愛されるための選択肢

 ボーダー隊員憩いのラウンジから正面出入口に出る通路のうちのひとつを、名前たちは今日の待ち合わせ場所に決めていた。人目を避けたい今の名前には、人の多い場所は近寄りがたいためだ。
 定刻に現れた仁礼は、名前に駆け寄ってくるなり輝く笑顔を顔に浮かべ、ばんばんと容赦なく名前の背中を叩きまくった。
「だから言ったじゃねーか、時間の問題だって!」
 挨拶もすっ飛ばし、仁礼は得意満面で言った。げっほごっほと咳き込む名前にもお構いなしの力強さだ。
「に、にれさ、」
「まあ、まさか『時間の問題』って言ったその日のうちに付き合うことになるとは、さすがのヒカリ様にも予想外だったけどな!」
「うう……」
 反応しにくい言葉の波状攻撃に、名前は狼狽うろたえ、喉の奥で唸った。

 名前が犬飼と付き合うことになった旨をメッセージで一報入れて以来、名前と仁礼が顔を合わせるのは今日がはじめてだ。名前と犬飼が付き合っていることを知っているのは現状仁礼と、それからうっかり手をつないでいるところを目撃された二宮、そして二宮隊のメンバーくらいのはず。しかし仁礼のこの様子を見て、すでにほかにも話が漏れていてもおかしくはないなと名前は思う。
 仁礼の力強い祝福からどうにか逃れ、名前はほっと息を吐く。仁礼が我がことのように喜んでくれるのが嬉しい反面、仁礼のテンションではしゃがれることへの面映ゆさもある。辺りに人がいなくてよかったと、名前は心の底からそう思った。
 支給の制服でも高校の制服でもない仁礼は、パーカーにショートパンツといういつもの私服スタイルだ。名前も同じく、私服に着替えてきている。今日はこれから影浦と合流し、影浦隊と名前で食事に行く約束になっていた。影浦隊の残りのふたり、北添と絵馬は基地には寄らず、それぞれすでに店に向かっている。
「名前に彼氏できた記念っつったら、カゲたちがお好み焼き一枚くらい奢ってくんねーかな」
「絶対やめてほしい……」
 じゅるりと舌なめずりする仁礼に、名前が苦々しげに返す。
「いや、でもなー、付き合ったっつっても相手がなー」
「相手? って犬飼くん?」
「祝福! って感じになってくれんの、もしやゾエだけかもって気もする」
「そうなの?」
「んー、ユズルのリアクションが読めないわ。ま、でも大丈夫か。名前のことだし」
「全然分かんないけど、大丈夫そうならまあいいのかな……? というかそもそも、わざわざ彼氏できた話なんかしなくていいよ」
 そんな話をしていると、ふたりの前方から、待ち人がやってくるのが見えた。
「おっ、カゲ!」
 気付いた仁礼がぶんぶんと手を振る。名前も胸のあたりで控えめに、大袈裟にならないように手を振った。
 以前名前は影浦に会釈をし、「タメに気ィ遣われんのはうぜえ」と言われたことがある。以来影浦に対しては、このくらいの距離を維持するよう努めていた。
 長い脚を投げ出すように気だるげに歩いてきた影浦に、仁礼はにやりと笑いかけた。
「おいカゲ、聞いて驚け」
 次いで仁礼は、名前の肩をぐっと抱き寄せる。
「なんと名前に彼氏ができた!」
「あ?」
 影浦が名前を一瞥する。
「ちょ、ちょっと仁礼さんっ」
 ぎくりと肩を強ばらせた名前と目が合うと、影浦はもじゃもじゃと伸びた自らの髪に手を突っ込んだ。つまらなさそうにぼりぼりと頭を掻き、気まずげに影浦から視線を逸らす名前に言う。
「あー、そりゃまた、ご愁傷様」
「なんでだよ!」
 影浦の言いざまに、仁礼が頬を膨らせた。
「なんでもクソもあるか。どうせ相手はあいつだろ? そんなもんめでたくも何ともねえじゃねえか」
 噂は影浦の耳にも入っていたらしい。心底嫌そうな顔で影浦はぼやく。
「カゲくんって犬飼くんと仲悪かったんだね……」
 名前が少しだけ驚いたように呟いた。
 これまで名前は影浦、犬飼それぞれと接点を持ちつつも、あえてふたりを結び付けて考えるということをしなかった。影浦と犬飼が一緒にいる場に居合わせたこともなかったから、まさかこれほどの断絶があるとは思いもしなかった。
(犬飼くんがカゲくんをなんとなく意識してるのは薄々感じてたけど、カゲくんはもっとはっきりした苦手意識があるんだな……)
 名前は、犬飼が何かにつけ影浦の名前を出すことに、内心納得した。犬飼が影浦に対してどう思っているかは不明だが、自分と親しくない相手が自分の恋人とはそれなりに親しくしているというのは、犬飼にとってはけして快い状況ではない。たとえ影浦の方が犬飼より先に名前と親しくなっていたのだとしても。
(でも本当にカゲくんとはただの知り合いなんだけど)
 いくら言葉を尽くしたところで、犬飼に完全に納得してもらえる日はこないような気もした。こればかりは名前にはどうしようもない。
「ま、カゲの場合気に入ってる相手のが少ねーしな」
 仁礼がフォローにもならないことを言う。
「気に入る入らねえの問題じゃねえよ。あそこまでソリが合わねえやつは犬飼くらいだ」
「そーゆーのを気に入らねーって言うんだよ」
 影浦がケッと鼻を鳴らし、仁礼の軽口に応じたところで。
「おれは別に仲悪くしたいわけじゃないんだけどなー」
「ひぁっ!?」
 唐突に背後から肩に腕を回されて、名前は甲高い悲鳴をあげた。慌てて首をめぐらせる。やっぱりと言うべきかどうしてと言うべきか、名前のことを後ろから捕まえていたのは犬飼だった。
「チッ」
 どこからともなく現れた犬飼に、影浦は鋭く舌打ちする。しかし犬飼は動じることもなく、
「やっぱり名前ちゃん、ここだった」
 と名前に笑いかけた。影浦の眉間の皺がいっそう深くなる。口許のマスクをぐっと鼻の上までずり上げて、影浦は犬飼から目を逸らした。
 まだ驚きの波が去らない名前に代わって、仁礼がにやにやしながら犬飼に詰め寄る。
「聞ーたぞ、犬飼!」
「やっほー、仁礼ちゃん。聞いたって何を?」
「名前に告ったんだろ」
「ああ、そのことかー」
 しれっと答える犬飼は、仁礼の口撃にもまったく照れたりしないらしい。
「あんま名前のこと困らせんなよ!」
「あれ? おれ最近なんか名前ちゃんのこと困らせるようなことしたっけ?」
 犬飼が首を傾けて、名前の顔を背後から覗き込もうとする。そこでようやく、名前ははっと我に返った。
「いっ、今! 今現在進行形で困ってるよ!」
「あはは、たしかに」
 犬飼がぱっと手を離す。名前は飛びのくように犬飼から距離をとった。付き合っている恋人同士というよりは、かまいたがりの人間と懐かない猫のようだ。
 仁礼を挟んで犬飼と一定の距離をとってから、名前は赤い顔を犬飼に向けた。
(照れてる場合じゃない。何事もはじめが肝心、ダメなことはダメと、最初のうちに徹底しておかないと)
 ごほん、とひとつ咳払いをする。名前は犬飼に言った。
「犬飼くん、人前での軽率なハグはやめてって、私、言いました」
「でもほら、今のは指一本触れてなかったでしょ。エアーハグ」
「そう言われてみれば、たしかに……? いや、違う、そういうことじゃないよ……」
 まったく悪びれる様子のない犬飼に、名前はがくりと脱力する。犬飼の言うとおり、先程のハグでは犬飼は名前に指一本触れていない。袖口が胸元に掠めてすらいなかった。空気椅子よろしく、犬飼はふわりと名前の胸元に腕を回したに過ぎない。
 しかし問題は周囲にどう見えるかであって、実態がどうということは無関係なのだ。約束事の抜け穴を通すような犬飼の言動に、名前は強く反論もできず沈黙した。
「おい、行くぞ」
 と、待たされていた影浦がイライラした声で言う。名前は慌てて応じた。
「ごめんね、カゲくん。それじゃあええと、犬飼くん」
「あ、待って」
 手を振りかけた名前を、すかさず犬飼が呼び止める。その声につられるように、影浦と仁礼も犬飼の方を向く。
「今からカゲんちのお好み焼き屋、だったっけ? 店出るときと家に着いたときに、また連絡して。今日は迎えに行けるわけではないけど、夜道だから一応ね」
 分かった、と名前が答えるより先に、影浦がまた鼻を鳴らした。
「どこに何しに行くか、全部筒抜けかよ」
 非難するような言葉にも犬飼は表情を変えない。
「このくらい付き合ってるなら許容範囲の干渉じゃない? おれは別に名前ちゃんの行動を制限したり、交友関係に口出したりしてるわけじゃないんだし」
「そうかよ。んなこと長々言わねえでも、俺にはなんも関係ねえけどな」
「そうそう。おれたちふたりの間のことなんだから、カゲに心配してもらわなくても大丈夫だよ」
「犬飼くん、言い方……」
 噛み付いたのは影浦だが、犬飼の言い方にもいちいち刺がある。これ以上ふたりの言い合いがヒートアップする前にと、名前は犬飼に手を振った。名前の視界の端では、仁礼が影浦の背を押し急かしている。
「じゃあね、犬飼くん。また連絡するね。お当番頑張って」
「うん。名前ちゃんも楽しんできてね」
 ひらひらと手を振る犬飼の表情が普段と何ら変わりなかったので、名前はほっと胸を撫でおろす。
(行かないでって言われたらどうしようかと思ったけど、そこまでではないみたいでよかった……)
 犬飼のふところの広さに感謝しつつ、名前は先を歩く仁礼と影浦を追いかけた。

 ・
 小走りで去っていく名前の後ろ姿を見ながら、犬飼はそろそろと溜息を吐き出す。
(おれ、いっつも名前ちゃんの後ろ姿を見送ってばっかりだな)
 名前が走るのに合わせ、スカートの裾が名前の足にまとわりつくように揺れる。ショートパンツの仁礼とは対照的に、名前は露出の少ない格好をしていたが、ふだん見慣れた制服と違って身体の線に沿う服を着ているせいで、どうしても目がそちらに向いた。
(そういえば名前ちゃんの私服姿を見たのも、さっきがはじめてだった)
 私服に言及し忘れたことに、今更のように気付く。犬飼は思ったよりも自分に余裕がないことを思い知った。
 異性と出掛けないでほしい、なんてことは思わない。ボーダーに所属しているためか、犬飼は男女の交流についてかなり寛容だ。異性だからといって必ずしも恋愛対象になるわけではないし、過ちなんてそうそう起きるものではない。今日は仁礼も一緒なのだから尚更だ。
 まして、名前はああいう性格をしている。押しに弱いところはあるが、曲がりなりにも今は犬飼の恋人なのだから、ふらふらと押されるままになることもないだろう。
 だが相手が影浦となると――
(おれの心、ちっちゃいなー)
 思わず犬飼の顔に、自嘲的な笑みが広がった。
 自分よりも前から名前と親しくしており、自分よりもきっと名前のことをよく知っている影浦。恋人である犬飼のことを「犬飼くん」と呼ぶ名前は、ただの友達のはずの影浦のことは「カゲくん」と愛称で呼ぶ。
 犬飼が今日はじめて見た名前の私服だって、きっと影浦はこれまで何度も目にする機会があったのだろう。自分と影浦、どちらの方が名前と親しいかなど考えるまでもない。
 とうに名前たちの姿などない廊下の先に視線を投げ、犬飼はひとり苦笑した。彼氏と友達という時点で影浦とはステージが違うのだから、焦る必要はないのに。分かっていても、影浦といる名前を見ていると、ついつい余計なことを考えてしまう。
 と、そのとき。
「意外と余裕ないんだね、犬飼先輩」
 聞き慣れた声がして、犬飼ははっと振り返る。物陰の死角からひょこりと現れた顔を見て、犬飼は少しだけバツの悪い顔をした。
「ひゃみちゃん。……見てたの?」
「言っとくけど、見たくて見たわけじゃないからね。不可抗力」
 そのわりに氷見は、ご馳走様でした、と涼しい顔して呟く。
「さっきの、犬飼先輩の新しい彼女でしょ」
「新しいって。ひゃみちゃん俺の前の彼女知らないじゃん」
「知らないけど、付き合いたてなら新しいで間違ってないよ。ていうか、」
 影浦隊と仲いいんだ、彼女。と続けた氷見は、当然ながら犬飼と影浦の間にある一方的な確執を知っていた。犬飼は眉を下げて笑う。聡い氷見は、犬飼の胸のうちについても大抵のことは見通しているに違いない。
 取ってつけたような犬飼の笑顔を、氷見はしばしじっと見つめる。ほどなく氷見はひとつ嘆息すると、
「大丈夫だよ、犬飼先輩は顔がいいから」
 淡々とした口調で、励ますようにそう言った。
「それ、褒めてる?」
「顔がいいから、あとは彼女にだけでも性格を良く見せてれば、心配することないと思う」
「ひゃみちゃん? 遠回しに性格悪いって言ってる?」
「同じ隊のオペレーターとしては、心強いと思ってるよ」
「あはは、ありがと」
 けらけらと笑ってから、犬飼はもう一度だけ、今は誰もいない廊下の奥へと視線を向ける。
「そうだね。せっかく付き合えたんだから、ひゃみちゃんの言うとおり、優しくしないと」
「うぅーん、犬飼先輩……。いや、まあいいか」

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