従でありながらこうして食事をともにしているのは、シャディクにそうしてほしいと請われたからだ。
「毎日一日三食、俺はずっとひとりで食事をするのか? どうせ誰も見ていないんだから、一緒に食事をすればいいじゃないか。その方が後片付けも楽だろ?」
 シャディクにそう言われれば、従わないわけにはいかない。そんなわけで、私は現在十年以上ぶりに、シャディクと食事をともにする日々を送っている。
 嬉しくないと言えば、嘘になる。
 一日の終わりに、その日あったたわいない出来事を、シャディクと話題にできるというだけで、私にとってはこれ以上ないほどの贅沢だ。夢ではないのかと、不安になりさえするほどに。
 そのシャディクとの生活を、整えるためにできることがあるというのなら、私にできることは何でもするつもりだ。そう考えると、タヴァが言っていた「生活を整えるのは大事」というのも、まさしくその通りなのだった。
 監視兵であるタヴァは、シャディクと直接口をきくことが禁じられている。明日の午後のタヴァへの対応は、私が担うことになる。
「家具をおろしている間、シャディク様はいかがなさいますか?」
「いかがというのは」
「作業が終わるまでお部屋でお待ちになりますか? それともご自身で立ち会われますか?」
 こうした力仕事の作業に、わざわざ主人が立ち会う必要はない。だが、シャディクの現在の立場は微妙だ。タヴァならば、シャディクが顔を出さなくても何も思わないかもしれないと思う反面、同じフロントで暮らす者同士、最低限の礼儀は果たすべきとも思う。そこはシャディクの判断次第だ。
 ふむ、とシャディクは思案するように視線を一瞬、さまよわせる。しかし迷うというほどのこともなく「いや、俺も手伝うよ」と答えを決めた。
「口さえきかなければ、一緒に家具をおろすくらいはいいだろう。いくら相手が力自慢の兵士であっても、さすがにあれだけの家具をひとりで下ろすのは無理だろう。何より、俺のために手伝いに来てもらうんだから、俺が働かないと面目が立たないじゃないか」
「一応、明日は私も手伝うつもりでいますが」
「……こう言っちゃ悪いが、きみが手伝うよりは俺が手伝った方が、よほど役に立つと思うよ」
 それは、まあ、そうなのだろうが。自分の腕っぷしの貧相さは自覚している。
 シャディクの言葉には道理がある。だから不服げにしたつもりはなかったのだが、シャディクは「むくれるなよ」と眉を下げ、私に向けて笑った。
「まあ、いいじゃないか。適材適所ってやつさ」
「シャディク様に力仕事が向いておられるとは思えませんが……」
「たしかに今は少し筋力が落ちているね。だが、きみよりは非力じゃないはずだ」
「それは、そうでしょうが……」
「きみにはおろした家具を手入れしたり、どこに何を置くかの指示を頼むよ」
 結局はいつも通り、うまくいなされ、丸め込まれてしまう。
 反論の言葉が尽きた私は、もそもそとシチュ―を咀嚼した。口の中でほぐれたじゃがいもを、必要以上に何度も噛み締める。
 そんな私を見て、シャディクはかすかに目を細める。そして、「それに」と何気ない調子で付け加えた。
「監視兵たちには、今後のことを考えても、少しでもいい印象を植え付けておきたい。力仕事をきみに任せてふんぞり返っているような男に、一体どうして好意的になれる?」
 その言葉に、指先がこわばる。期せずしてそれは、昼間に無精ひげの男から掛けられたのと同じ言葉だった。
 やはり、監視兵とは友好とまでは言わずとも、いい関係を築いていった方がいいのだ。当たり前のことを、今更のように再実感する。
 もちろん、媚びるようなことをするつもりはない。シャディクにそんなことをさせる気もない。だが、ものには程度というものがあるわけで、こちらからの多少の譲歩が必要なこともあるだろう。何せこちらは、監視兵に融通をきかせてもらう立場なのだから。
「さっき伝えた仕事以外にも、きみには通訳としても働いてもらわなければならないから、よろしく頼むよ」
 仕事をさらりと任されて、私はまだ完全には納得していないながら、不承不承うなずいた。

 翌日の昼過ぎ、約束どおりタヴァは屋敷にやってきた。正面からではなく裏口からやってきたのは、自分が客ではないという自覚があるからか、それとも自分がシャディクの住まいに正面から訪問するのはまずいと思ってか。
「今日はよろしくお願いします」
 頭を下げてそう言うと、装備をおろして軽装になったタヴァは「大事な調度品をぶつけないように気を付けます」と屈託なく笑った。
「今日のことは、あの上官のかたには」
 私が尋ねると、タヴァは困ったような笑顔で言う。
「一応伝えてあります。勝手にしろと言われて……、ああ、でも要するに自分の思う通りにしろ、己を信じろということですからね。隊長、根は悪い人じゃないんです」
「そうですか……?」
 それは、見切りを付けられているだけなのではないだろうか。そう思ったが、あえて口には出さなかった。タヴァが前向きにとらえているのなら、わざわざ私が口を出すことでもない。
 取り留めのない話をしながら、早速タヴァを目的の物置へと案内することにした。その前に、まずは居間で待っていたシャディクにタヴァを引き合わせる。
 シャディクはタヴァの姿をみとめると、すっと背すじを伸ばしてから、深く頭を下げた。言葉をかわせない分、丁寧に感謝の気持ちを示しているのだろう。
 タヴァも慌てて頭を下げる。その動きが、昔孤児院で一緒だった子どもが持っていたばね仕掛けの人形を彷彿とさせるものだったので、思わず小さく噴き出した。途端、シャディクとタヴァの視線が一斉に私の方を向く。
「んっんん、……失礼いたしました」
 咳払いで誤魔化したが、誤魔化されてくれたのは、多分タヴァだけだった。というより、これで誤魔化されてくれるのはタヴァくらい、というべきか。
 気を取り直して、三人で物置へと向かった。もともとがらんとした屋敷内ではあるが、今日は家具の運搬のため、廊下に一切ものを置いていない。また居間の窓はすべて開け放ってあり、必要があればそこから庭園に出て、家具を干せるようにしてあった。
 庭園はといっても名ばかりで、現在は何の植物も植わっていない。そのうち余力ができたら、簡単な野菜を栽培したり花壇をつくったり、そういうことをしてもいいかもしれないと、夢想している程度だ。
 廊下を歩いていると、タヴァが「ナマエさん」と声を掛けてくる。前を歩くシャディクに聞こえないようにか、わずかにひそめた声だ。話の内容は、もちろんシャディクに関するものだった。
「シャディク……さんは、いつもあのような感じですか?」
「あのような、というと」
 さだまらない呼び名に気付かないふりをして問い返す。タヴァは「うーん……」と腕を組み、首をひねった。
「なんというか、……そうだな、俺みたいなのにも腰が低い、というか……」
「もっと偉そうな主人だと思っていましたか?」
「ああ、ええと……はい」
 嘘がつけないタヴァは、少しだけバツが悪そうに頷いて、頬をかいた。
「だってほら、一応シャディクさんって、グラスレー社の御曹司、だったわけだから……」
 大量虐殺に加担したテロリスト、とは言わないのはタヴァの優しさだろう。それが分かるから、私も特に身構えることなく質問に答えることができた。
「たしかに御曹司ではありますが、シャディク様はむやみに威張り散らしたり、他人を見下したりするような方ではないですよ」
「それは、ここに来る前から……?」
「そうですね。わりと、昔から」
 グラスレーに拾われるより前から、とは言わなかった。シャディクと私が以前から付き合いがあることは知られているから、そこを詮索されることもなかった。
 たしかにシャディクはグラスレーの御曹司となって、風格を身につけた。立場にふさわしい振る舞いを求められることもあっただろうし、また出自ゆえに侮られないよう、あえて堂々と見せる必要もあったはずだ。
 だがシャディクの本質はそこではない。類まれなるカリスマは、そうした上流階級の作法とは別の場所から湧き出るもの。シャディクが地球にいたころから持ち続けていたものだ。
「それでもまあ……、今の方がなんというか、隠居されてまるくなったような感じはありますが」
「隠居」
 私の言葉を、タヴァは不思議そうに繰り返した。
「世間での捉え方はともかく、私としてはそのようなつもりで勤めさせていただいています」
 そんな話をしているうちに、目的の物置に到着した。
 前を歩いていたシャディクが、くるりと振り返って私を見る。
「ナマエ」
「はい」
「明かりを」
 短い指示は、主らしい威厳を伴っていた。強く響いたその声に背すじが伸びる。先ほどのタヴァとの小声の雑談が、もしかしたらシャディクの耳にまで届いていたのかもしれない。私はしずしずとシャディクのもとへと進み出て、ライトで室内を照らしだした。
「それじゃあ始めよう」
 誰にともなくシャディクが呟く。視界の隅で、タヴァが何故かやや気おくれした顔をしているのが、ちらりと見えた。

 ソファーや絨毯といった布製品は干してから使うため、一度庭園に出すことにした。そのほかの家具はすべてそれぞれ使用する場所へと運び込み、丁寧に拭き上げる。ぼろぼろの家具をかわりに天井裏に上げてから、タヴァは詰所へと戻っていった。
 家具を運んでいるあいだも、拭き上げを手伝ってくれるときも、タヴァは繰り返し上官の評価を挽回しようと奮闘していた。
「もともと隊長は俺が今の会社に就職したときに、いろいろ俺の面倒を見てくれたんですよ。たしかに困った人ではありますが、あれでなかなか面倒見が良くて人望もありますし、上からの評価も高いですし、あと、本当にまじで女性からモテます。そういう人なんで俺をいびったりするようなことはありませんよ」
 根っから人がいいのだと、改めて実感した。むろん、それで無精ひげの男に対する私の評価が変わることはない。しかし、いつまでも腹を立てているのも大人げない。タヴァの執り成しを容れたというわけではないが、ひとまずは水に流すことにする。

 その日は天井裏からおろしてきた家具を並べたダイニングで、心機一転、ささやかなお祝いの夕食をとった。手伝ってくれたタヴァも誘えればよかったのだが、さすがにそこまで近づきすぎるのは不適切だろう。
 限られた食材で用意した晩餐を口に運びながら、シャディクはおだやかな微笑みを浮かべていた。シャディクの雰囲気も、食卓を流れる空気も、ゆったりとしたものではある。しかしなぜか、私はぴりぴりとした緊張を感じるような気がしていた。
 それは四年と少し前のあの日、突然邸宅に帰省してきた日の、シャディクの不自然なまでの穏やかさを、私に思い出させる。
「それにしても、家具なんて使えればそれでいいと思っていたが、やはりその場にふさわしい家具の方がしっくり来るね」
 私の緊張など知るはずもなく、くつろいだ調子でシャディクが言った。
「あの監視兵の彼には感謝しないと」
「タヴァさんですね」
「そう、その彼だ。俺から直接お礼を言うわけにはいかないから、きみから伝えておいてくれるかい」
「もちろんです」
 もちろんすでに口頭でお礼を伝えてあるが、明日改めて何か感謝の品を届けてもいいかもしれない。屋敷の食料も潤沢にあるというわけではないが、何か甘いものをつくって差し入れるくらいなら、双方の負担にもならないだろう。
 つつがなく食事を終え、片付けをするため席を立つ。ふと見ると、シャディクのシャツの肩に、大きめの綿埃が付着していた。
「シャディク様、肩にほこりが」
 シャディクに近寄り、その肩にそっと手を伸ばす。と、伸ばした私の指先がシャディクの肩にふれようとしたそのとき、思いがけず指先に衝撃が走った。
 伸ばした私の手を、シャディクが勢いよく払いのけたのだ。
 痛みを感じるというほどではない。それでも、私は呆然と自身の指先を見つめた。
 一方のシャディクも、反射的に動いただけだったらしい。彼は硬直し、今しがた私の手を叩いた自分の手を、無言でじっと見つめていた。
 食事を終えたあとのダイニングに、気まずい空気が流れる。
 冷静に考えれば、主人の身体に手を伸ばすなど、主従の距離を逸脱した行為だった。声を掛けるだけにとどめなかった私が悪い。いくら何でも、あまりに無遠慮だった。そう分かっているのに、なぜか口がうまく動かない。
 何も言えず、私はシャディクを見つめた。やがてシャディクは、先ほどまでと寸分たがわぬ微笑みを浮かべて言った。
「昼間あれだけ物置や屋根裏で騒がしくしたから、そのときかな。今日はさっさとシャワーを浴びて寝ることにするよ」
 シャディクは謝罪の言葉は口にせず、また私にもそれを求めなかった。まるで今の一瞬の出来事を、そっくりそのままなかったことにしてしまうかのように。そしてシャディクがそう振る舞う以上は、私もそれに従うしかない。
「悪いが今日はもう部屋に戻らせてもらうよ。片付けを手伝えなくてごめん。おやすみ、ナマエ」
 私の返事を待たずに背を向けたシャディクに、私は見られていないと分かりながら腰を折る。
「おやすみなさい、シャディク様」
 そうして頭を下げたまま、私は視線を自分の指先に向けた。
 今はもう赤みすら残っていない指先は、それでもまだじんじんと、ひりついた熱を宿し続けている。その熱が消えてしまわぬよう、私は両手を組んで指先を手のひらのなかに包み込んだ。
 胸がざわざわして落ち着かない。逸るような鼓動を打つ心臓を意識してしまい、私はぎゅっと目を閉じる。
 五年前、シャディクはたった一度だけ、私の身体をめちゃくちゃにした。あの日以来、シャディクにふれられたのは、これがはじめてのことだった。

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