走るような恋情

 犬飼にボーダー本部の廊下で絡まれた日から、さらに一週間後。名前はへろへろと力ない足取りで、地下通路におりる階段をくだっていた。
 ボーダー本部の建物は、市街地のなかに置かれた施設としては、類を見ないほどの巨大さを誇る。同階層の移動も一苦労だが、建物内での上下移動も多い。隊員は普通エレベーターを利用するが、名前は時間があるときには、エレベーターではなく階段を使うようにしていた。
 理由は単純で、エレベーターと違って利用者の少ない階段ならば、人とすれ違ったり待たされることも少ないからだ。
 地下は、用途や使用部署によってざっくりと区画分けされている。メディア対策室用倉庫がかたまっている区画に到着すると、名前はそのうちのひとつの扉を開いた。
 無人の倉庫はひやりと涼しい。壁に沿うようにして大小の段ボールが並んでおり、部屋の床の半分以上は埋まっていた。天井に換気用のダクトが走っている。換気扇が静かに唸る音が、耳が痛いほどの静けさをまぎらわしていた。
(なんだか、どっと疲れたな……)
 疲弊しきった身体で倉庫に入る。扉のすぐ横に照明用の操作盤とリモコンがついており、名前はリモコンを手にとった。明かりをつけてすぐ、名前は壁を背にして、ずるりとその場に腰をおろした。おしりの下に床の冷たさを感じる。トリオンでつくられた建造物とはいえ、感触はコンクリートと大差ない。
 ボーダー入隊後、転属を経て現在の職場に辿り着いた名前は、今の仕事こそ天職だと思って働いている。だから学生生活とボーダーの二足の草鞋を履くことに苦痛はないし、多少仕事で無茶をしたところでここまでの疲労を感じることは滅多にない。
 今名前が疲れ切っているのは、仕事や学校のこととは別の理由からだった。
(犬飼くん、本当何考えてるの……)
 抱え込んだ膝に額をこすりつけ、名前は溜息を吐いた。
 現在ボーダー内で、浮ついた噂が流れている。曰く、「B級一位部隊の犬飼が、内勤の苗字名前に一方的な片思いをしてはすげなくされているらしい」という噂だ。実際、何一つ間違ってはいない。名前からすれば犬飼の告白は面白がってやっているとしか思えないが、それでも犬飼は名前に告白しているわけだし、名前は犬飼の告白を拒み続けている。
 噂の発生源がどこかは知らない。だが十中八九、犬飼が自分でぺらぺら話しているだろうことは、名前にも想像がついていた。犬飼の人あたりの良さは、悪くいえば軽佻浮薄ともみえる。推察するに、恋愛の話をするのも嫌いではないのだろう。犬飼の人好きする性格を考えれば、噂が広がれば広がるほど、犬飼を応援する人間は増えるに違いない。
 名前にとっては、たまったものではない。
 ただでさえ注目を集めることが苦手な名前だ。名前のこれまでの人生で、ここまで他人から注目を浴びたことは一度もなかった。それも、名前にとってこれ以上ないほどの、不本意な注目だ。名前の精神が擦り切れる寸前なのも当然のことだった。
 今の時間、ラウンジにもボーダーの出入口にも、どこにいっても隊員がいる。このまま家に帰るのではなく、少しこの倉庫で時間をつぶしてから、こっそり帰る予定だった。
(それにしても、犬飼くんの考えてることが分からなさすぎる……)
 疲れ果てた名前の頭の中は、とろりとした液体を流し込まれているように鈍い動きしかしない。働かない頭でぼんやりと、名前は犬飼のことを考えた。普段犬飼のことは考えないようにと自分を律しているせいで、思考の自制がきかなくなった途端に、頭の中は犬飼のことで埋めつくされていく。
(一体どうして、犬飼くんは突然私のことを好きなんて言い出したんだろう)
 接点の少ない相手を好きになるといえば、ぱっと思い付くのは外見が好き、あるいは一目惚れ。しかし名前は外見で損も得もしたことがない程度の、ごく一般的な容姿をしている。男女問わず人気がある犬飼のめがねに敵うとは、到底思えない。
 六頴館高校に通う程度の学力はあるが、だからといって特別頭がいいわけでもない。そもそもボーダーで正隊員をしている犬飼のまわりには、頭のいい人間などたくさんいるはずだ。そこから落ちこぼれた名前に、目を掛ける理由がない。
 考えれば考えるほど、犬飼が自分の何を気に入っているのか分からない。箸にも棒にも掛からないような裏方の名前に片思いして袖にされているなんて、そんな自分の不名誉な噂を流すほどのどんな理由が、あの犬飼にあるというのだろう。
 名前が思考の迷路に迷い込んでいると、ふいに金属の軋む鈍い音がした。腰を上げるのが億劫で、名前は緩慢な動作で首をめぐらせ扉の方を見た。
「あ?」「あ」
 少しだけ驚いたような三白眼と目が合う。入ってきた人物を見て、名前は「おつかれさまです」と頭を下げた。

 ・

 地下倉庫の重たい扉を開けて中を覗いた瞬間、犬飼は思わずへらりと笑って「えぇ?」と声をあげた。その声には、緊張感も不平不満も滲んでいない。が、犬飼が意識的にせよ無意識にせよ声を出したという時点で、それが犬飼の胸のうちを反映したものであることはたしかだった。

「苗字さんを地下の倉庫につづく通路で見かけた」
 顔見知りの隊員から犬飼がそう聞いたのは、つい先程のことだった。名前が仕事の時間外に地下の倉庫にたびたび休憩を取りに行っていることは、犬飼も以前から知っていた。もちろん、そんな個人的なことを犬飼に知られているだなんて、名前は夢にも思わないだろう。犬飼の観察と情報収集は、名前の想像をはるかに超えている。
 だからその情報をもたらされたときに、犬飼には特別不審に思う気持ちはなかった。ただ相手の隊員の表情がいやに複雑そうだったのが、犬飼にとって気になるといえば気になることではあったが、それは目下、自分が噂を広めに広めたことによる些細な影響だろうとばかり思っていた。
 まさかこっそりと訪れた地下の倉庫で、名前が諏訪とふたりきりで、それも諏訪の肩を借りて、ぐうぐう寝ているとは思いもしなかった。
「よぉ、犬飼」
 地下のひややかな空気に、わずかにひそめた諏訪の声が響く。犬飼は足音を立てないよう気を付けて、名前と諏訪が座っている壁際まで歩いていった。天井の照明は視界を保証しているものの、地上階ほどの明るさはない。諏訪のすぐそばに小ぶりなリモコンが置かれていることから、眠ってしまった名前のため、諏訪が明かりを少し落としたのだろうと犬飼は推察した。
 名前の前までやってきた犬飼は、そっとその場にしゃがみこむ。固く目を瞑った名前の寝顔は、安らかというには程遠い。いつもより血色が悪く見えるのは、淡い照明のせいか、やや顔を俯けていることで前髪が顔にかかってできたかげのせいか。あるいは名前が現在置かれている状況のせいかもしれなかった。
 そんな寝顔を見ていれば、犬飼とてまったく胸が痛まないわけではない。けれどもその小さな痛みを表に出すことなく、犬飼はしゃがみこんだまま、視線を名前に肩を貸している諏訪へと移した。
「いやいやいや、『よぉ』じゃないですよ。なんで諏訪さんがここに? ここ、名前ちゃんが逃げ込むのによく使ってる倉庫ですよね」
「おめーも知ってたのか」
「諏訪さんも知ってたんですか?」
「まあ、人目につかずにさぼれそうなとこ探すようなやつは、大体同じようなとこに目ェつけるだろ」
 悪びれた様子もなくいう諏訪に、犬飼は口許だけで笑う。人望あつい諏訪の周りには、隊を問わず人が集まっていることが多い。そんな諏訪が、人目につかない場所を求めているとは思いもしなかった。
「諏訪さんには作戦室があるじゃないですか」
「作戦室は人目につかない場所じゃねえじゃねえか」
「……ここ、禁煙ですよ」
「吸ってもいねえよ」
 諏訪の舌打ちに、犬飼が笑う。なんとなくだが、諏訪の言いたいことも分かるような気がした。本当の意味でひとりで気を抜ける場所というのは、実際それほど多くはない。作戦室や自宅にしょっちゅう他人を招いている諏訪ならば、特にそう感じても不思議ではなかった。
 犬飼が納得したのを見て取ったらしい諏訪が、座ったままでそっと身じろぎした。その仕草には、眠っている名前への配慮がうかがえる。
「俺がここで休憩しようと思って来たら、こいつが先にいたんだよ。で、疲れた顔でへろへろしてっからちょっと話して、そしたら寝た」
「そんな赤ちゃんみたいな」
「どっかの誰かのせいで、よっぽど寝不足だったんだろ。見るからに神経細そうだしな」
 世間話のような口調で、耳の痛い話を振られた。犬飼はまっすぐに諏訪を見たが、諏訪はどうでもよさげに視線をずらしている。
(端から勝負する気もないってことか)
 犬飼は察し、ようやく息を吐き出した。長く重く吐き出された呼気は、それだけで諏訪の苦言への弁明のように響いた。
 名前と諏訪がどういう経緯で知り合いなのか、犬飼は知らない。犬飼が知る限り名前と接点がある隊員は、影浦隊と数人のオペレーターくらいのはずだった。
 犬飼が名前のことを観察し始めて、まだひと月ほどしか経っていない。それまで犬飼は、名前のことを気にも留めていなかった。せいぜいが、同じクラスにボーダーの子がいるな、と認識していた程度だ。
 だから自分の知らない名前がいるのはごく当然のこと。それなのに、名前のことを何も知らないというその事実に、犬飼は何とも言えぬ焦燥と狼狽を抱く。
「別に、こいつと個人的に親しいわけじゃねえよ。変な勘ぐりやめろ」
 諏訪が胡乱うろんな目を犬飼に向けた。
「え? 別に勘ぐってなんかないですよ」
「こいつ、仁礼と仲いいだろ。で、仁礼とうちのおサノが補習仲間だろ」
「……ああ、そういうことか」
「やっぱ勘ぐってんじゃねーか」
「やだなぁ、勘ぐってませんって。ただ納得しただけです」
「そうかよ」
 けっ、と諏訪が舌打ちする。犬飼はにっこりと笑顔をつくった。しかしその笑顔にも諏訪はいっそう呆れた顔をして、それからふいに呟いた。
「犬飼にしちゃ、まずったな」
 諏訪の声に、揶揄からかう色はない。いっそ揶揄われた方がまだ気分的に救いがあったな、と犬飼は思う。
「やっぱりまずったと思います?」
「そりゃそうだろ。やり過ぎると嫌われんぞ」
 何を、とは言わない。互いに分かり切っている。
「もう嫌われてるかもしれないんですけどね」
「嫌いだったら嫌いっていうだろ」
「言いますかね? 名前ちゃんが?」
「言わねえか。いや、言わねえな。ご愁傷様」
「諏訪さんひどいなぁ」
 流れで笑ってはみたものの、自分で思っていた以上に、犬飼の声に覇気はなかった。諏訪がほんの一瞬、犬飼に視線を走らせる。
 年長者としての心配は当然、あるのだろう。そしてその心配は、見るからに疲れている名前に対してだけではなく、目の前の飄飄とした態度を崩さない――崩そうとしない犬飼に対しても、平等に施されるものだった。
(おれ今、気遣われてるな)犬飼は思う。
 諏訪の気遣いは、犬飼にとってもっとも近しい年上である二宮のそれよりも、数段分かりやすく、なおかつ自然だ。普段の犬飼ならば相手を不愉快にしない程度に、そういう気遣いは受け流すだろう。人生相談は受けるものであって、自分が他人にするものではない。
 けれど今の犬飼は、諏訪の気遣いを素直に受け容れたかった。自分で思っているよりも、犬飼もまた弱っていたのかもしれない。それこそ、諏訪のように目配りのできる相手にしか気付かれない程度に、だが。
「嫌われるかもしれないとは思ったんですよね」
 暫しの沈黙を置いてから、犬飼が言った。
「それでも、名前ちゃんが直々におれのところに文句のひとつでも言いに来てくれれば、そこからどうとでもなるかなと思ってたんですけど。まさかこんなところに潜りこんで、そのうえ諏訪さんに美味しいところ持っていかれるとは。さすがにこれは想定してなかった」
「美味しいか? 重てえだけだぞ」
「その重さがほしいんですよ、おれは」
 犬飼は力なく笑った。
 犬飼には、自分がそれなりに器用に立ち回る自信がある。それこそ影浦のような特例でもなければ、嫌われたり引かれたりすることは、自分がそうなるよう仕向けない限りそうそうあり得ないことだと思っていた。
 名前のこととなると、犬飼は途端にうまく立ち回れなくなる。正攻法でいけば怯えられ、ならば搦め手と策を巡らせれば、余計に名前は犬飼から遠ざかろうとする。弁明も弁解も、信用なくしては意味がない。犬飼は今、名前からの信用をほとんど失っている状態だった。
(いや、今まで一度でも、名前ちゃんが俺を信用してくれたことなんて、あったかな)
 思い返せば、告白するよりもっと前、最初の出会いからして、名前は犬飼に対し壁をつくっていた。もしかするとそれは、犬飼と出会う以前の名前の経験によるものなのかもしれない。だとすれば、犬飼は最初から覚えのないハンデを背負わされているようなものだ。そのハンデを覆すのは、けして容易なことではない。
 地下の壁を伝うように、どこか遠くの物音が静かにこの倉庫まで響いてくる。三門市の地下に張り巡らされた地下道は、市民が思っているよりずっと広く、多くを収容している。
 その広大な地下空間のなかの、ひっそりとして忘れ去られたような倉庫くらいにしか逃げ場を持たない名前。そして今、そこに名前を追い込んでいるのは、ほかでもない犬飼自身だ。
 この手の恋愛相談を、きっと名前は同性の友人にも自分からはしない――いや、できない。犬飼の見立てでは、ごく親しい相手に話を振られでもしない限り、名前は自分が人から好かれているなんて話を、自ら吹聴することはない人間だった。まして、噂の相手がボーダー内でおそらく知らぬ者のいない犬飼ともなれば尚更だ。
 困り果てた名前が最終的に辿り着くのは、きっと自分しかいない――犬飼はそうとばかり思っていた。だからこそ、多少のリスクをおしてでも噂話を広げた。どのみち名前以外のボーダーの女子と、今後恋愛を絡めた関係になる予定はない。名前を困らせた計略の裏にあるのは、ひたすらに純然たる名前への好意だった。
 それなのに――
 本当はただ、顔を合わせて言葉を交わしたいだけなのに。たったそれだけのことが、こんなにもうまくいかない。
 知らず床に落としていた視線を上げ、犬飼は名前の寝顔を覗き込む。薄く開いたくちびるに視線を吸い寄せられ、こんなときでも下心が消えないことに苦笑した。
 どうしたら、名前を困らせずに好きでいられるのだろう。どうしたら、思い悩ませることなくそばに居続けられるのだろう。どうしたら。
「どうしたら名前ちゃんは、おれのこと好きになってくれるんだろう」
 自嘲と懇願のあわいにある犬飼の声に、諏訪は返事をしなかった。

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