あまやかな自傷

 バーガークイーン三門本店。窓際のテーブルで向かい合っているのは、影浦隊オペレーターの仁礼光と、メディア対策室所属の名前だ。それぞれ学校帰りに店内で待ち合わせて落ち合っているので、今日はボーダーの制服ではなく学校の制服を着用している。
「名前、犬飼と付き合いだしたって?」
 ストローでコーラを吸い上げ、ぷはっと息を吐き出し言った仁礼に、名前は一呼吸止めてから、ごっほごっほと噎せこんだ。一呼吸の間に、口の中のポテトを大急ぎで飲み込んでいる。そのせいで余計に激しく咳き込んでしまったが、仁礼に差し出されたジュースでどうにか落ち着くと、名前は困った顔で仁礼を見た。
「に、仁礼さん、いつどこで誰が何をどうやって……」
「おっ、ごーだぶりゅーいちえいち」
「すごい、復習の成果が出ているね! ――じゃなくて!」
 万年補習の仁礼の勉強をよく見ている名前は、一度手を叩いて仁礼を褒めかけた。が、今はもちろん、そんな場合ではなかった。
「先にぼけたのそっちだろ」
 仁礼がぶつくさと文句を言うのも、名前の耳には届かない。
 例の噂――犬飼が名前に片思いしているという噂は、消えてこそいないものの、だんだんと下火になりつつある。完全に消えたわけではないのだが、少なくともボーダー本部内を歩いているときに、名前が参ってしまうほどの視線を感じることはなくなった。
 噂の鎮火の裏には犬飼の暗躍があったのだろうことは、名前にも薄々察しがついている。もともとが犬飼の流した噂なのだから、火消しまで犬飼が責任を持つのは当然のことだ。一体どのようにして火消しをしているのかは、名前は聞かないことにしていた。うっかり藪をつついて蛇を出すような真似をしたくはないからだ。
 ともあれ、火消しが順調そうな様子を見て、名前はすっかり安心しきっていた。犬飼との関係もあれ以来悪くない。相変わらず犬飼に片思いされていることに納得はしていないものの、ひとまずは最大の危機を乗り切った――そうとばかり、名前は思っていた。
(ぜんぜん呑気にしている場合じゃなかった……)
 よほど名前の恋愛話が楽しいのか、いたずらめいた顔をしている仁礼を前に、名前は悩ましげに頭を抱えた。
 噂に尾鰭おひれがついているどころの話ではない。犬飼が名前を追いかけているという噂ならばまだしも、どういうわけだか知らない間に、名前と犬飼が付き合っていることになっている。これでは完全にデマだ。
「何がどうして、そんなことに……」
「ん? 付き合ってねーのか?」
「付き合ってるわけがないよ……。私、仁礼さんにそんな報告してないでしょ?」
「たしかに報告はされてねーけど、名前って元々そういう話アタシにしねーだろ」
「それは、今まで私に恋愛の話がなかっただけで」
「てか実際、最近よく犬飼と一緒にご飯食べたりしてんだろ? なんかそういう話ちらほら聞くんだけど」
「それはっ、たしかにそうだけどっ、弁明をさせて……!」
 名前のトレーからポテトをつまんで笑う仁礼に、名前はがくりと肩を落とした。

 名前から一連の事情をかいつまんで聞いた仁礼は、もっともらしく腕を組んで唸った。
「ふむふむ。じゃあまだ付き合ってねーのか」
「まだとか、そういう言い方は……」
「時間の問題っぽいけどな。名前、押しに弱いし」
 うっ、と名前が言葉に詰まる。図星だった。
「ま、まぁ押しに弱いのは事実なんだけど……」
「てか犬飼って名前みたいなのが好きなんだな。もっと面食いなのかと思ってたけど、ふーん、なかなか趣味いいじゃん」
 犬飼も名前も自分より年上であるということを一切感じさせない、仁礼のふてぶてしさ溢れる物言いに、名前は苦笑を隠しきれない。
(というか私はともかく、仁礼さん、犬飼くんのことも呼び捨てなんだ……)
 犬飼と同学年の名前ですら、犬飼を呼び捨てにする勇気はない。もっとも名前は他人を呼び捨てにすることなど滅多にないし、反対に仁礼はたいていの同年代の相手をあだ名か呼び捨てで済ませる。だからこういうことは、これまでにも何度もあることだった。
 仁礼の何にもとらわれない自由さに、名前はつくづく感服する。そういう仁礼のことが好きで、名前は仁礼を慕っているのだ。
 正反対ともいえる性格をしているふたりだが、その付き合いは長い。仁礼と名前の出会いはボーダー入隊前まで遡る。
 当時名前と仁礼は近所に住んでおり、名前は一学年下の仁礼の明るさに憧れていた。仁礼もまた、その大らかさでもって、名前という年上の崇拝者を懐広く受け容れた。
 以来、名前の実家が転居した現在に至ってもなお、ふたりの交流は続いている。名前が仁礼を「仁礼さん」と呼ぶのは、仁礼に憧れ、彼女を慕っているためだ。
 引っ込み思案の名前がボーダーに入隊したのも、元はと言えば仁礼の後をついていっただけだった。ただしふたりともオペの道に進んだ時点で、一緒に隊を組む道はなくなった。結局戦闘に馴染むことのなかった名前は、早々に転属し、裏方へと引っ込んだ。もともとの性分を考えれば、おさまるべきところにおさまったともいえる。
 閑話休題――
「いいんじゃねーの? 犬飼」
 カップに残っていたコーラをずごごっと一気に吸い上げて、仁礼はお気楽にコメントした。名前はむっと眉根を寄せ、じっとりと仁礼を睨む。
「仁礼さんはまたそういう、根拠のないことを」
「名前のうじうじしたところ、引っ張ってくれそうだし。面倒くさいときはずばっと切り捨ててくれそうだし」
「た、たしかに……」
 ほとんど何も考えていなさそうなコメントのわりには、かなり的確にポイントをついている。名前がうっかり納得してしまい、仁礼はけらけらと陽気に笑った。
「てか、だめなら別れればいいじゃんか。ボーダー内で気まずくなったとしても、名前は戦闘員やオペじゃないんだからそこまで気にすることないって。お互い避けあってれば顔合わせずに済ませるくらい楽勝だろ」
「今更だけど、仁礼さんのそのポジティブさ、本当にすごいよね」
「名前が根暗すぎんだよ」
 暴言にも近い台詞だが、仁礼から言われる分には気にならない。仁礼と比べれば自分の性根が暗いことくらい、名前も重々承知している。
(それに実際、仁礼さんの言い分って一理あるんだよね……)
 仁礼ほど軽やかに考えることはできないが、だめなら別れればいいというのが正しいとは、名前も思った。顔を合わせないようにすることも、そう難しいことではないはずだ。
 名前と犬飼の接点は、高校のクラスが同じこととボーダー所属であること。高校はもうじき卒業してしまうし、ボーダー本部で顔を合わせることも、本来働いている区域が違うのだからそうそうないはずだ。今は犬飼が名前を追いかけているのでたびたび顔を合わせるが、それさえなくなれば、まったく顔を合わせないようにすることも不可能ではない。
 地下の倉庫で和解して以来、名前と犬飼は程よい距離と関係を維持している。噂に尾鰭がついていたのは想定外だったが、犬飼本人はいたって適切な態度で名前との距離を縮める努力をしてくれていた。
 クラスで会えば話もするし、連絡もそれなりに取り合っている。防衛任務や訓練の隙間を縫って犬飼が送ってくるメッセージは、常に名前が返信しやすいよう配慮されていた。
 互いの時間が合えば、一緒に食事をとることもある。さすがにボーダー本部内のラウンジや食堂では周囲の目が気になるので、もっぱら施設外に出ていくか、あるいは地下の倉庫などの人気ひとけのない場所を選ぶことになるが、それだって慣れてしまえば少しも気まずく感じなかった。
(相変わらず犬飼くんは掴みどころがないけど、話してみたら普通に良い人だったしなぁ)
 ここ暫くのことを思い返し、名前はしみじみと感慨にふける。
 この短い期間に、犬飼はすっかり名前の防壁を崩してしまった。あれだけ強固に築いたはずの防壁を、犬飼はゆっくり丁寧に、一枚ずつ削ぎ落とす。名前を傷つけないように、これ以上名前が壁の奥に引っ込まないように、犬飼は常に最善の一手を打ってくる。
 そのことに気付いていながらも、名前は犬飼に対してされるがままになっていた。警戒心を再度呼び起こすこともない。防壁の奥に少しだけ引っ込むことすらしていない。
 名前だって、本当はとっくに分かっている。名前は間違いなく、犬飼に惹かれつつあるのだ。だから今の距離間を心地よくすら感じてしまい、抵抗する気をなくしている。
 本当は地下で和解をした日から、薄々気付き始めていた。これまではただ、闇雲に目を瞑って気付かぬふりをしていただけだ。
(だけど、付き合うとなると……)
 臆病さが首をもたげ、たちまち逃げを打ってしまう。犬飼の心が名前に向いていることは分かっているのだから、あとは名前が犬飼の方に一歩踏み出せばいいだけの話なのだ。それだけで、きっとすべてが丸くおさまる。
 けれど肝心のその一歩を踏み出す勇気が、名前にはない。
「もしかして名前、まだ昔のこと引き摺ってんの?」
 名前の表情がくもったことに気付いた仁礼がぼやく。名前は気まずげに視線を彷徨わせ、
「昔っていったって、そんなに前のことじゃないよ……。入隊の前の、中学の終わりくらいのことだから、まだ三年経ってないくらいじゃない……?」
 ごにょごにょと言い訳のように返事をした。仁礼が視線を上げ、何か思い出すかのような仕草で宙を睨む。仁礼が何を思い出そうとしているのか、相対する名前には容易に想像がついた。
 中学までは仁礼と同じく地区の公立中学に通っていた名前は、進路も決まり卒業を控えた頃、同じクラスのある男子生徒から嫌がらせを受けていた。相手は男子からも女子からも人気がある、いわゆるモテる生徒だった。
「頭もよくて人あたりもよくて人気もあってって、たしかに犬飼っぽさあるけど。でもあいつと犬飼、そこまで似てない気もすんだよなぁ」
「分かってる……、というか、比べたら犬飼くんに申し訳ないくらいだよ……」
「性格が終わってたんだっけ?」
「私の前でだけね」
 溜息を吐く名前。嫌がらせを受けていたのは、中学三年の最後の二か月くらいだけだ。それまで特に揉めることもなかった相手がどうして変わってしまったのか。その心当たりならば名前にもある。
 その当時相談相手だった仁礼もまた、その辺りの事情は知っている。
「告白断ったら悪口広めるって、まじでしょうもないやつだな。そんな男の風上にも置けねーやつ、アタシなら一発なぐんないと気が済まねーよ」
 我がことのように鼻息荒く言う仁礼に、名前の心は少しだけ軽くなる。
「私も仁礼さんみたいだったらなぁ」
「褒められてる気がしねーんだけど!」
「褒めてる褒めてる。称えてる」
「そうか? わはは、もっと褒めていいぞ」
 ころりと機嫌をなおす仁礼に、名前も表情をゆるめた。過去のこととはいえ、自分のせいで仁礼を怒らせたくはない。一方で、名前と違って素直に怒ってくれる仁礼がいるから、名前は多少落ち込むだけで済んでいる。
(犬飼くんと、あの時のあのひとは違う……)
 少なくとも、犬飼は名前を傷つけようという意図で動くことはないだろう。噂を広められたときにはさすがに恐ろしくも思ったが、その件については犬飼から謝罪もあった。
 何より、どういう意図で犬飼がそうしたのか、名前にも大体の事情は理解できる。傷つけることが目的でないのなら、くだんの彼と犬飼はその時点で大きくかけ離れている。
 仁礼がストローでコーラを吸い上げた。カップ内に残っていたのは、溶けかけの氷と薄まったコーラだけだ。仁礼が不機嫌そうに口をとがらせた。
「仁礼さん、なんか飲み物いる?」
「んー、いや、もういいや。このあとカゲんちのお好み焼き食べ行くし。名前も行く?」
 問われ、名前は逡巡した。仁礼と親しくしている縁で、影浦隊とはときどき話すこともある。隊長の影浦は無愛想で怖いが、仁礼の隊の隊長が悪い人であるはずがないと思い接しているうちに、今では多少打ち解けた。
 本部で会えば世間話もするし、実家のお好み焼き屋に仁礼と一緒に連れて行ってもらったこともある。多分今日も仁礼についていったところで、嫌がられはしないだろう。
 しかし名前は、短い思考のすえに首を横に振った。
「いや、私は今日はやめておくね。カゲくんたちによろしく伝えてください」
「任せとけ」
 にししと笑った仁礼を見て、名前は犬飼とのことも仁礼に話せてよかったと、改めて実感した。

 先に店を出た仁礼を見送って、名前はふたたび席に戻る。店内はそれほど混みあっておらず、適度な騒々しさがかえって丁度いい。今日はシフトも入っていない。せっかくなので、ここで学校の課題を片付けてから帰ることにした。
 仁礼が帰り空いたスペースにトレーをよけ、テーブルにノートと参考書を開く。ノートの上に身を乗り出し、視線を参考書に滑らせ始めたところで、
「名前ちゃん」
「ひえっ!?」
 突如声を掛けられて、名前は悲鳴をあげた。声の出所はどこかと首を巡らせると、名前の背後に置かれたパーテーションがわりの人工観葉植物の向こうから、犬飼がひょこりと首を伸ばしている。
「あ、あわわわわわ犬飼くん……」
「やっほー。名前ちゃんもご飯食べに来てたの?」
「いや、あの、私は、お茶を」
 仁礼さんと一緒に、と名前が続ける前に、
「あ、席そっち移動していい?」
「え!?」
「お邪魔しまーす」
 犬飼が自分の荷物とトレーを持って、名前の席へ回り込んでくる。名前の返事を聞かない強引さは、断られることなどないと確信しているようだ。
 名前は慌ただしく、テーブルの上に広げていた筆記用具を手元に引き寄せた。結局、犬飼が移動してくるのに一役買ってしまっている。押しに弱いという仁礼の言葉を思い出し、なんとも言えない気分になる。
 ついさっきまで仁礼が座っていた席に腰をおろした犬飼は、
「俺も課題やってたところ」
 名前のノートを指さし言った。
「夜の防衛任務まで時間あるし、ここで課題やっちゃおうと思って。ラウンジ人でいっぱいだったし、作戦室は来客予定があって居づらくてさ。名前ちゃんもう課題終わった?」
「え、いや、まだ」
「まあ明後日までの課題だし、どうにかなるでしょ」
 暗に、今は課題をやらせないと言われている。犬飼も課題を取り出すつもりはないらしく、テーブルの上に腕を組んでにこにこと名前に視線を送っていた。もしかするとこのまま防衛任務の時間まで、時間を潰すのに付き合わせるつもりなのかもしれない。
 名前の背を、冷たい汗が伝う。
 お互いをもっと知り合うため一緒に時間を過ごすうちに、名前もだんだんと犬飼に慣れてきた。今はもう、こうして向かい合っていても気まずく思うことはない。だが、今は慣れとは無関係に、胸がはげしく鼓動を打っていた。
(さっきの話、犬飼くんに聞かれた……?)
 仁礼との会話はどれもこれも、犬飼にだけは聞かれたくない話題のオンパレードだった。一体いつから犬飼がそこにいたのか知らないが、パーテーションを挟んですぐ背後にいたということは、話している内容がすべて筒抜けだったとしてもおかしくない。
 パーテーションは高さがあって相手の姿を隠してくれるというだけで、内緒話を隠してくれるほどの厚みや幅を持っているわけではない。ことさら声をひそめていたわけでもない。名前は顔を蒼くして犬飼を見つめた。

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