明転の先、きみを待つ@

 ごろごろと台車を転がして歩き、目的の倉庫のドアの前までやってきたとき、名前は「あ」と小さく声を発した。無人のはずの倉庫のドアの隙間から、淡く光が漏れ出てきている。どうやら中には先客がいるらしい。
 銀色のノブに手を掛けて、そうっとドアを開く。段ボールだらけの雑然とした倉庫内の様子は、いつもと寸分たがわない。
 そのまま名前は、視線を室内を横切るようにスライドさせた。すると思った通り、壁にもたれかかってあぐらをかいた諏訪が、まるで自室かのような我が物顔で、壁際に鎮座していた。
「おつかれさまです、諏訪隊長」
 名前が声を掛けると、諏訪が閉じていた目を開く。
「よう、苗字。仕事か?」
「はい。あ、でもこれ地下に運んだら、そのまま上がっていいって言われてます」
「じゃあもう上がりか」
 諏訪がポケットから端末を取り出し、時刻を確認した。まだそれほど遅いというほどの時刻でもない。だが女子高生をひとりで歩かせるのは少し躊躇われる、ちょうどそのくらいの宵の口だった。
 名前は台車から段ボールをおろし、壁に寄せ整然と並べていく。段ボールには『入隊パンフ 余部』と昨年の年度とともに大きく記されており、中身は見ずとも推察できる。
「それ全部余りかよ」
 人気ねえな、と諏訪。名前は苦笑した。
「人気がないわけじゃなくて、単に三門市内の学生でボーダーのパンフをもらっていきそうな子がもういない、ってことだと思うんですけどね。これ、市内の教育機関からの返戻へんれいなので。逆にネットのパンフレット取り寄せは、年々伸びてるそうですよ」
 しかし幾らそれらしい情報を付け足したところで、大量の残部から目を逸らすことはできない。
「今年度分を置いてくるのと入れ替えで回収してきたのが結構あって。そのうち唐沢部長に見つからないように、少しずつ廃棄する予定です」
「そりゃあバレたらまずいだろうな。まず間違いなく、来年度予算削減されるぞ」
 ボーダーの財布にせっせと資金を詰めているのは、営業部長の唐沢だ。高価な紙で自信満々に大量に刷ったパンフレットを、まさか配布せずに廃棄しているなどとは、唐沢には口が裂けても言えなかった。すでに根付からも「絶対にバレないように」と秘密裏の処理を命じられている。
「ったく、どう考えても刷りすぎなんだよ」
「でもこれ、表紙の嵐山隊がかっこいいんですよ。去年私も写真選びに参加させていただいたんですけど、さすがボーダーの顔! って感じの写りです。だからみんなテンション上がり過ぎて、無駄にいい紙でたくさん刷っちゃって。なんで三門中みかどじゅうの人間がこれを貰っていかないのか、心底不思議……」
「おまえ広報向きな性格だよ」
「お誉めいただき恐縮です。ちなみに私は三部いただきました」
「横領じゃねえか」
「そこはほら、お求めの方がみえたら配布するので……」
 話しながら、名前はてきぱきと手を動かす。非力に見える名前だが、何でも手伝う雑用屋のような仕事のたまもので、実際には人並以上に体力も腕力もある。紙製のパンフレットがみっしりと詰まった段ボールは見るからに重量があったが、名前は重さをものともせず、さくさくと段ボールを下ろし終えた。
 やがてすべての荷物を壁に寄せ終え、名前はふう、と一息入れた。諏訪の隣に腰をおろし、持ってきた鞄から取り出した水筒で喉を潤す。
「きり付いたんならさっさと帰れよ」
 年長者らしい面倒見の良さで、諏訪が言った。
「お前実家から通いだろ。あんま遅くなると親が心配すんぞ」
「ありがとうございます。でも今日は大丈夫です」
 名前の返事に、諏訪が怪訝げに眉根を寄せる。しかし諏訪が何か言うより先に、名前が「あの、諏訪さん」と口を開いた。
「なんだよ」
「その、先日……といっても少し前ですが、その節はいろいろ、ありがとうございました」
「あ? 俺がなんかしたか?」
「いえ、あの……はい」
 諏訪から視線を逸らし、名前ははにかんで顔を俯ける。
 犬飼との噂のことで参っていたとき、ここで偶然一緒になった諏訪にいろいろと話を聞いてもらってから、早いものでもう数か月が経っていた。あの時にはまさか自分が犬飼と付き合うだなどと、名前は思いもしなかった。
 今にして思えば、諏訪に相談したあの時点で、何もかもが決定づけられていたような気もする。いずれにせよ、名前が諏訪に世話になったのはたしかだ。
「ま、うまいこと行ったならよかったな」
 諏訪が短く呟く。手でポケットを探り、直後「くそ、そういやここ禁煙か」と悪態を吐いた。諏訪は名残惜し気に手をポケットから出し言う。
「つーか、あれだな。よかったっつーなら、どっちかいうとお前より犬飼の方か」
「犬飼くん、ですか?」
「そりゃあお前に嫌われる一歩手前だったところから、付き合うとこまで巻き返してんだぞ。うまいことやってよかったな、だろ」
「それはたしかにそうですね」
 何とも微妙な表情で、名前は首肯した。名前は愚痴を――犬飼本人には言えない愚痴を、犬飼のかわりに諏訪に聞いてもらったことがある。
(さんざん文句言っておきながら結局付き合ってるんだから、諏訪隊長も呆れてるかもな……)
 諏訪と視線がぶつかって、名前は悩んだすえ、誤魔化すように笑って見せた。諏訪が少しだけばかにしたように息を吐く。名前の考えていることなど、諏訪にはだいたいにおいて筒抜けなのだろう。
 しばし、倉庫内に沈黙が落ちた。
 換気ダクトがひゅうひゅう音を立てている。名前は手持ち無沙汰な様子で、水筒の側面を袖でこすった。
「……上行かねえのか」ふたたび諏訪が問う。
「……お邪魔でしたら退散します」
「そういうわけじゃねえけどよ」
 どういうわけかいつまでも腰を上げない名前を、諏訪は訝しげに眺めた。が、妙にもじもじしている名前を見ているうち、諏訪はふと、名前がここにとどまる理由に気が付いた。
 諏訪がとんと膝を打つ。
「……お前あれだな? もしかしねーでも、犬飼待ちか。上だと人が多いからここにいんのか」
 ぴたりと当てられた名前は、ややばつが悪そうに顔を赤らめた。
「諏訪隊長、なんで分かるんですか」
「苗字は結構分かりやすいぞ。顔にわりと出る」
「えっ、それは嫌だな」
「なんでだよ。分かりにくいよりいいだろ」
 そのとき名前と諏訪が「分かりにくい」人間として真っ先に思い浮かべたのは、おそらく同一人物だっただろう。日頃ほとんどほほえみを崩すことのない犬飼は、分かりやすさとは対極の位置に存在している。
(犬飼くんにも顔に出てるってよく言われるしな……。でもそれは、犬飼くんが私のことをよく見ていてくれているということだから、恥ずかしいけど嬉しいことでもあって……)
 直前に諏訪からも分かりやすいと言われた事実を、途中からすっかり忘れ去っている名前だ。
 名前が待ち人に思いを馳せていると、隣から、これみよがしに溜息を吐く音が聞こえる。おおかた、名前が犬飼のことを考えていたことも、全部顔に出ていたのだろう。一体どんな浮ついた顔になっていたのか、想像するだに恐ろしい。
 名前は慌てて、頭の中から犬飼のにやけ顔を締め出し、できるだけきりっとした顔をつくった。そして、
「犬飼くんは、なんか後輩の指導がある? とかで、もう少しかかるらしいです」
 犬飼のことを考えていたことを正当化するように――けして浮ついたことを考えていたわけではないと主張するように――言う。諏訪は「後輩?」と眉根を寄せてから、「ああ、若村か」と合点がいったらしい呟きをこぼした。
「若村さん? ですか?」
「知らねえか? 若村って。B級の香取隊の銃手で……つーか苗字、そういう話犬飼としねーのかよ」
「うぅーん、あんまり。犬飼くんも、私みたいなよく分かってない部外者に、自分の仕事の話をされたくはないかなと思って」
 名前の返答に、諏訪が「はぁ?」と頓狂な声をあげる。
「部外者ァ? お前だってボーダーの職員じゃねえか。C級のときは訓練だってあっただろうし、オペやってたこともあんだろ」
「いやいや、オペっていっても中央オペであって、各隊づきのオペはやったことないですし。それに今のB級の隊とか、絡み全然ないので知らない人ばっかりですよ。A級はたまに仕事で話すこともありますけど」
 今B級でしのぎを削り合っている部隊は、多くが名前と同じ二年ほど前の入隊者で構成されている。互いに顔くらい見たことはあっても、多くいたC級隊員同士、わざわざ言葉を交わすことはほとんどなかった。名前は特段目立つ成績でもなかったから尚更だ。
 ほどなく名前はオペレーターに転属した。運営方に回ってしまえば、いよいよ彼らとの接点はなくなった。
「犬飼の試合は。記録ログ見たりもしねーのか」
「しませんね……」
「そうかよ。……ま、犬飼がいいならいいけどよ」
 溜息を吐き、自らのくすんだ金髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる諏訪。言いたい言葉を飲み込んだその態度に、名前は思わず苦笑した。
 諏訪の言わんとするところは、何となくだが名前にも分かる。現在犬飼がもっとも心血を注いでいるのは、ほぼ間違いなくボーダーでの任務のはず。そして銃手としての犬飼の腕は、まず間違いなく相当のものだ。同じポジションであるだけに、諏訪にはその努力と研鑽の途方もなさが分かるのだろう。
 こうして沈黙していても、記録ログくらい見てやれよ、という諏訪の無言の声が聞こえてくるようだ。
(門外漢が余計なことをって思われても嫌だから、ボーダーでの犬飼くんの仕事ぶりはあんまり気にしないようにしてきたけど……)
 もしかすると、犬飼の目には名前が犬飼に興味を持っていないように映るのかもしれない。名前はふと、そう思った。記録ログどころか、名前は犬飼のボーダー内での交友関係についても、突っ込んで尋ねたことはないのだ。そう思われていても不思議ではない。
 と、そんなことを名前が考えていると、
「若村っつーのは、犬飼の弟子だよ」
 名前が頭を悩ませていると思ったのだろう、諏訪が若村について教えてくれた。思いがけない情報に、名前は目を見開き腰を浮かせる。
「弟子? えっ、ていうか犬飼くんって、弟子がいるんですか?」
「いる。そもそもそっからか」
 諏訪が、今度こそ正真正銘呆れ返る。
「聞かねー苗字も苗字なら、話さねー犬飼も犬飼だろ。逆にお前ら、ボーダーっつう共通の話題避けて、普段何を話すことがあんだよ」
「……受験の話とか?」
 苦笑する名前。高校三年生の名前にとって、受験はボーダーのことに並んで重要なトピックだ。
「受験ったって、どうせお前ら揃って三門大だろーが」
「それはたしかにそうなんですけど、犬飼くんはともかく、私は推薦もらえないんですよ。隊員じゃないから……」
「模試とかあんだろ。判定は」
「今のところAです」
 本来の学力ならば、もう少し偏差値の高い大学も狙える名前だ。しかし大学進学後もボーダーでの仕事を続けていきたいとなれば、やはり三門大に進学するのがもっとも条件に適している。
 諏訪は、考え込むように顎に手をあてた。
「高校――は、六頴館だったか。なら余裕だろ」
「だといいんですけど」
 曖昧な笑みは、名前の弱気さを反映しているようだった。
 ボーダーに所属しており、なおかつ高校生で隊員ではなく運営方に回っているのは、名前くらいのもの。ボーダーが提携している教育機関との間に取り決めたさまざまな約束事も、名前には適用されないことはままある。
 受験はその適用されない例の最たるものだ。高校からの三門大への推薦枠は、ボーダーの正隊員で埋まってしまっている。一般受験でもよほど不合格になることはないだろう、というのが周囲と名前自身の見立てだが、それでも気は抜けなかった。
「学生は大変だな」
「諏訪隊長だって学生じゃないですか。大学生」
 話題の転換に、諏訪から気遣われたのを感じながら、名前は言う。
「つっても俺は就活も結局してねえしな」
「卒業後はボーダーですか?」
「そういう話にはなってる。あんま外で言うなよ」
「もちろんです。でも、そりゃあそうですよね。諏訪隊長に抜けさせてって言われても、それこそ上の人たちも困るだろうし」
「別に俺なんか大したことしてねえよ」
 そんな話をしていると、ぎぃと金属の軋む音がして、倉庫の扉がゆっくり開いた。名前が鞄の中の携帯を確認するよりはやく、待ち人がひょいと顔を覗かせる。
「名前ちゃん、お待たせー、ってあれ。諏訪さんがいる」
「おーおー、お前ら俺の大事な休憩所を密会に使ってんじゃねーよ」
 私服姿で現れた犬飼に、諏訪はわざと鹿爪らしい顔をして見せた。
「おつかれさま」
 名前が遠慮がちに声を掛けると、犬飼も「名前ちゃんもおつかれ」とほほえむ。訓練と指導終わりだというのに、犬飼の顔には疲労ひとつ浮かんでいない。
「こんなところでふたりで、何の話してたんですか? おれの悪口?」
「進路相談」そっけない口調で諏訪が答える。
「あー、なるほど」
「お前こそ、若村どうだった」
「頑張ってますよ。諏訪さんならランク戦であたるから知ってるでしょ」
「苗字が、犬飼に弟子がいるなんて聞いてないっつってキレてたぞ」
 適当なことを吹かす諏訪を、名前がむっと睨む。
「なんでちょっと話を盛るんですか」
「あれ、おれ名前ちゃんに話してなかったっけ?」
「聞いてないよ。別にいいけど……」
 きょとんとする犬飼に、名前はひっそりと溜息を吐いた。本気で忘れていたのか、それとも分かっていてすっとぼけているのか。今この場でどちらなのか見極めるのは至難の業だ。
 考えるのを後回しにして、名前は犬飼から視線を逸らした。名前の横で諏訪が「よっ」と腰を上げる。
「さて、と。俺は地上うえに戻る」
「おつかれさまです」
 名前と犬飼の声が重なる。おう、と諏訪が片手を持ち上げた。
「さっさと帰れよ」
 と年上らしい言葉をひと言残し、諏訪は地下倉庫を出ていった。

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