恋するための心拍数

 名前の胸の鼓動がはやくなる。
(私も、犬飼くんのことが――)
 好きみたいだ、と。名前は逸る心でそう思う。
 まだ「好き」と言い切れるだけの強さを持たない、あまりにやわらかで不確かな思い。しかし名前は、着実に犬飼に惹かれている。
 その脆くやわらかな手触りの思いは、きっと少しずつはっきりとした感情になるだろう。そんな予感を、名前はたしかに感じていた。柔らかな海辺の砂にも干上がることなく水を与え続ければ、いずれは複雑な形の砂の城すら作れるほどの、がっしりとした砂となるように。
(言わなくちゃ、犬飼くんに)
 けれどそう思えば思うほど、喉に言葉が張りついて何も言えなくなる。声が無様につっかえて、切羽詰まったような視線を犬飼に向けるだけになってしまう。
 そんな名前の姿を見て、犬飼もまた、少しだけ眉尻を下げて笑った。
「一番好きなところというか、好きになったきっかけの話みたいになっちゃったね」
 犬飼はそう言って、がたりと音を立てて椅子から立ち上がった。
「さてと、おれはそろそろ戻らなくちゃいけないんだけど。名前ちゃんは? この後はもう帰る? もし本部に行く用事があるなら、一緒に行こう」
 伝えたい言葉が、喉の下にはすでにある。けれど今ここで、名前がそれを口にすることはできなさそうだった。
 そっと小さく息を吐き、名前は答えた。
「……本部に」
「わかった。じゃあ、行こうか」
 本当は、今日の名前は本部に用事などなかった。だから名前が犬飼と一緒に店を出ることにした理由は、ここで犬飼と別れるのが惜しまれたから、ただそれだけだ。
(行ったら行ったで、やることはあるだろうし)
 そんなふうに自分の行動に無理に理由をつくりだし、名前は紙屑ののったトレーを片付けた。

 夕暮れに赤く染められた道を、名前は犬飼と並んで歩いて行く。道に伸びたふたり分の影は、ずいぶんと長さが違っていた。大人と子供みたいだな、と名前は視線の先に伸びる黒い影を見て思う。
 店を出てからというもの、犬飼は一言二言発した程度で、ほとんどずっと口を閉ざしている。ふだん口数の多い犬飼が黙っているのだから、本来であれば名前もそわそわして落ち着かないところだ。しかし今は幸か不幸か、名前にもほかに考えることがある。だからふたりの間に沈黙が落ちるのに任せ、名前もぼんやりと思索にふけった。
(犬飼くんのことが好きか――それは多分、イエスだ)
 自分の気持ちを整理し、名前は素直に犬飼への好意を認めた。犬飼への気持ちはもう、どこにも疑う余地がない。自分を誤魔化すことはできないし、きっと遠からず犬飼にもばれるだろう。
 もしかすると犬飼はすでに、名前の気持ちが自分に向いていることに気付いているのかもしれない。だからこそ、犬飼はさらに一歩踏み込んできたということも考えられる。
 いくら名前の気持ちが犬飼に向いていても、付き合うことに抵抗がある、あるいは犬飼からの好意を無条件に受け容れられないということだってある。だから犬飼は名前に確認した。
 付き合う候補の圏内か。好きという犬飼の言葉を受け容れられるか。
(だけどこれも多分、イエスなんだろうな……)
 ついさっき答えられなかった問いに、今ようやく名前は自分なりの答えを出した。
 名前は犬飼に好意を抱いている。まだ好きとはっきり断言できるわけではないけれど、もっと犬飼のことをよく知りたいと思うし、もっと近づきたいとも思う。
 好きだと言われて、ありがとうと答えたいと思える。
 それが名前の答えだった。
 だが恋心を自覚した途端、胸の鼓動はさらにはやまった。顔が熱くなるのとは反対に、指先がだんだん冷たくなっていく。
(というか今まで私、どんなふうに呼吸して、どうやって視線の位置を定めていたんだっけ……!?)
 急にいろいろなことが覚束ないような気がしてくる。押し寄せる不安と緊張のあまり、名前ははあぁ、と長く息を吐き出した。なんだか無性に、息が苦しい。
「名前ちゃん?」
 隣の犬飼が、怪訝そうに名前の顔を覗き込む。
「どうかした? なんか調子悪い?」
 犬飼の問いに、名前はふるふると首を横に振った。右手をそっと胸に置き、静かに三度、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。先程までの息苦しさが少しだけ緩和され、名前の心に多少の余裕が生まれた。
(犬飼くんに話そう)
 ごく自然に、そう思えた。
「あのね、犬飼くん」
 呼吸を十分整えてから、名前は切り出す。
「さっき、数直線のどこにいるかって話をしたでしょ」
「うん、したね」
「あれで、私、犬飼くんのことを七十パーセントくらいって言ったでしょ」
「言ってたね」
 犬飼の言葉は軽い。この会話がどこに着地するのか、まるですべて分かっているようだ。
(犬飼くんなら、本当に分かっているのかもしれないけど)
 それならそれで、名前は構わなかった。どのみち名前が伝えなければいけないことは変わらない。
「さっきからずっと考えてたんだけど、諏訪隊長とかカゲくんとか、仁礼さん、はちょっと話が違うけど……、とにかく、ぱっと思い付く人たちって、大体みんな私のなかで七十パーセントくらいなんだよね」
「うわ、喜んでいいのか悲しむところなのか難しいことを」
「ごめんなさい……」
「謝るんかい」
「えっ、違う!? 間違えた!?」
「いや、いいよ。悪気ないの分かってるから」
 犬飼に苦笑され、名前は羞恥で耳が熱くなる。けれどまだ、一番伝えたいことを口にしていない。折れかけた心をどうにか立て直し、名前はごほんと大袈裟な咳払いで仕切りなおした。
「とにかく、そういうわけなんだけど」
「だけど?」
「でもたとえばね、さっきのが数直線じゃなくて、頭の中の割合? 占有率の円グラフ? とかだと、そういう横並びにはならないわけで」
「……それで?」
 押し殺したはずの呼吸の音が、ひゅうっと名前の耳に届く。名前は犬飼を見上げて言った。
「私の頭の中の占有率だと、今は犬飼くんが私のなかで、一番、ぶっちぎりで大きいよ。だから、要するに同じ七十パーセントではあるんだけど、犬飼くんとほかの人の七十パーセントは濃度? 密度? よく分かんないんだけど、そういうのがぜんぜん違うわけで……って、ごめん、私の言いたいこと、ちゃんと伝わる?」
「うーん、なんとなく。おれにとって、いい話ってことは分かる」
「そっか、じゃああの……よかったです」
 名前はほっと胸を撫でおろした。肩の荷がおりた気分で、自然と頬がゆるんでくる。
(よかった、ちゃんと言えたみたい)
 心と一緒に、足取りまでもが軽くなる。調子に乗って「それにしてもいい夕焼けだね」などと名前が言い出したところで、
「え? 待って」
 堪らず犬飼が足を止め、ぎこちない笑顔で名前を制止した。
「え、それだけ? 名前ちゃん、それ、続きは?」
「続き……?」
「これって、だから名前ちゃんはおれのことが好きになりました、って結論になる話じゃなかったの? 何名前ちゃんひとりで清々しい顔してるの」
「えっ、そこまでの明言を求めてたの!?」
「そりゃそうだよ。……まったく、びっくりするなぁ」
 犬飼は長く重たい溜息を吐く。そして今度は堪らずといった様子で、くっくと声を殺して笑い始めた。それも一段落すると、犬飼はまたしても長く息を吐き出す。しかし今度は重たい溜息ではない、まるで胸の中にたまったものを一気に吐き出すような、そんな仕草だった。
「名前ちゃん」
 犬飼が不意に、名前の名前を呼ぶ。優しく、おだやかな声だった。
「名前ちゃんが知ってるかは知らないけど、おれは結構打算的だから、見返りを求めずに好きって言ったりしないんだよ」
「そうなんだ……」
「あと、名前ちゃんの困り顔を見るために告白するのは、楽しくはあるけど、さすがにアウトって覚えたから、あんまり名前ちゃんに好きって言わないようにしてたんだけど」
「それはアウトだよ。私相手じゃなくてもアウトだよ」
「でも今の話の流れ的に、今ならもう一回告白してみてもいいんじゃないかなと、おれはそう思うんだけど」
 名前が見慣れた、余裕たっぷりの表情でほほえむ犬飼。知らず、胸が甘くときめいて、名前は慌てて視線をそらした。
「そういう聞き方は、ちょっとずるいんじゃないかな」
「ずるいこと言ったら嫌いになる?」
「…………」
 名前はこの瞬間、地下倉庫での和解以降の犬飼が、いかに名前に気遣い――もとい、手加減していたのかを思い知った。
(この人、やっぱりものすごくいやらしい性格してるんじゃ……)
 今更のように犬飼への認識を改めるが、時すでに遅し。犬飼は、薄いくちびるに淡い笑みをのせて言った。
「おれは名前ちゃんのことが好きだよ。信じてもらえるか分からないけど、信じてほしい」
 愚直なまでの直球勝負。名前の返事が分かっていただろうからとはいえ、ストレートな言葉は言う方も聞く方も恥ずかしい。だが犬飼は恥じらいなど微塵も感じさせることなく、堂々と一息に言い切った。
(「好きみたい」じゃなくて、「好き」になってくれたんだ)
 名前の心も、決まっていた。
「……信じるよ。犬飼くんのこと、信じることに決めたから」
「そっか、ありがとう」
 そう言って、犬飼はまた前を向いた。ふと名前が見上げると、犬飼の耳が目に入る。平べったい犬飼の耳は、ほんのりと朱に染まってた。
(……分かりにくいなぁ、犬飼くん)
 沈みかけの夕日に照らされて、名前はじわじわと喜びが胸に湧き上がるのを感じていた。

 ・

 三門市内にはそこかしこに、ボーダー本部基地に繋がる地下通路の扉が隠されている。しかし名前と犬飼は、特に示し合わせることもなく、地下通路ではなく地上を通って本部に向かっていた。
(私、犬飼くんと恋人同士になったんだよね……)
 今にも腕と腕がぶつかりそうな近さで歩きながら、名前は顔に集まる熱を持て余す。熱を散らすために手で顔をあおごうと、身体の横におろしていた腕を持ち上げようとしたところで、不意にとん、と名前と犬飼の手の甲が触れた。
 名前が犬飼を見上げると、犬飼もまた名前をにこにこと見下ろしている。どうやらたまたまぶつかったわけではなく、犬飼が意図して、名前の手に触れたらしい。
「こういうの嫌?」
 犬飼が尋ねる。名前の顔に、さらに熱が集まる。
「……嫌じゃないよ」
「じゃあ、これは?」
 言うが早いか、犬飼は今度は名前の指に自分の指を絡めた。名前よりも一回り大きい手のひらが、ゆるく名前の手を握りこむ。
 犬飼が返事を求めて、名前の顔を覗き込んだ。
「……嫌じゃない」
 今や茹ったように真っ赤な顔で、名前は弱弱しく返事をする。
「もしこれと同じこと、カゲにされたらどう思う?」
「……だから、なんでそこで」
「いいから答えて」
 あくまで穏やかな声音で、しかし断固引かない姿勢を見せる犬飼。名前は仕方なく、脳内で影浦に手を握られる想像をした。
(カゲくんと手を繋ぐなんて、危ないところで手を引かれて助けられてるくらいしか、想像できないんだけど……、犬飼くんが言ってるのは、そういうことじゃないんだろうな)
 犬飼のため、しばらく脳内で無理やりな想像に挑戦し続ける名前。やがてどうにか想像を終えると、疲れた声で犬飼の質問への答えを告げた。
「……びっくりするかな」
「嫌ではないんだ?」
「だってカゲくんはこんなことしないよ」
「まあ、それもそうか」
 犬飼も納得したのか苦笑する。それでも手を離す気はなさそうで、指を絡めたままのふたりの手が、ぎこちないリズムでふらふらと揺れる。
 またしばらく、沈黙の時間が続いた。言葉はなく、繋いだ手だけが揺れている。そろそろボーダーの本部基地が近づいてきたという頃になってようやく、犬飼がまた口を開いた。
「名前ちゃん、おれのこと好きになってくれたんだと思っていいんだよね?」
「いい、と、思う……」
 顔を赤くして名前は頷いた。今日は赤くなってばかりだ。
「おれが言うのもなんだけど、本当にいいの? おれたち付き合うってことだよ?」
「……はい」
「本部で顔合わせたら人目もはばからずに抱きしめていいってことだよ?」
「それはだめだよ」
 だめか、と犬飼が悪戯っぽく笑う。
(油断も隙もない……)
 名前はむっつりと犬飼を見上げて睨んだ。しかし名前の視線をものともせず、犬飼は口許の笑みをさらに深める。
「じゃあ、人目をはばかって抱きしめるならいいんだよね? それとも、抱きしめること自体がまだだめ?」
「…………」 
「ねえねえ名前ちゃん。黙っちゃわないで」
 犬飼がわざとらしく握った手をぎゅっと握りなおす。ぐいぐい身体を寄せられて、名前は道のわきの側溝に落ちそうなところまで追い詰められた。
「ねえ、名前ちゃん?」
 愉しげに何度も名を呼ばれ、名前は堪らず呻いた。
「……人が見ていないところと、本部からも学校からも離れてる場所で、なら」
「ああ、それなら任せて。防衛任務で歩き回るから、そういう穴場には結構詳しいよ。あ、でも名前ちゃんは警戒区域は入れないんだっけ」
「ハグするために警戒区域に行く人はちょっと……」
「冗談だよ」
 まだ付き合うことになってほんの数十分しか経っていないというのに、名前は早速犬飼に翻弄されている。
(私、本当に犬飼くんと付き合ってやっていけるんだろうか……)
 急速に不安が胃からこみあげ、名前は自分がひどい過ちを犯したような気分になった。けれどもう、犬飼の手を振りほどくことはできない。犬飼の手は名前の手をゆるく握りこんでいるが、ちょっとやそっとでは離してくれなさそうだと思うほど、しっかりと名前をつかまえている。
 名前の背を、冷たい汗が伝う。後悔はない。が、無条件に浮かれていられた時間は、思ったよりも短かった。
 そのとき、ふたりの背後から「犬飼」と呼ぶ、男の低い声がした。名前と犬飼は同時に後ろを振り返る。そして名前は固まった。
「あ、二宮さん。おつかれさまです」
 犬飼が軽い口調で、何時の間にか後ろを歩いていた二宮に挨拶する。
「…………」
 二宮の視線が、犬飼の顔と名前の顔、そしてふたりの間で揺れる手へと順番に移動する。無言の圧に耐え切れず名前が犬飼の手を離そうとするが、犬飼の手はびくともせずに名前をつかまえている。
 名前はこれから先、自分を待ち構える前途多難さに思いを馳せ、今この瞬間の気まずさから逃避した。

 fin,

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