わかりにくい抱擁

「ええと、あのぉ、犬飼くん……?」
「さっきの話なら、申し訳ないけど聞いてたよ」
「あああ……」
 探りを入れた瞬間に、笑顔で頷かれてしまう。名前は轟沈した。両手で顔をしっかり覆い、止め処なく襲い来る羞恥に身もだえする名前。
(犬飼くんにだけは聞かれたくなかった……っ)
 過去の恋愛の話なんて厄災のタネ――相手によってはこのうえなく甘美で美味しい餌を、事もあろうに犬飼の前に無防備にちらつかせるなど、自殺行為に等しい。まして、美しい過去とは言い難い嫌な思い出ならば尚更だ。
 正面から犬飼の視線を感じ、名前は顔を上げられない。悶えに悶える名前に、犬飼は愉しげに声を掛けた。
「おれとしてはものすごーく深掘りしたい話題なんだけど、やめておいた方がいい感じかな? 名前ちゃんが嫌なら、聞かなかったこと――にはできないけど、話題にはしないよ」
 名前は返事に困り、指の隙間からそっと犬飼を見た。犬飼はテーブルに頬杖をつき、笑みを貼り付け名前の返事を待っている。
「どう? 聞いてもいい? 聞かない方がいい?」
 犬飼の涼しげな目に見つめられ、名前はじりじりと追い詰められた。犬飼の微笑みは名前に絶え間なく、ひしひしとプレッシャーを与え続ける。
 しばし沈黙で抵抗していた名前だが、犬飼のプレッシャーに抗いきることはできなかった。最後の抵抗に大きく息を吐き出して、悄然と肩を落とす。観念したことを示すように両手をテーブルに戻してから、沈痛な面持ちで名前は犬飼を見た。
「はな、します……」
 捕虜のような弱弱しい声。
「あはは、無理しなくてもいいのに」
「いや、どうせ聞かれてたんだし、ここまで聞かれたら話すよ……」
 そうして名前は、中学時代最後の冬の話を、ぽつりぽつりと犬飼に話して聞かせた。
「って言っても、全然ほんとうにおもしろい話じゃないんだけどね。なんというかな、中学の時に、学年で一番人気のある男の子がいて、どういうわけか私はその人に告白された……してもらったんだけど……」
 犬飼の眉がぴくりと動く。名前は気付かず続けた。
「でも、全然私、その人と仲良かったわけではなくて……。好きじゃない相手と付き合うわけにはいかないから、本当に光栄なことだけどごめんなさいって断ったら、今度はあることないこと言いふらされちゃって……、でも私なんて、なんていうかほら、こんなだから……」
 話しているうちに、だんだんとしどろもどろになっていく。ただでさえ話すのが得意ではない名前だ。知らないうちに自分が好かれ、いつのまにか嫌われていた話なんて、一体全体どう説明したらいいものかも分からない。最後はよく分からないまま語尾をぐずぐずにさせて、
「ええと、まあ、だからそんな感じです……」
 なかば無理やり切り上げた。口を閉じた途端、とてつもない疲労感に襲われた。
 できることなら今すぐにでも、どこかの穴に入り込みたい。しかし生憎、バーガーショップに都合よく穴などあいているはずがなかった。仕方がないので、名前は犬飼が口を開くのを居心地悪い気分で待つしかない。
(こんな話して、幻滅したかな。もっとうまく立ち回れよって、思ったかな……)
 名前が話している間、犬飼は短い相槌を打つ以外はひたすら名前の話に耳を傾けていた。澄んだ瞳には思慮深げな光が宿っている。
 名前の話を聞き終えた犬飼は、「うぅーん、というかさ」と微笑みを崩さないまま首を傾げた。
「もしかしておれ、その名前ちゃんに告白した男子のせいで、名前ちゃんから最初避けられてたの?」
 痛いところをつかれ、名前は赤面した。
「ごめん……、犬飼くんって、ちょっとその人に似ていて」
「まじか。そういうことだったんだ」
「本当に本当にごめんね……」
 図星なので、名前はひたすら謝るしかない。
 これに関しては、犬飼にはまったく非はなかった。単に彼が名前にとっての「苦手なタイプ」と合致していたというだけだ。しかし身に覚えのない理由で避けられていたとなれば、犬飼が気分を害してもおかしくない。
 一体どんな文句を言われるだろうかと、名前は戦々恐々と犬飼の次の言葉を待った。だが名前の予想に反して、犬飼の口から出たのは、ひどく短い問いだった。
「今は?」
「え?」
「今も、その男子とおれのこと、似てるって思う?」
 思ってもみなかった問いだった。名前は慌てて、
「似てない、と思う」
 首を横に振り否定する。
「本当に?」
 吸い込まれそうな瞳にまじまじと見つめられ、名前はごくりと喉を鳴らした。短い沈思ののち、名前は正直に答えた。
「……あんまり似てないと思う、よ」
「少しは似てるってことか」
 けらけらと笑う犬飼。名前は申し訳なさに胸が苦しくなった。
 苦手な人間と似ているなんて言われて、良い気分になるはずがない。犬飼のことを多少知った今でもまだ、重なる部分が時々あって怖くなるのは、名前が過去と今を切り離せないから。それは名前の気持ちの問題で、結局のところ名前が犬飼に嫌な思いをさせているも同然だ。
「いいよ。なんとなく分かるから」
 その言葉に安堵した自分に、つくづく嫌気がさす。けれど、犬飼のフォローのおかげで心がほんの少しでも軽くなったのも、名前にとって事実だった。
 地下で和解したあの日に、犬飼が「もっとよく知り合おう」と提案してくれたこともそうだ。名前はどうしても犬飼に追い込まれているように思いがちだが、実際には追い込まれ悩まされている以上に、犬飼に救われ、許されている。
「でも、犬飼くんと昔のことは関係ないから。最近はそういう色眼鏡はなしで、ちゃんと犬飼くんと話せてると、思うよ」
 申し訳程度に付け加えると、
「そう? それならよかった」
 犬飼はこだわりなく答えた。その軽さもまた、名前が思いつめ過ぎないようにと加減した返事なのだろう。
(何の気負いもなく、そういうことをさらっと言ったりできたりするのが、犬飼くんなんだ)
 だんだんと名前にも分かりつつあった。犬飼は人並外れて器用で、そして多分――少なくとも名前に対しては、優しくしようと努力してくれている。上辺うわべだけの優しさではなく、大切に、傷つけないよう接してくれる。ただ、なまじ器用なだけに、時に過程を度外視した、結果重視の策を思い付けてしまうだけで。
 これまでの犬飼とのやりとりを振り返り、名前は苦笑する。と、犬飼がおもむろに、テーブルの上の手を組みなおした。
「よし。それじゃあ、話が一段落したところで本題に入ろうか」
「え?」
 名前がきょとんとして犬飼を見る。
「深掘りしたい話題があるって言ったでしょ?」
「だからそれは、今洗いざらいお話しましたけども」
「おれが深掘りしたいのは、その前に名前ちゃんが仁礼ちゃんと話してたことだよ」
 テーブルの下で長い足を組みかえて、犬飼は微笑んだ。
「名前ちゃん、おれと付き合う気になった?」
「げっほごほっ」
「はいはい、お水お水」
 思わず噎せる名前に、すかさず犬飼がグラスを手渡す。ごくごくと一気に水を飲み干す名前。グラスが空になり、名前が真っ赤な顔で口をぱくぱくさせ始めるのを確認してから、犬飼は会話を再開した。
「そういえば仁礼ちゃんも、おれのこといいって言ってたよね。なんだっけ? おれなら名前ちゃんのこと引っ張っていきそう――だっけ?」
「ちょっと待って、そんなところから聞いてたの!?」
「先に店にいたの、おれだからね」
「声掛けてよぉ……」
「だって黙ってた方が、面白い話が聞けそうだったから」
 悪びれずに答える犬飼に、名前は今度こそ真っ蒼になった。会話が筒抜けどころの話ではない。犬飼は分かっていて、わざと聞き耳を立てていたのだ。
(悪趣味すぎる……!)
 ついさっき、犬飼のことを実は優しいだの何だのと内心で評した自分に、それは間違いだと大声で教えてやりたくなった。優しいだなんてとんでもない。仁礼と名前のガールズトークを盗み聞きしてなお、一切良心の呵責を感じていない犬飼は、正真正銘いやらしい。
「別に名前ちゃんたち、内緒話してたわけじゃないでしょ。そこそこの声量だったし、隣のテーブルにいたら普通に聞こえてきたよ」
「それはそうだけどっ」
「うーん、じゃあ話題……というか、質問の仕方を変えよう」
 取り乱す名前に取り合わず、犬飼は「ペン借りるね」と、テーブルの上の名前のボールペンを手に取った。次いでトレーの上から紙ナプキンを一枚つまむと、その上に直線を一本、フリーハンドで引く。
「この線を名前ちゃんの中の好感度だとすると――」
 話しながら犬飼は、線の両端にそれぞれ、ゼロと百の数字を書き入れた。
「今のおれはどの辺り?」
「余計に答えにくいよ!」
「ちなみにだけど、おれの中で名前ちゃんはこの辺り」
 八十五パーセントあたりにペン先を立て、犬飼は名前を見る。ぴくりと名前の眉が動いた。すかさず犬飼が言う。
「今名前ちゃん『意外と低いな』と思ったでしょ」
「お、思ってないです」
(思ったけど……)
 気まずい内心を見透かされ、名前は慌てて作り笑いをした。しかし名前の雑な誤魔化しが、あの犬飼に通用するはずがない。
「言っておくけど、おれは名前ちゃんのためにハードルを下げてあげたんだよ。ここで俺に百パーセント出されたら、この後名前ちゃんが答えにくいだろうから」
「そんなお気遣いをしてくれるのなら、そもそもこんな聞き方しないでほしかったけどね……」
 やけにくっきり真っすぐに書かれた数直線を見て、名前は溜息を吐いた。犬飼がにこにこ笑って名前に促す。
「ほらほら、怒らないから教えてよ」
 ペンを犬飼に手渡され、名前は困り果てて数直線に視線を落とした。ゼロから百までの数字を書かれた数直線の、一体どこにペン先を置くべきか。犬飼の視線を感じながら、名前はしばらく悩んだのち、ある一点にゆっくりとペン先を落とした。犬飼が名前の手元を覗き込む。
「これはー……七十パーセントくらい? 思ったより好かれてるな」
 愉しそうに言う犬飼。対する名前は苦い顔をする。
(ちょっと数字がリアル……というか生々しすぎたかな……)
 とはいえ必要以上に高くさばを読むのも、逆に実際以上に低い値を示すのも、どちらも要らぬ想像を呼びそうで憚られた。その点七十パーセントは、かなり名前の実感に近く、嘘をついているという罪悪感も感じずに済むベストの数値だ。
 だが改めて考えてみると、七十パーセントくらいの好感度というのは、なかなか結構、好意を抱いている数値のような気もする。名前は顔が熱くなるのを感じながら、照れ隠しに目をすがめて口をとがらせた。
「思ったよりって、どのくらいだと思ってたの」
「四十とか、そのへん?」
「それはさすがに、ちょっと低く見積もり過ぎじゃない?」
「いやいや、名前ちゃんのおれへの反応って、大体そのくらいの相手への反応でしょ」
 そう言われてしまうと、名前としては反論のしようもない。今はともかく、以前の名前が犬飼に失礼な態度をとっていたのは事実だ。
「その節は本当にすみませんでした……」
「いいよ。実際は七十パーセントだったしね」
 屈託なく答え、犬飼は視線を紙ナプキンから上げた。
「ちなみにだけど、どのくらいまで好感度を上げれば、付き合うのを検討してもらえるの?」
「それは、」
「というかもしかして、実はもう付き合う候補の圏内だったりする?」
 返答に窮する名前にかまわず、犬飼は畳みかけた。指先を数直線上にすっと滑らせる。名前が印をつけた七十パーセントの位置を、犬飼は指先でとんと叩いた。その間も、彼の視線の先は名前に固定されている。
 試すような犬飼の視線に晒されて、名前は息を呑む。ペンを握った手がじっとりと汗ばんだ。
(もしも今ここで、私が頷けば)
 そうすれば、察しのいい犬飼のことだ。きっとさっさと話をまとめてくれるだろう。そしてかりにそうなったとしても、名前には特に不都合はない。名前もまた、犬飼に惹かれているからだ。
 それなのに、名前はどうしても頷くことができなかった。ままならない心のまま、名前は黙って、きゅっと唇を結んだ。
「まだ好きを受け容れてもらうところまではいかないか」
 ややあって犬飼が、さして残念でもなさそうに呟く。けれど犬飼のことを少しずつでも分かり始めた名前は、その声にほんの幽かに滲んだ、どこか落胆に似た重い響きにも気付いてしまう。途端に胸がぎゅっと詰まった。出所の分からない切なさが、名前の胸をじりっと焦がす。
(違う、そうじゃなくて、圏内じゃないとか、そういうわけじゃなくて)
 纏まらない感情の熱にあぶられて、名前の中の焦げ付きが勢いを増していく。
「――犬飼くんはっ」
 気が付けば、名前は犬飼の名前を呼んでいた。
 妙に切羽詰まったその声に、犬飼がほんの一瞬怪訝そうに真顔になる。けれどすぐ、いつものうっすらとした笑顔をつくり、犬飼は名前を見つめ返した。
「おれが何? 名前ちゃん」
「犬飼くん、は……」
 何と聞き返されたところで、衝動的に呼んだだけの名前にはこれという話題もない。苦肉の策として名前が思い付いたのは、とてもではないが正気のままでは尋ねられないような問いだった。
「わ、私のどこが、好きだと思えるの……?」
「顔」
「……」
 間髪を容れずに返された言葉に、名前は返答の言葉を失った。本心なのかおちょくられているだけなのか、まったく判別のつけようがない。
(いや、でもいくら犬飼くんが相手だと言ったって、ここでそんなボケを挟んだりする……?)
 名前の容姿はいたって平凡そのもの、十人並みだ。しかし異性の好みは人それぞれ。そもそも特にアピールポイントを持たない名前を好きだという時点で、犬飼の好みは多少人とずれているともいえる。
 黙り込む名前に、犬飼はへらりと笑う。
「というのは冗談で」
「……」
「もちろん見た目が好きって気持ちはあるんだけど」
 犬飼は取ってつけたような調子で言った。
「うーん、そうだなぁ。好きなところはいろいろあるんだけど、これって全部言った方がいい?」
「いや、そんな、全然そんなことない」
「あはは、だよね。じゃあ、今回は一番好きなところだけ」
 言いながら、犬飼は組んでいた手をほどく。荒々しさや雄々しさとは程遠い外見とはうらはらに、犬飼の指の関節は大きく、手首も太い。その手を軽く握って口許に持っていくと、犬飼はごほんとひとつ、小さな咳払いをした。そして、
「名前ちゃんさ、カゲたちと仲いいでしょ」
「え?」
 唐突に挙げられた知人の名前に、名前は一瞬何のことか分からず呆けた。犬飼がカゲと呼んだのは、考えるまでもなく、仁礼の所属する隊の隊長の影浦雅人のことだ。
「え? カゲくん? 仲いいというほどでは……。仁礼さんの隊の人たちだから、会ったら普通に話はするけど……」
 戸惑う名前に、犬飼は頷きだけを返し、話を続ける。
「おれ、昔からあんまり人のものを羨ましいと思ったりしないんだけど。でも、前にカゲに向かって笑いかけてる名前ちゃん見て、どういうわけか、おれ『いいな』って思ったんだよね。おれにもあんなふうに笑ってくれたらいいのにって」
「それは……」
「おかしいって自分でも思うよ。カゲに笑いかけただのなんだのって、そんなの名前ちゃんたちにとっては日常的なことなんだろうし、そこに特別な何かがあったわけでもなかったんだろうってことくらい、分かってるはずなのに」
 だけど、と呟いた犬飼は、しかしそこで口をつぐんでしまった。気まずい沈黙に耐えかねて、名前がおそるおそる口を開く。
「……カゲくんとは、本当に仁礼さん繋がりで話したりするだけだよ」
「知ってるよ。でも、いいなと思ったのはたしかだし、今もまだ、カゲのことを羨ましいと思ってる。おれはあんなふうに、名前ちゃんに笑いかけてもらったことがないから」
 何気ないふうに発されたその言葉に、名前の胸が、軋むように痛んだ。淡々とした口調だからこそ、かえって切なく、淋しく聞こえる。名前はもう、何も言えずに黙っていることしかできなかった。
(そんなふうに思ってたこと、今まで少しも教えてくれなかった)
 ふいに名前は、犬飼から最初にされた、軽すぎる告白を思い出す。ぐるぐると頭の中で巡る言葉に、名前は頭を抱えたくなった。
 好きみたい――あの時名前は、犬飼の言葉に対してなんと適当な告白だろうと思った。好きだ、と言い切ることもしない。なんとなく好きな気がするから、お互い不都合がなければ付き合おうと、そう言われているのだと思った。告白されたときには戸惑いで頭が真っ白になったが、帰宅してから思い返し、自分が軽んじられているように感じた。
 けれど実際に犬飼は、あの時は「好きみたい」としか言いようがなかったのだろう。犬飼の意識に引っかかったのは、名前が影浦に向けていたという笑顔だけだった。その笑顔以外の名前の表情など、あの時の犬飼はほとんど知らなかっただろう。好きだと断言するには、犬飼と名前は互いを知らなさすぎた。
「世の中には一目惚れで恋に落ちる人もいる。だけどおれは、自分がその手の人間だとは思わない。自分で言うのもなんだけど、おれは結構なんでも理詰めで考える方だし、まさかそんなふうに、一時の感情に振り回されることがあるとは思わなかった」
 だが、どれほどそんなはずはないと自分に言い聞かせたところで、犬飼が名前に対して感じる心の動きは、そのありえないはずの一目惚れによく似ていた。好きだと確信することはできなくても、自分が恋しているという状態に近い状態だということは分かる。
 だから犬飼は、あんな告白をするしかなかった。
 「好き」ではなく「好きみたい」。
 そう考えれば、犬飼はあの時すでに、名前に対してじゅうぶん誠実だった。たとえその告白の思惑が、駆け引きというには狡猾な計略にあったとしても。
 誠実じゃなかったのは名前の方。告白に否ということもせず、ただ逃げ回っていた名前の方だった。

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