恋の衝突地点

 名前がゆっくりと目蓋を開くと、段ボールと無機質な倉庫の壁、天井ばかりの室内風景が、すぐさま目に飛び込んできた。それほど深く眠らずにいたのだろう。目の前に広がる景色に、すぐに頭が働き始め、眠る前の状況を思い出す。
 仕事を終えて疲れ果て、ひと休みのつもりで潜り込んだ地下の倉庫で、たまたま諏訪と一緒になった。諏訪とは小佐野を介した知人であり、特別親しいわけではないものの、何度か世話になったこともある。
 どうやら名前は、諏訪に話を聞いてもらううちに眠ってしまったらしい。そこでようやく、名前は自分が隣に座っている人物の肩を借りていることに気が付いた。
「すみません諏訪隊長、私ものすごく失礼なこと――」
 慌てて身体を離し、隣で肩を貸してくれていた人物に向き直る。そして名前は絶句した。
 諏訪がいるとばかり思っていたそこにいたのは、にこにこと愉しそうに笑っている犬飼だった。
「あ、起きた?」
 平然としている犬飼に、名前は意味が分からず混乱する。諏訪は一体どこへ行ったのか。犬飼はいつからここにいるのか。いや、そもそも一体どうして、犬飼がここで名前に肩を貸しているのか。
「えっ、あ……え!? なん、な、なん、なんでいにゅっ!」
「あはは、噛んだ。おはよう、名前ちゃん」
 けらけら笑っている犬飼に、名前はしだいに血の気が下がっていくのを感じていた。
 もしかして諏訪だと思っていた人物は、最初から犬飼だったのだろうか。まさかそんなことがあるはずないのだが、そうでなければ名前が寝ている間に諏訪と犬飼が入れ替わったことになる。諏訪には犬飼とのことをさんざん相談したあとだ。にも関わらず犬飼と入れ替わるなど、諏訪らしからぬ鬼畜の所業としか思えない。
(諏訪隊長に限って、意味のない嫌がらせをするとは思えない、けど……)
 顔を俯けていてもなお、犬飼からの視線を痛いほどに感じる。名前の全身が、ぶるぶるとおこりのように震えた。
「なん、なんで、諏訪隊長は、」
「諏訪さんなら用事があるって言って、先に地上うえに戻ったよ。さすがにこんなところに名前ちゃんひとり寝かせておくわけにいかないから、おれが諏訪さんの後引き継いだんだ。あ、おれがここに来たのはたまたま」
 倉庫内には時計がないので、正確にはどのくらいの時間ここで眠っていたのか分からない。だが忙しい諏訪に代わって、通りすがりの犬飼が名前が起きるのを待つ役を買って出てくれたというのは、十分にあり得ることだった。
 ということは、名前は犬飼に感謝し、謝罪する立場。怯えおののくなど言語道断だ。
「す、すみませんでした……!」
 大慌てで土下座しようとした名前を、犬飼が腕を伸ばして制した。
「そんな大袈裟にリアクションしなくても」
「いや、でも、」
「どちらかといえば、謝られるよりお礼を言ってもらえた方が、おれとしては嬉しいかな」
「……ありがとう、犬飼くん」
「まあ、おれも名前ちゃんとふたりきりになれて嬉しかったし。寝顔まで見られて役得」
「っ!」
 呼吸をするように口説かれて、名前は息を呑んだ。少しだけ見直したのも台無しだ。
 大体、元はと言えば名前が地下倉庫に逃げ込んでいるのも、諏訪の目の前で寝落ちしてしまうほど心労を抱えていたのも、すべて犬飼のせいとも言える。
(やっぱ感謝するんじゃなかった……!)
 気付いた瞬間、がくりと全身から力が抜けそうになる。が、あいにくと名前には脱力するほどの余力すら残っていなかった。そうした力はすべて、犬飼の振りまいた噂によって削り取られている。
 それでも短時間の仮眠をとったことで、どうにか最低限の気力と体力は回復した。名前は立ち上がり、急いでこの場を立ち去ろうとする。すでに俺も謝罪もお礼も済ませている。名前がこの場にとどまらなければならない理由はひとつもなかった。
「それじゃあ、」
「待った」
 すかさず犬飼が、腰を浮かせて名前の手をとる。不意打ちで肌と肌がふれあって、名前は「ひえっ」と悲鳴を上げた。反射的に腕を引く。
 ほんの一瞬、犬飼の表情が強張った。しかしその強張りも、まばたきひとつで消え去る。犬飼が、ぐっと手に力を込めた。名前が腕を引いても犬飼の手はびくともせず、腕が抜ける気配はない。
 名前の手首をとったまま、犬飼は名前を上目遣いに見た。冷たく澄んだ色の瞳にじっと見つめられ、名前の喉がごくりと鳴る。緊張が、名前の胸からじわりとせり上がる。
「ごめんね、名前ちゃんがおれと話したくないのは分かってるんだけど」
「……そんなことは」
「ない? じゃあ今から少しだけ、おれとの話に付き合ってくれる? 寝てる名前ちゃんをひとりにしなかったことへのお礼はおしゃべり、ってことで」
 腰は低いが、名前が断りづらいように提案してくる。犬飼に転がされているのは明らかだ。それが分かっていても、名前は頷くしかなかった。頷かなければいけないように、犬飼に誘導されていた。
「うっ、……はい」
「はい、じゃあここに座ってね」
 途端にごきげんになって、犬飼は自分の座っているすぐ隣――先程まで名前が座っていた場所を視線で示す。まだ名前の手首を離しはしない。名前が座るとようやく、名残惜し気に手を離した。
 犬飼からやや距離をとって座った名前は、注意深く犬飼の様子を探る。とはいえ犬飼の顔を直視するのは気が引けて、犬飼の指先だとか、あぐらをかいて突き出している膝だとか、そんなところばかりに視線がいってしまう。隊服の黒スーツを纏っている犬飼は、高校で見かけるよりも大人びて見える。
「今更だけど寒くない? 床に座ってると、結構身体冷たくなりそうだね」
「大丈夫。犬飼くんは……?」
「おれはトリオン体だから平気だよ」
「そっか……」
 会話がうまく膨らまず、沈黙が落ちた。会話の最後を名前が引き取ったので、うまく会話できない申し訳なさのような感情が、名前の胸に降り積もる。犬飼はきっとそんなこと気にしていないのだろう。分かっていてもなお、自分の口下手が嫌になる。
 名前が黙っているうちに、ふたたび犬飼が口を開いた。
「名前ちゃんはここの倉庫、よく来るの?」
「うん。もともとよく、仕事で使うから」
「仕事って、メディア対策室の?」
「作ったグッズの在庫とか置いておくんだよ。ほら、あそこの段ボールとか」
 名前は正面の段ボールの山を指さした。段ボールの側面には油性の極太ペンで『嵐山隊 アクキー予備』と走り書きされている。
「そういえば名前ちゃんの仕事って、おれあんまりよく知らないな。メディア対策室っていうから、広報みたいなことしてるのかと思ってたけど。名前ちゃんはテレビに出たりとか、そういうことはしないの?」
「うーん、そういう目立つ仕事はもっと華があるというか、目立つ人たちがするものだからね……。私はグッズの企画開発とか、そういうお仕事の手伝いをさせてもらう方が多いよ。というか、そっちがメイン」
「ああ、それで名前ちゃん、嵐山さんや木虎ちゃんとよく話してるんだ」
「嵐山隊はグッズ登板率が高いから」
「じゃあうちの隊のグッズを出すってなったら、おれも名前ちゃんと仕事することになる?」
「私以外にも担当の人はいるし、私は雑用みたいなものだから確実ではないけど、でも、少しくらいの接点はできるかも」
 名前はまだ学生だから、どのような仕事であっても主戦力となることはない。しかしその分、いろいろなところで雑務を担っている。
「というか、名前ちゃんって最初からメディア対策室希望で入隊したの?」
「そういうわけじゃないんだけど、ボーダーでいろんなお仕事の人見ているうちに、私がやりたいのってこっちだよなーと思って。転属願い出して、結構無理言ってお願いしたんだ。下っ端の中央オペが根付さんにアポとるの大変だから、諏訪隊長に協力をあおいだりして……。でも転属願いだして良かったと思ってるんだよね。あのままオペやっててもそんなに役に立ったと思わないけど、今のお仕事は下っ端なりにいろいろ任せてもらえて楽しいし」
 好きな仕事の話になり、知らず名前は饒舌になっていた。いつのまにか犬飼は相槌を打つだけになっている。だんだんと血の気が失せていた名前の顔に赤みが戻ってくる。
「名前ちゃんは、今の仕事が好きなんだ」
 穏やかな声で、犬飼が尋ねた。
「そう! それはもう!」
 犬飼の問いに、名前は微笑んだ。座ったままで、犬飼の方に顔を向ける。
 犬飼の瞳に、名前の顔が映りこんだ。犬飼と視線が絡む。その瞬間、名前ははっと我に返った。
 名前は慌てて犬飼から視線を逸らした。
(しまった、相手が犬飼くんだってこと、完全に忘れてた)
 浮き上がっていた気分が、急速に萎んでいくようだった。夢中になると相手のことが見えなくなる、自分の幼稚さに羞恥心が沸き上がる。学校のことや世間話くらいならばともかく、こんなふうに自分の個人的な話を打ち明けるのは、名前にとってそうあることではなかった。それをよりによって、犬飼相手に嬉々として語ってしまうとは。
 身体の前で組んだ手を、ぎゅっと握りしめる。こうやって結局毎度犬飼のペースに乗せられてしまうから、だから二人きりにならないように避けていたのに。特に今は時期が悪すぎる。こうしてふたりでいるところを誰かに見られでもしたら、噂にさらに尾鰭が付いてしまうのは間違いない。諏訪ならば余計なことは言わず黙っていてくれるだろうが、いつまでもここに犬飼と名前以外の人間が来ないとも限らない。
「私ばっかり話してごめん、その、つまんない話だったよね。私、そろそろ、」
「おれのせいで、迷惑かけてごめん」
 急き立てられるような名前の言葉。それを遮る犬飼の声に、名前は一瞬、自分が何を言われたか分からなかった。一拍遅れて、それが謝罪だと理解する。
「え……?」
「いろいろ噂されたり注目されるの、名前ちゃん苦手だったでしょ。分かってて噂立てたのはおれだけど、そこまで思いつめさせると思わなかった。だから、ごめん」
 素直に吐き出された謝罪に、何と答えるべきなのか分からなかった。
 たしかに無責任な噂には困っている。メディア対策室で働いているのは名前以外はいい大人ばかりなので、浮ついた噂にいちいち言及してくる同僚はいない。だが若年層が多く、犬飼を慕うものも多い隊員のなかには、名前にこれみよがしな視線を向けてくるものも多い。だからこそ、名前はすっかり参ってしまっていたのだ。
 だが、こうして面と向かって謝られてみると、不思議と犬飼に対する屈託のようなものは、それほど感じないのだった。たしかにあったはずの胸の中のしこりが、いつのまにかほどけている。謝られたから許した、なんて単純なものではないはずだが、この期に及んでなお許さないと言い張れるほどの不快さは、すでに名前の中にはどこにもなかった。
 犬飼は沙汰を待つかのように、じっと沈黙を守っている。黙りこくる犬飼を直視しないよう視界の端に映して、名前はゆっくりと深呼吸した。そして、
「……犬飼くんは」
「ん?」
「犬飼くんは、私のことが嫌いなのかと思ってた」
 思い切って、かねて抱いていた所感を口にする。途端に犬飼が、狼狽えたように身じろぎした。
「え? 待って、なんで? おれ何かした?」
「というか、今もまだ少し、嫌われてるのかなと思ってる」
「いやいやいや、なんでそうなっちゃうのかな」
「だって犬飼くんに嫌われそうな理由ならいくつか思い付くけど、好かれる理由なんてひとつも思い付かないから」
 あまりに卑屈な言い分に、自分で言っていて情けなくなった。それでも、思ったことをなかったことにはできない。
 犬飼に好かれていることを無条件に信じられるほど、名前は自分に自信を持っていない。誰彼構わず嫌われる人間ではないが、だからといって特別好かれることもない。
(それに私は、犬飼くんみたいにうまく立ち回る人間には、軽んじられやすい性格をしているとも思うし……)
 そういう自覚が名前にはある。そしてそのことを、特別嫌だと思ったこともなかった。
 自分は犬飼のように特別な人間ではないし、ボーダー内においては数多いる駒のひとつに過ぎない。それを悪いことだと思ってもいない。
 だからこそ、駒のひとつではなく特別な存在だと言われると、逆にどうしていいのか分からない。意味が分からなくて、怖くなる。
 犬飼は「ううん、困った」と苦笑した。わずかに身体をかがめると、首を傾げて名前の顔を横から覗き込む。
「それって、おれが今ここでひとつずつ、名前ちゃんの好きなところを発表すればいいってこと?」
「え!? なんで、やめてほしい!」
「いや、今のは振りかと思うでしょ」
「そういうんじゃないよ……」
 力なく答えて、名前は膝に顔を埋めた。犬飼からの視線が、ちくちくと頭の横に刺さっている。
(面倒なやつ、鬱陶しいやつだと思われたかな)
 もしもそう思われていたら、少し悲しい。そんなことをふと考えて、その思考こそがもっとも面倒くさくて鬱陶しいのだと自省する。犬飼に好きと言われて困っているはずなのに、面倒だと突き放されたら悲しくなるなんて、面の皮が厚いにも程がある。
 天井を走る換気ダクトが、細く震える空気の音を響かせる。やがて犬飼が、ゆっくりと口火を切った。
「おれがいくら好きだっていっても、もしかしたら今の名前ちゃんには届かないのかな」
 問いともつかない犬飼の声に、名前はのろのろと顔を上げた。そっと犬飼の方に顔を向ける。犬飼もまた、名前の方に顔を向けていた。
 視線がぶつかり慌てる。今度は犬飼の方から、視線を横にずらしてくれた。名前を気遣ったのだろう。
「それじゃあ、……嫌いじゃないって言葉なら、名前ちゃんにもちゃんと届く?」
 今度ははっきりと、問いの形になっていた。逡巡ののち、名前は頷く。嫌いじゃない、という言い分なら、名前にもすんなりと受け容れることができた。
「おれは名前ちゃんのこと、嫌いじゃないよ。嫌いになんてならない」
 確認するように、犬飼が言葉を重ねる。
「どう? これなら信じられる?」
「……信じたいなとは、思うよ」
「ありがとう」
 犬飼の苦笑に、名前は居心地悪げに膝頭を擦り合わせた。嘘ではない。信じたいという気持ちは、間違いなく名前の本心だった。
 あの犬飼が、ここまで名前のために心を尽くしてくれている。耳障りのいい言葉ではなく、名前が受け容れやすい言葉を慎重に選んでくれている。強引な方法で名前の気を引こうとするのではない。きちんと名前の方を向いた、名前のために考えられた気持ち。
(この優しさが、揶揄からかってるだけの気まぐれだなんて、思いたくない)
 名前の胸にじんわりと、あたたかいものが広がる。胸がぎゅっと切なくなった。その感覚を閉じ込めるように、名前はぎゅっと膝を抱えなおす。
 もしも今、名前の胸の中身をぱかりと開き、犬飼に見せることができたなら。そうしたら名前自身不慣れなこの感覚に名前を与えることくらい、犬飼にはきっと造作ないことだろう。名前は犬飼が正面ではなく横にいてくれたことに、ひそかに安堵する。
「ねえ名前ちゃん」名前の胸中を知りもせず、犬飼が名前を呼ぶ。「おれは名前ちゃんのことが好きだよ」
「そ、れは……」
「うんうん、まだ受け容れられないんだよね」
 薄い微笑みを貼り付けて、犬飼は名前に笑いかけた。
「だから、おれのこと安心して信じられるように、おれのことを知ってよ。おれも名前ちゃんのこと、もっといろいろ教えてほしいしさ。いろんな名前ちゃんを知ったうえでの好きって言葉なら、名前ちゃんも信じられるんじゃない?」
 たしかに名前は、犬飼のことをあまりに知らなさすぎた。どうして犬飼が自分を好きになったのか以前に、同じクラスの人気者の男子という以上の犬飼について、名前はまったく情報を持っていない。
「……たぶん」
「そういうことなら、まずはお互いに相手を知り合おう。今からでも遅くない?」
 躊躇いながら、名前は頷く。犬飼が満足そうに、目を細めた。
「ということなら、今日のところはまず連絡先の交換からかな」
 そう言うなり犬飼は、手慣れたふうに携帯を取り出した。

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